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7年続けてみて、「学ぶことについて」考えてみる

 7年という歳月をかけて、1つのことをやり続けてきました。紆余曲折ありましたが、自分が1番最初に目指したゴールには辿り着きました。
 これまで折に触れて、振り返りを書いてきました。今回、その最終稿を書きたいと思います。

 僕がやってきたらくだメソッドについてはこちら↓

 話題が幅広くまた長くなるため、「学ぶことについて」「続けることについて」「全体の総括」の3回に分けます。1回目は「学ぶことについて」です。

「なぜ?」が学びの入り口

 2022/09/13らくだメソッドの高校単元を終えたました。
 学習を開始して、もうすぐ7年が経過しようとしています。小学2年生の単元から始めて、高校3年生までですから11年分の学習をしたことになります。学生のように勉強に専念するような環境ではなく、1日1枚を淡々とやってきました。
 数学をきちんと学びたい。もちろんその動機はありましたが、それ以上に自分自身と向き合う意図が強くありました。(なぜ算数・数学を学ぶことが自分自身と向き合うことになるのかは過去の振り返りを参照してください)

 今思うと不思議なのですが、僕が学生時代にやってきた勉強はなぜか戻る選択肢がありませんでした。
 わかっていてもわかっていなくても進む。おさらいの復習はあるけど、学び直しはない。とにかく先へ、先へ。

 それはさながら遊園地の冒険アトラクションのようでした。バーで身体は固定され、訳もわからぬまま、レールの上を運ばれていく。決められた出来事が予定調和に起きる。わかりやすさと楽しさには工夫が凝らされているので、与えられるまま受け取れて、楽しめた人は目を輝かせるでしょう。

 ただ、どこかの細部で気になってしまった人は、どうすればいいのでしょう?
 乗り物から降りて、好きなキャラクターをもっと近くで見たい。この空間でもう少し過ごしたい。その願いは、許されません。
 機械仕掛けの動物やキャラクター達の細部を見られたら、運営者からすれば世界観を壊すから都合が悪いからです。なぜこの動きがするのかを知りたいのに……。

 そんな経験を繰り返すうちに、好奇心を懐くことは不毛だと思いました。
 立ち止まることは後ろめたいものになりました。
 戻ることはいけないことだと、先入観が刻まれました。

 それを意識したのは、かつての振り返りでも書きましたが、初めて解答を見ながら問題を解いた時です。強烈な罪悪感に苛まれました。

 しかし、なぜ答えを見ながらやったらダメなのでしょう?
 わかるようになるためなのであれば、答えを見たっていいではないですか。

 その問いが生まれ始めた時、僕の学びは始まったと言えるのかもしれません。

アンラーニング

 手に入れるよりも、まずは不要なものを手放す。らくだメソッドを語る上で、アンラーニングは鍵になります。

 寺子屋塾の井上さんは、「泥水の中に水を注ぐようなもの」と例えていました。どれだけ綺麗な水(質の高いインプット)も、泥水に注げば濁ってしまう。だから、まずは泥水を捨てた上で(アンラーニング)、そこに水を注ぐのだ、と。

 ただ、実際のところそんなに簡単なものじゃありません。いくつもの壁が立ちはだかります。まず認知の問題。
 常識や先入観、癖というのは自分の身体に染みついたもので、体臭のように本人が意識することは困難です。自覚がないのですから、他者に「臭い」と言われてもピンと来ません。
 だから、記録によって外部化して、振り返りによって抽出することになります。自分に先入観が存在するのだと認め、受け入れるのはそれくらい大変です。

 そして、いざ手放す時の葛藤もあります。
 いわばゲームのセーブデータのようなものです。これまで自分がなんとか生きてきた証であり、確かに大事だったものです。
 今だってある一面においては、役に立っているかもしれません。それを手放すというのですから、惜しいと感じてしまうのも仕方ないです。「自分は〇〇だから」と予防線を張って傷つかないようにするための言葉が、また必要になるかもしれない。お守りのように持っていたい。だから、一旦捨ててもまた拾い直して、また捨ててを繰り返すのです。その果てにようやくなくても大丈夫だと振り切れる時がやってきます。

 このように、アンラーニングとは地道で泥臭いものです。そして、0から1を生み出す新しい挑戦と同じように、1を0にして現状を変えるのは、大きな決断になります。

「私が」を取り戻す

「私が選んだ」と心から思えることがどれくらいあるでしょうか?
 学ぶことに限った話ではありません。仕事や勉強、遊び。それは全て「私」が選び、行っていることだろうか?
 与えられて、駆り立てられて、仕方なくやっていないかだろうか?

 視聴率、売上ランキングなどと数字で表されると、なんとなく凄いと感じてしまいます。けれど、だれかが恣意的に作った一般論に過ぎません。「それだけ多くの人に求められているからすごいのだろう」と自分に暗示をかけないと価値がわからないのであれば、他者の掌の上で踊り続けるだけです。

 数字に現れない。
 なんの役に立つかわからない。
 だれもその価値を担保してくれない。

 それでも「面白い」「楽しい」「大事だ」と思うものが、本当に自分が大事なものなんじゃないでしょうか。そこから生まれる喜びも不満も、栄光も後悔も、全てが「私」が選んだ、あるいはその延長線上で起こったことです。

 たとえ、だれかがやれと言ったのだとしても、最後の最後で行動したのは「私」です。
 そこから逃げてはいけない。選択肢を自分が握っているうちは、「私」が変えられます。しかし、決定権すらも他者に委ねた瞬間、自分を変える機会を失ってしまいます。

 少なくとも7年前の僕は、自分の舵を握れていませんでした。今も完璧とは言えません。ただ、自分の人生の当事者として生きることが、以前よりも格段にできるようになりました。

 それはらくだメソッドの学習を通して、誰からも指示されず、報酬も罰も与えられないままやってきたからです。
 やるもやらないも、自分に全てが降りかかってくる。らくだメソッドを通して、責任を引き受けていく訓練をコツコツ積んでいったことで、僕は自分がやると決められるようになりました。
 ……いや、違うな。誰かのせいにしたって苦しいのは自分であることを、身を持って知ったのです。それなら、初めから自分が引き受けた方がマシです。

 学ぶということは、その連続なのでしょう。そこには意志と勇気、なによりも決断を日常化させるための継続が大事になってきます。

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