未確認リトマス

未確認リトマス

それは柔らかな雨が降る梅雨の一日だった。
しとしとと落ちる滴が道に咲く紫陽花を紅に青に濡らして、鮮やかな葉の緑がどす黒く塗り変えられた、そんな日だ。

身体が空腹を訴える四時間目、向かった先は第一実験室。薬品の匂いにつんとする嗅覚、硬い廊下を歩く複数の靴音、机に無造作に置かれてゆく教科書の束。真っ黒な机と明度の高い床とのコントラストが目に痛くて、教室から目的地へと伸びる廊下を歩く間に低彩度の空間に慣れてしまった僕は、思わず瞬きを繰り返した。
第一実験室では班別に座る場所が決まっている。僕は指定席に腰を落ち着けて、腕からやはり無造作に教科書群を下ろした。数がやたらと多いし、ろくに使いもしないのに要求されるから性質が悪い。学校に置いて帰るには、その場で宿題を片付けなければならない。それは生物だけに限らず、理科系一般にいえることなのだけれど。
かちゃり、という乾いた音に顔を上げると、同じ班の女子が一人。幾つかの実験器具を手際良く並べる様は、ぼんやりしたイメージが付きまとう普段と比べ活発度三割増し。その機敏な動作に向けて、声をかける。
「漣(さざなみ)さん、一人?」
「……あっ、うん、河原(かわら)くんも?」
受け答えはやっぱり、『普段』の漣さんそのもの。

次の授業は生物で、珍しいことに実験らしい。教室での授業が多いから、たまに生物が理科だということを忘れかけるときがあるけれどそれは分野の特徴で。生き物を扱う科目で実験ばかりしていたら、医療系じゃあるまいし逆に何を勉強しているのかと聞かれそうだ。
他の班が全員で——まぁ、四人だけど——賑やかに準備しているのを後目に、僕達は二人黙々と動いていた。漣さんはあまり自分から話すほうじゃないし、それは僕も同じ。だからこの静けさはむしろ、必然だった。
僕にとっては別に、嫌な沈黙じゃない。多分、好きなもののうちに入ると思う。
話さざるを得ない状況を、苦手と感じた覚えは僅かもない。それでもどちらかといえば、好きじゃない。
ストレートに『嫌い』の感情へと結び付いてくれたら、自分の中のギャップに対して首を傾げなくて済むのに。最近では誰かに声をかけられることに慣れ切ってしまって、僕は大抵の時間を『好き』と『嫌い』の狭間にある曖昧な空間で過ごす。
誰かにじっと見られることは、もう気にもならない。運動部に所属していれば、文化部であっても人に見られることを前提にした部活——吹奏楽部や演劇部のような——に所属していれば、正直そうならざるを得ない。
そして一方的に向けられるベクトルの密やかな意味さえ、大抵は推し量れるようになってしまう。
こんなことを誰かに打ち明ければ、忽ち性格が悪いと罵られるに決まっているから、僕は白を切る。気付かない振りをする。それが自分にとっては最良で、同時に相手に対して失礼な行動だと判ってはいる。それでも他に、上手い方法が見つからない。

「……あの、早瀬(はやせ)くんは?」
「やべぇリーダー予習してねぇ! って僕のノート写してる。水川(みずかわ)は?」
「先生に呼ばれちゃったの。多分今度の生徒総会のことじゃないかなぁ……」
未だ定位置にいない二人のことを話しながら、最後の準備となった手の平サイズの小箱を机に置く。漣さんは少し困ったように笑って、再び口を開いた。
「タイミング悪いよね、こんなときに」
「……そう、だね」
としか、言えなかった。
努めて冷静に考えれば、そう。普通なら四人で取り掛かる仕事を、二人でやらなければならないのだから。タイミングが悪いだとか、運が悪いだとか、そんな言葉で表す以外にどうだっていうんだ。
けれど何故だかこの解釈を残念に思う自分がいて、その自覚に吃驚する。だって、知ってるんだ。分かってるんだよ、多分僕は。

……たびたび僕が、漣さんの、視線の先に、居ることを。

机に置かれた小箱の中には、こんなにあっても当分使い切れないだろう量のリトマス試験紙が入っていた。今更酸性とアルカリ性の違いを説く実験をしようというのか、単に決まりきった作業の一手順として使われるのか、予告なんてなかったから予測も出来ない。
漣さんが、綺麗に収められたリトマス試験紙を二枚取り出して弄ぶ。別に変わった会話もないし、要は彼女も暇なんだと思った。赤色リトマス試験紙と、青色リトマス試験紙を交差させたりまた離したり、折り畳んだりまた広げたり。その姿をぼうっと眺めていたら、急に視線を寄越されて少し戸惑う。漣さんは、照れくさそうに小さく笑った。まるで自分の行為を誤魔化すみたいに。
「……手遊び、癖なんだよね」
「僕もやるよ、たまにだけど」
「落ち着かないの、何か触ってないと。そういうの、ない?」
あるような気もするし、ないような気もする。あぁ、また曖昧だ——そんな思考が脳裏を掠めた。
「手持ち無沙汰で、何かをじっと眺めちゃうのも、それに入る?」
漣さんは微かに首を傾げて、考えているようだった。
目線は斜めに左下。ぱちぱちぱち、と何回か瞬きをして、再び僕と視線を合わせる。
言葉を探しあぐねているのか、空気を震わせないまま唇が数度動いた。そんなに真面目に考えなくても良かったんだけど、と言おうとしたそのとき。
「っしゃー間に合った、河原これサンキュ! マジ助かった」
「ちょっと聞いてよ漣、先生ってばさぁ……」
僕達以外の班員二人が、揃って登場した。

早瀬は水川が好きだった。それは勿論今でも現在進行形だし、本人でさえも気付けないうちに僕にはすっかり分かっていた。そもそも早瀬の行動は分かり易い。明らかに他の女子に対するのと反応が違う。たまに、本人もそれを気にして落ち込んでいたりする。
さっさと告っちゃえばいいのに。なんて言葉が喉から出そうになったことは数知れない、けれども僕は必死に堪える。出してしまえば早瀬は多分、自分自身のあからさまぶりに逆に凹んでしまうだろうから。……別に、凹む必要なんてありはしないのに。
だって、この二人は結局、所謂両思いだ。僕以外にも、そう思っている人は多いはず。
それを誰もが教えないのは、ほんのちょっとした出来心なのかもしれない。そんな簡単にまとまられたら、確かにつまらないからね。
『好き』とか『嫌い』の感情に対して、僕は——他人はこの際関係なくて——少しだけ、意地悪だ。自覚はある。もしかしたら、少しどころじゃないのかもしれない。
僕はいつも、傍観者役に徹する。
遠巻きから眺める、そのほうが面白いから。それに結局、僕が気付いたことで何かが必ず良い方向に変わるかといえば、別にそんなことはなくて。例え僕が口を出しても、実際に動くのは本人なわけで、だったら干渉する権利も筋合いも僕は持たない。
目の前にある状況をじっと観察して、含まれた関係だとか隠された本音だとか、誰が何を期待しているのか誰が実はどうしたいのか、無意識に読み取ってしまう。単純に、勘とでも呼べるものかもしれない。自分でもいつからかは分からないけれど、気が付いたらそんな癖を身につけていたんだ。
便利だけれど、毎日どこか味気ない感覚に苛まれるのも事実だった。
「ていうか、今日何すんだ?」
いつの間にか始まっていた先生の説明もお構いなしに、早瀬が机の上に整然と並んだ実験器具をごちゃごちゃ掻き回す。……授業の内容を僕に聞くなら、最初から先生の話聞けよ。
向かいの席の水川が、どことなく白い目でその様子を見つめていた。彼女が冷静だから、早瀬の分かり易さが余計に際立つのだ。

僕の周りの人達は多分、大きく二種類に分けられる。といっても、僕自身がそうやってみんなを認識しているだけで、一人一人は全く違う人達なんだと一応判ってはいる。でも、僕の中ではそういう分け方しか出来なくて、まだそういう見方でしか周囲を捉えられない。
……あぁ、また癖の所為にする自分がいる。
一方は、早瀬みたいなタイプ。感情のベクトルが常に外へと向かって走るから、ある意味誰でも分かり易い。誰からも、理解され易い。反面その開放的な性質が、本人を落ち込ませる原因にもなる。隠しておきたいことまでも簡単に気取られてしまうのは、確かに不愉快以外の何ものでもないと思う。
もう一方は、水川みたいなタイプ。早瀬とは正反対で、あまり思惑が表に出ない。決して無表情というわけではないけれど、自分の中に留め置くべきと判断した事柄に関しては、欠片も零したりしない。ベクトルはほとんどの場合、自らの制御に向かう。それは、本人も無意識のうちにやっていること。
感情のベクトルに上下左右なんて概念はない。あるのは単純に外か内か、時折そこに前か後ろかが加わるだけで。
僕達は大抵、そのどちらかの流れに身を委ねている。きっとこれはいつからともなく獲得した志向で、自力で変えようとしてもなかなか上手くはいかない。
一番簡単にベクトルの向きを察知するには、目を見ること。視線の遣り様を、肌で感じ取ること。
そしてその仕方は、誰もが全くの無意識なんだ。だからこそ、一度どちらかを掴んでしまえばあとは大概読み易い。何かに対しての反応が否応なしに返される、僕は、そこからの響きをただじっと見つめればいいだけ。
何故か、僕自身の中ではそのベクトルが延々と停滞している。人を眺めるばっかりで、自分のそれを少しも気にかけないでいたから。僕の感情は外へも出られず内に向かうことも出来ず、同じところででぐるぐると螺旋を描き、小さな矢羽すら身に着けられない。
僅かの喜怒哀楽もないとか、微かも心が震えないとか、そんな不健康なまでの麻痺ではなくとも、自分と世界の間に目では見えない無色透明で柔らかな薄い膜の感触を覚えるのは確かで。けれど色々な部分が希薄な僕にとっては、むしろ生温かい半透膜に守られているぐらいでちょうどいいのかもしれない。

実験室の窓からそっと外を見遣れば、依然として雨がしとしと降り注ぎ、止む素振りも見せない。朝には細く短い霧雨だった。鈍色の窓枠に重たい雨粒が弾け飛ぶ。何だか、とても目障りに感じられた。
長方形に切り取られて濡れ滲む町の景色に、室内の動きが映り込む。立ち歩き翻るスカートや、実験器具の整理にもたつく黒の学ラン。
まるで幽霊のような淡い虚像に少し怯んで振り向くと、ざわつく同級生達はちゃんとそこに居る。
好きだとか嫌いだとかどうでもいいだとか、お腹空いたとか早く終われとか帰りたいだとか、予習してないとか忘れ物したとか部活が面倒だとか、あの本楽しいとか今度買い物行こうとか昨日可笑しかったよねだとか、沢山のことを取り止めもなく言い合い思いながら、心の奥で波打つ感情をを放出してゆく姿。
そんなみんなの姿を遠めに眺め、羨ましいなんて思うのはきっと完璧にお門違いだ。
自分の興味を引くものを見つけられないのは、そもそも僕自身が何かに興味を持とうとしていないからで。まず何かを求めてみるところから、始めなければならないんだ。その判り切った事実は逆に、僕をひどくものぐさにした。

時折話を聞けと叱られながらも実験は無事に終わり、片付けの体勢に入ったクラスのみんなを余所に、漣さんがまたあのリトマス試験紙を指先で弄り始める。準備をしたのは僕と漣さんの二人だったから、片付けるのは早瀬と水川の仕事。……そういうことにした。
持っているのはやっぱり赤色リトマス試験紙と、青色リトマス試験紙を一枚ずつ。くしゃくしゃ曲げたり伸ばしたり、交差させたり引っ張ってみたり、さっきとほとんど変わらないことを一頻り繰り返した後に、ようやくそれから顔を上げる。
「手持ち無沙汰?」
「……ちょっと」
漣さんはまた、はにかむように笑った。
細い指に挟まれた二枚のリトマス試験紙を眺めながら、その色にどこか既視感を覚えて僕は無意識に目を眇めた。赤いのと、青いのと。紅いのと、青いのと。どこにでもある色だから、たまたま記憶に引っかかった気がするだけかもしれない。
けれどそれはひどく確信めいた感情を伴っていたから、思考を巡らせることは止められなかった。目を閉じてもう一度、二つの色彩を思い返す。
赤いのと、青いのと。紅いのと、青いのと。
「……紫陽花」
「えっ?」
心当たりに行き着いたものの、それがうっかり口から飛び出した。漣さんが、机の向こう側で目を丸くしている。独り言だなんて、自分でもとても珍しくて。
「あ、ごめん」
瞬発的に、何故か、謝る。
「ううん。紫陽花が、どうかしたの?」
「……似てるなと、思って。それに」
漣さんの手の中を指差す。先程まで指先に弄り回されていた二枚の紙は、既に小さく折り畳まれ握り込まれていて、僕からはその姿が良く見えない。でも、その中にちゃんと有ることは分かってるし。
彼女は手を開いて、自分が握り締めていた紙切れ——もう、紙屑と言ってしまって差し支えはなさそうだった——を再び見つめる。
僕の独り言に驚いた様子を見せた表情も、少しだけ緩んだ。
「似てるかも」
「似てるよね」
僕達はそのまま、顔を見合わせて笑った。
未だ片付け中の早瀬が、何笑ってんだ? という顔をして軽く膝蹴りを食らわしてくる。
甚だ悪い足癖を裏拳で阻止すると、一連の行動をいつものように水川が呆れながら見ていて、何やってんのよ早瀬、と言って肩口を軽くはたいた。
それを見て、僕達はまた少し笑った。
「前から思ってたんだけど」
二人が片付けに戻ったところで、漣さんは再び指先に取り出した二枚のリトマス試験紙を触りつつ、また話し出した。彼女が雑談を振るのも、僕の独り言と同じくらい珍しい。
「リトマス試験紙の色ってね、赤と青じゃあなくない?」
「……ピンクと水色、とか?」
「そう、そう。なんか、桃色と水色」
「そう、かも」
確かに、『赤』と『青』じゃない。どちらかといえばピンクに水色、淡い色。それは大抵の紫陽花にも当てはまることで、毎年梅雨のこの時期には、僕もうっすら考える。
でもいくら僕達が考えてみたところで、リトマス試験紙も紫陽花も、昔からずっと赤と青。これからもずっとだ。間違ったって桃色リトマス試験紙だとか、水色紫陽花なんて呼び方は定着しない。
……そう、判り切っているからこんなこと、僕は誰にも言わなかった。
なのに漣さんは、そういう風に疑問に思うほうがむしろ自然なんだと感じられるくらい、簡単に声にしたんだ。
今度は僕が、その言動に吃驚する番だった。

……あぁ。漣さんのベクトルだけは、どうしても読み取れないんだったっけ。
接する機会が多くないから、すっかり忘れていたけれど。——というか、いつもぼんやりした感じで考えていることがよく分からないから、無意識に見落としていたのかもしれない。或いは、その不明瞭感を無意識に怖れていたのか。
『分かる』ことが当たり前になると、『分からない』ことが怖くなる。悲しいけれど、確かに身に覚えがある。分からないことは、イコール恥ずかしいことではないのに。
教室に居るときや廊下を移動するとき、授業中の応答時や掃除中の一挙動に、微かに視線——勿論、この場合漣さんの——を感じる一瞬があって。あまりに穏やかなそれは普段感じる類の好意のベクトルよりもほんの少しだけくすぐったくて、思わず振り向くことが一日に何回かある。大抵の視線や決定的な告白は、上手く、それかずるく、遣り過ごせるというのに。
でも僕の視線をそちらに向けたときには、向こうの視線は既に明後日の方向。きっと、少なくとも漣さんの中では、何事もなかったんだと思わされる。
感情のベクトルは目に宿ると信じていたのに、彼女に限っては直接面と向かって話すときでさえそんな素振りは見えない。そのくい違いには微妙な困惑を覚えたけれど、今までずっとその困惑を引きずらせたままでいたけれど。
たった今、何故だか急に分かってきた。
つまり本当に、『何でもない』んだ。他の人みたいに、意識的にこちらを見ていたのではなく。——どうして僕を見ているかも、自覚していなさそうな。
それは少し面白いな、と思った。
それはとても面白いな、と思えた。
リトマス試験紙に落とされた一滴の滴が、その表面をじわりと染め替えるような、緩やかな感情の流れ。
この心の底に薄い一枚の膜があったとして、もしもその色を染め替えられる特効薬があるとしたら、僕の心はそれにまだ、反応出来るだろうか。
細いスポイトに薬を吸わせ、僕の心にひとしずく。
細いスポイトに薬を吸わせ、彼女の心にひとしずく。
濡れてじわりと染み渡り、化学反応はどのように?

紅い一片は、青に染まるか。
青い一片は、紅に染まるか。
桃の一片は、水に染まるか。
水の一片は、桃に染まるか。

不意に朝の情景が甦る。
それは、ありふれた梅雨の一日の。
しとしとと落ちる柔らかな雨滴が道に咲く紫陽花を紅に青に濡らして、鮮やかな葉の緑がどす黒く塗り変えられた、そんな朝の。
そこで見た紫陽花は、艶のある緑の葉に抱かれた明るい紅と青——鮮やかな桃色と水色をしていた。
まっさらだった紫陽花は、土壌の『薬』に染め替えられて咲き誇る。
全てが潤んだ視界の中で、ただそこだけが凛と華やぐ。
『分からない』ことの不思議も怖れも、現実感を伴って。
重い湿度にふやけた心も、少しだけ軽く浮揚して。

何だか、少し、気が変わった。
……時には、当事者になってみようか?


未確認リトマス 終
再掲元:個人誌「色葉言葉(いろはことのは)」2003/11/06

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