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心の眼|福田村事件について

福田村事件を観た。
終盤は呼吸することを忘れていたんじゃないかと思うくらいに全身がそのリアリティを受け止めていて、鑑賞後はいつもより少しだけ自分の心臓や脈の音がよく聴こえた。


100年前の話。
100年っていうと長いようで、人一人分の人生と同じくらいだから、ほとんど隣にいるみたいなものだと思う。
100歳の時に幼稚園時代の初恋を思い出す、そのくらいの感覚で思いを馳せることができる時間が、だいたい100年。

そのはずなんだけど、

過去の歴史、悲惨なものから人類の前進と呼べるようなものまで、その全てが今この瞬間と地続きだとはどうしても思えなくて、つまり自分にとって他人事のようでほとんどフィクションのように感覚してしまう。

そんでもって過去とか歴史だけならまだしも、
今この瞬間に起きている紛争や災害、パレスチナや能登の地震のこととか、そういった自分から距離のある場所の出来事すらも、、、

今自分がアイスコーヒーを飲んで座っているこの地平と地続きだと思えていないこと。

そんなふうに自分以外を勝手に改行してしまう。

呑気に生きてしまっていること、呑気に生きれちゃっていること、
ましてや知らぬまに加害者になっているかもしれないこと、

こんなだから自分がすごく薄情に思えてしんどかった中での鑑賞でした。


そして映画を終えて、まずは本当にこの1日、1923年9月6日を知ることができてよかったことに加えて、この1日を映画にして届けてくれた人たちへの感謝で心が満ち満ちていました。

事件のことが、鑑賞者にとって他人事にならないように、
この映画はがっちりと繋ぎとめていてくれる。

殺されてしまった9人の、名前のある一人一人の人生が確かにそこにあって、同じこの星に両脚で立って歩いていたんだと、

今僕がそれを知ることができていること、
今後もこの話を紡いでいくことができるということ。
この事実のおかげで、どれだけ前を向けることか。

だから感謝したんだと思います。

知ったから、紡いでいく。
他人事にしないように、模索をしていく姿勢をもって過ごしていたい。

映画の内容について

鑑賞後の舞台挨拶にて演者の向里祐香さんが「心の眼でみる必要がある」とおっしゃっていました。

「朝鮮人だからこうに違いない」「身分の低い人間だからこうに違いない」
作中では多くの人々が、パニックの最中に飛び交う流言に惑わされ、
自身の眼を失っていきます。
これは何も100年前、噂の持つ力が強かったあの頃だけの話ではないのは、皆さんもよく知っているはず。

溢れる情報は人から眼を奪い、特定の価値基準を押し付けてしまうことを身に刻まなくちゃいけないのは現代人も同じことです。

そんな世界で、素直に透明に物を見て判断をすること。
心の眼で見ること。

なんらかの価値基準を持った途端に、それは正義か悪か、敵か味方かなど二元的なものの見方しかできなくなってしまうから、もっと五感で全身で、心のあたりで世界を見る。

大変に難しいけど、苦労してでもそうやって生きていきたいと思いました。


向里さんは真っ直ぐに目を見て、僕の粗い言葉を聞いてくれました。
僕は全く目を見ることができませんでした。

制作側の方に感想を伝えることができるなんてスーパー幸せで、
天気も晴れていて、風もちょうどよくて、羽織ものを着ると少し暑いなってくらいの気温で、また今日を伸びやかに過ごしているなあ。

しんどい日々で、まだ前は向けないけど、いろんなことを他人事にしないように、たくさん知って、紡いでいきたい。


心の眼を開けていたい!






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