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[エッセイ] 少し濃いジントニックで笑ってくれるあなたたちがいてくれて

 少し早く仕事が終わって、お米を何合入れたか忘れそうになりながらご飯を炊き、まとめ買いして冷凍してある鶏肉の中からもも肉を探し出し、なんとか夕飯の親子丼の準備を終えて鶏肉の解凍を待ちながら一人で飲むジントニックがどうしようもなく幸せだ。

 最近、来年から働く会社の同期になる予定の人たち(この文章の中では便宜上、同期とする)の一部と意気投合して、週に2回程度電話をしながらオンライン麻雀をするのがささやかな楽しみになっている。noteにも度々苦しさを吐き出している僕ではあるけれど、彼ら彼女らと話すとき、本当に穏やかな気持ちになる。熱々のブラックコーヒーのような切れ味はないけれど、人肌のカフェオレのような穏やかな気持ちになる。痺れるような快楽はないけれど、心が砕けるような苦しみもない。穏やかというのはきっとこういうことを言うんだろうな、と説明の出来ない涙を静かに流しながら麻雀をしている。

 この穏やかさの原因は何なのか、自分なりに考えてみた。いくつか思い当たるフシはあるのだけれど、一番大きいことは、僕が何かをする必要が一切ないということだと思う。みんな、他人からの評価を物ともしない自分の信念を持っていて、考えが違うことがあっても、どれもリスペクトをすることが出来てストレスが皆無なのだ。要するに、根底で倫理観を共有した上で多様性があるのだ。

 そんな同期たちとの交流で一番楽しいのは、麻雀を打ちながら雑談をすることだ。会話が噛み合うこともあれば、合わないこともある。でも、どっちでも笑いは絶えない。Daniel PowterのBad Dayを流しながらお互いの黒歴史を話して笑い飛ばしたりする。最近やっと慣れてきたけど、最初の頃はマイクをミュートにして時々泣いていた。自分が与かり知らない理不尽な失敗から自分が悪い不義理な失敗までたくさんしてきて疲弊している僕に、この人間関係があまりにも心地良かった。どうしようもないほど自他の境界が薄い僕に、負の感情が一切流れてこない。なぜなら、各人が自分の信念のもとで完璧に消化しているから。他人に依存する香りが一切しないから。

 先日、そんな同期たちに思い切って打ち明けてみた。

「今までは色んな人に悩みを吐露されることが多くてさ。で、俺はその人達のことが好きだから全身全霊尽くすんだけど、みんな、回復したあと反省せずに元いた環境、自分がズタボロになる環境に戻っていくんだよ。やるせないよね」

 返って来たのはシンプルな答えだった。

「お金じゃないだけで、労力と時間の形をした貢ぎ癖じゃん」

 みなまで言われなくても分かる。僕の状態はホストやキャバ嬢やバンドマンに貢ぐ人達と何も変わらないのだ。

「自分をすり減らす関係性は誰も幸せになれなくない?だってそうでしょ?成長は表層的な優しさじゃなくて、心を鬼にして叱ることからしか生まれないんだから。きしもとはダメ人間ホイホイだよ」

 同期の一人が言わんとすることは耳が痛いほど分かっていた。僕もきっと、誰かに叱られたかったのだ。最後のひと押しをして欲しかったのだ。いよいよ認める時が来た。僕は自白した。

 今までは自分が好きな人達の役に立てることを幸せだって思ってきたけど、普通にこうやってみんなと話している方が楽しくて幸せだよ。何もしてないのに、無価値なはずだったのに、何もしないことでこんなにも幸せになれている。

 決めた。
 誰かをどうこうしようなんてもう思わない。僕が何もせずに笑顔で居るだけで喜んでくれる人がこの世界に居ることを噛み締めて毎日を暮らしていく。何もなかった一日の最後に作ったジントニックが思ったより濃くて顔をしかめただけで笑ってくれる人たちが、僕には居る。それ以上に何がある?

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。