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生まれなかった命は優しい夢を見る with Ju te veux - Satie

ジュ・テ・ヴ - エリック・サティ

 サンダルを履き、重いドアを押し開けて外へ出る。途端にむっと真夏の熱気が押し寄せてくる。玄関先には折れた枝やちぎれた葉っぱが散らばっている。夜のうちに通過して行った季節はずれの台風の痕跡だ。

 惨状の中に何かあった。それに近寄り、スカートの裾が汚れないようにたくし上げてからしゃがんでみる。

 くすんだブルーの木の箱だった。アカシアの木の高いところに取り付けてあったはずの鳥の巣箱だ。大風に耐えきれずに落ちてしまったらしい。地面にぶつかった衝撃で屋根が壊れてずれている。

 その巣箱はお父さんが取り付けてくれたものだ。何色がいいかと聞かれ、好きだったブルーを選んだ。刷毛で塗ったのもわたしだ。一昨年の、まだわたしが小学生だった頃のことだった。

 毎年、春になると、その青い巣箱に小さな鳥がやって来るようになった。いつも二羽で、どちらが雄でどちらが雌なのかわからなかったけれど、そうっと息を殺して見ていると仲が良いのがわかる。

 彼らは交互に出たり入ったり、戻って来る時は小さなクチバシに小枝やコケのようなものを咥えていた。巣作りをしているのだとお父さんが教えてくれた。一か月ほどすると小枝やコケの代わりに小さな虫を咥えて戻って来るようになった。ヒナの餌だ。巣箱の中で卵が孵ったのだ。見えないところでそんな事をが起きているだなんて何だか不思議だった。

 つがいの出入りが頻繁になり、巣箱の丸い穴から飛び出して行ったかと思うとすぐに戻ってくる。やがて小さな鳴き声が聞こえるようになった。耳を澄まさないと聞こえないほどのかすな声だ。巣箱の中でヒナたちが鳴いている。お父さんには聞こえないらしい。

 かすかだった声が次第に大きくなっていく。雛が育っているのだ。だから声まで大きくなっている。季節は春から初夏に移っていた。

 そしてある日、ヒナの声がぱったり聞こえなくなった。世話をしていた親鳥たちの姿も見えない。あれほど賑やかだったのに、巣箱の周辺はしんとしている。

 巣立ったんだよとお父さんが言った。朝早くに巣箱から出て巣立って行ったと言う。唐突に訪れた彼らとの別れは悲しかった。

 そういえば巣箱の中はどうなっているんだろう。ヒナがいるうちは見るなと言われていたから見たくても我慢していた。でも落ちて壊れてしまった今なら中を見ても構わないよね。

 巣箱の横は開くようになっている。蝶番の金具が錆びて固まっていたが、ちょっと力を入れたらなんとか開いた。

 一か月ほど前まで小鳥たちの住まいだった内部は小枝やコケや何だかわからない木の繊維のような巣材でいっぱいだった。巣箱の容積の半分以上が巣材だ。湿っているだろうと思っていたのに乾いていた。巣材の中に小さな丸いものがある。

 …卵だ。卵だった。なぜだろう。みんな巣立ったはずなのに。

 それを指先でそうっと摘んでみる。やっぱり卵だった。青っぽくて表面に薄い微かな模様がある。そういえば…ヒナが生まれたあとの卵の殻は?でもどこにもなかった。この卵だけがなぜか取り残されている。

 きっと生まれなかった卵なんだね。孵らなかった卵。かわいそうな…。

 その卵を手のひらに乗せてみる。軽い。でも空っぽじゃない。小さなこの中に命が入っているんだ。

 落とさないように割ってしまわないように注意しながら、卵を自分の部屋へ持っていく。勉強机の上にハンカチを広げて、その真ん中にそうっと卵を置いた。

 その夜、夢をみた。わたしはふかふかして柔らかな何かの上に乗っている。すぐそばに大きな温かいものがいる。ふわふわの羽根が生えた大きなもの。それが身じろぎしてわたしを覗き込んだ。鳥だった。大きな黒い目でわたしを見つめている。

 やがてその鳥はクチバシでわたしを引き寄せた。ころっと転がりわたしはそのお腹の下へ。温かい。柔らかで温かくて眠くなる。

 その夢を見たのはその夜の一回だけだ。卵はしばらくの間はわたしの机の上にあったのに、気づいたら無くなっていた。探したけれど、とうとう見つからなかった。どこへ行ってしまったのかわからない。

 わたしが見た不思議な夢は、あの、生まれなかった青い卵が見た夢だったと、今でも思っている。


♦︎【大人Love†文庫】星野藍月


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