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記憶のてがかり

『ボヘミアン・ラプソディ』をやっと観た。
号泣はしなかったけど、ライブシーンは、圧巻だった。まるで自分がその会場に居合わせて、他の観客と一緒にライブを見ているような、すばらしい演出だったと思う。

観終わって、ストーリーやセリフを反芻していたのだけれど、実はそこにはあんまり感動的な部分が残っていなくて、でもこの映画には、昔の映画には無い、何か新しい要素があって、そこがジワッと心に残っているような気がしていた。

それが何なのかはすぐにはわからなかったのだけど、そんなわけでクイーンの時代のことをずっと考えていたら、そういえばその頃は音楽を聴くといえば、レコードとかCDとか買いまくっていたことを思い出した。

自分の部屋の壁一面がぎっしりCDで埋まっていた時代もあった。でもいつのまにか音楽は全部PCの中に消えて、いまやPCの中にもなく、クラウドのあっち側からストリーミングで聴くのが普通になってしまった。音楽は検索するもので、購入するものですらなくなってしまった。

高校生のころ、深夜のFMラジオのマニアックな番組で流れていたUKのアーティストの曲をもう一度聞きたくて、放課後に中古レコード屋をハシゴして何とか一枚のLPレコードを手に入れて、家に帰ってきて店の袋から30センチ四方の紙ジャケットに入った黒い円盤を、指紋がつかないようにそっと取り出して、レコードプレーヤーの上に置き、レコード針を円盤の外周ギリギリに接触させる。スピーカーの音量をじわじわっと上げ、プツッ、プツッという針の音がなったあと、突如として音楽が流れ出す。あの導入が大好きだった。

レコード屋で、ジャケットを手に取り、じっとアートワークを眺める。30センチちょっとの四角い厚紙に、フルカラーで印刷されたLPレコードのジャケットは、それだけで写真集や画集のなかのページのように、絶対的な存在感を持ってそこにあった。見ているだけだから、中身の音楽が実際にはどんなのなんだか全然わからないんだけど、想像力を掻き立てるようなあの手この手のデザインや写真やイラストがジャケットには印刷されていて、ぼくらはとにかく自分の直感と想像力を総動員して、なけなしの小遣いでそのアルバムを買うのだ。『ボヘミアン・ラプソディ』のクイーンのレコードのジャケットも、それはそれはとても特徴的なデザインだったのを覚えている。

映画を見た翌日、iPhoneのSpotifyでクイーンのアルバムを久しぶりに通して聴いた。聴きながら、なんとなく目の前の空中に両手を突き出して、レコードジャケットを持っているようなジェスチャーをしている自分に気がついた。ぼくのなかで、クイーンのあのアルバムの記憶は、音楽そのものだけではなくて、ジャケットのデザインとその存在感とがセットになったものだったのだ。ああ、あのとき、あのレコード屋で買ったんだっけ。ああ、そういえば、友達の家に遊びに行ったとき、そいつのレコード棚の中に同じアルバムが並んでいて、それを手にとって眺めながら一緒に聴いたんだっけ。

ブワーッと脳内に記憶ビジュアルが再生されていく。イヤフォンから流れる曲に。目の前に出現したレコードジャケットの幻影を通じてその向こう側に。記憶が次々に投影されていく。

レコードと、30センチ四方のジャケットが存在していた時代の音楽には、記憶を再生するための手がかりが用意されていたのだ。

『インセプション』という映画でディカプリオが、夢の中のそのまた夢の中を旅して、いつのまにか現実と夢の区別がなくなってしまうのだけど、その夢を現実と区別するための手がかりにコマを回すシーンがあった。レコードジャケットはこのコマの役割と同じだ。

レコードジャケットに込められた記憶の手がかりはもう一つあって、それはデザインした人の意思だ。曲というオーディオ情報に込めたアーティストの思いを、ジャケットというビジュアル情報に翻訳するために、デザイナーは心をくだき、デザインしている。文字に書いた説明はなくても、なんとなくその気持ちや情熱やノリは、ビジュアルを通して、ぼくらに伝わってくる。その言葉にならない何かを、受け手であるぼくらは想像をする。その想像するというアクション自体が、自分ごととして記憶を強く深くするのだ。この想像のひと手間が、つながりを深くしていたのだとおもう。

そう考えると、音楽体験がストリーミング中心になっている今を生きているぼくたちは、30年後に、いまの音楽体験の記憶を、いったいどうやって呼び起こすのだろう? まさかiPhoneを持つ手のジェスチャーをして、そこに幻影と記憶を見るとは思えない。かといって、検索ワードだけがトリガーになるというのも足りない気がする。

あ、そうか。だからみんなフェスに行くんだ。だから『ラ・ラ・ランド』とか『グレイテスト・ショーマン』とかみんなで行くのか! 『君の名は。』で前前前世を聞くのか! 『ボヘミアン・ラプソディ』にあったのは、この新しい時代にとっての「記憶のてがかり」なんじゃないか?

つまり、こういうことかもしれない。今を生きるぼくらは、未来の自分の記憶のために、体験の強度を高めたいと無意識に思っているのかも。レコードの時代に比べてずっと、記憶の手がかりが少なくなってしまった音楽というものにも、だから無意識にレコードジャケットに代わる「手がかり」を求めていて、それが映画館やフェス会場での、他のお客さんとの物理的身体的共有体験なのではないか? 他人と一緒に共有することで、その体温や熱気というリアルな存在感をセットで記憶しようとしているのではないか? レコードジャケットが視覚的な手がかりだとすると、体温や熱気は、触覚的な手がかりなのかも。

いまから30年たって、どこかから流れてきた曲を聴いたとき、ぼくらは目をつぶってレコードジャケットを思い出すんじゃなく、触覚を開放してあのフェスや劇場の熱を思い出すのかもしれない。まだ仮説だからわからないけど。

とにかく、音楽もそうだけど、多分これからのコンテンツには、どう「記憶のてがかり」をつけるのかを含めて考えたほうがいいことは確かだ。そしてそれは、モノではない。多分、共感できる「体験」なのだ。

(Photo by Dane Deaner on Unsplash)

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