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独眼竜タカシ 片目だけの世界


1992年4月。俺は、本当のことを打ち明けた。

「先生、右目が見えません」

担任の先生は、一番大きな文字すら読めない俺に動揺した。
それは、弱視ではないかと言う不安が脳裏をよぎったのかも知れない。

数日後、近くの病院に連れていかれた。
そして、検査をして、担当の医師にこう告げられた。

「斜視・弱視ですね。斜視を治す為に手術しましょう」

その医師の言葉を聞いて、俺は絶望的な気持ちになった。
そして、やはり本当のことを言わなければよかった、と言う後悔が押し寄せた。

目を手術する? 眼球に注射針を刺すの?
怖い。助けて。誰かー。

そんな最悪な心境が数日間続いた。
そして、再びその病院に来院した。

しかし、担当の医師は、俺を見るなり、驚愕の表情を浮かべている。
それは、前回来院したときは斜視だったのに、今回は斜視になっていなかったからだ。

実は、俺は、疲れた時にだけ斜視になる欠伸斜視だった。

そして、医師はこう言った。

「この場合、私の判断では手術をするのか決められません。なので、紹介状を書きますので、大学病院の方へ行って下さい」

そして、数日後、千葉大病院へと向かった。 


母が泣いている。

俺は、病院の長椅子に座りながら、隣に座っている母のその姿を見て、慌てて目を反らした。

周囲を見渡すと、多くの患者さんが行き交っていた。
さすが千葉大病院と言う感じだ。

母の涙は理解出来る。

片目だけが弱視…。
これは、絶望的な状況を意味していた。
なぜなら、片目が見えないだけでは視覚障害者として認められないからだ。
だから、障害者枠での就職は不可能。
健常者の立場で就職に臨まなければならない。
しかし、健常者の立場では採用してくれる可能性は限りなくゼロに近い。
実質、小学校3年生の時点で、一生アルバイト生活が確定したと言っても過言ではない。


果たして俺の判断は正しかったのであろうか?
3歳の時、片目が見えないことを保母さんに伝えるべきだったか?
しかし、伝えていたら、すぐに引っ越しをすることになっていたと思う。
そしたら、同じ土地で生まれて同じ土地で育った仲間たちとの交流が無かったと思う。

一方で、3歳の時からアイパッチトレーニングをしていたら、ある程度の視力の回復は見込めていた。

仲間をとるか視力をとるか。
究極の選択を幼児である俺はしていた。

それで、斜視の手術は見送られた。
手術をしても、弱視である右目は使っていないので、すぐに元に戻ってしまうそうだ。

それから、この時、千葉大の先生にとんでもないことを隠していた。
実は、弱視ではない左目も宝石のようなキラキラと輝く星が視界全体を覆っている。
それは、赤、青、黄、緑、橙、桃、白銀などの色がついていて、白銀が一番比率が高い。
そして、ミクロサイズの粒々が川のように流れていたりする。
もちろん弱視である右目にもこの現象は現れている。

正直な所、この現象が原因で左目も見えなくなる不安が常にあった。
けれど、36年間生きてきてその兆候は見られない。
だから、大丈夫だと思う。たぶん。あっはっはー。

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