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金魚

 暑い夜だった。
 じっとりと首筋に汗がまとわりつき、ちくちくした刺激を放っている。俺は誰にもぶつけられないイライラを飲み込み、昨晩壊れたエアコンを恨めしげに眺めながら、うちわで必死に生ぬるい風をかき混ぜようとしていた。
 窓を開けていても外の空気は微動だにせず、かえって湿度の高いムッとした夏のにおいが押し寄せてくる。

 ああもうどうしてこんなに日本の夏は蒸し暑いんだ。

 やけに腹が立って冷蔵庫に向かった。小さな冷凍庫を乱暴に開けると、アイスノンを取り出す。しかし、ほんの一時間前にしまったばかりのそれはまだぐんにゃりと柔らかく、ほんのり熱を持ってさえいた。ああ、とも、うう、ともつかないうめき声を出しながら、俺はアイスノンを再び冷凍庫に突っ込んだ。製氷皿を見るが、アイスノンと同じ時刻に入れ直した皿の中身はまだ液体で、手に持つと申し訳なさそうに震えた。
 このままこの部屋にいたら死ぬ。涼しいコンビニでも行って、勿体無いが氷とアイスノンを買ってくるしかない。寝ている間に熱中症になるか、そもそも全く眠れないで朝を迎えるかのどちらかだ。
 そう思った俺は、下着姿の身体に部屋の気温で温もったTシャツと短パンをしぶしぶまとうと、財布をつかんで逃げ出すように部屋から出た。

 まったく、明日からようやく夏休みだっていうのに全然ついてない。
 昨晩、唐突にふしゅうと音を出してエアコンが壊れ、慌てて大家に電話したら留守。管理会社に確認したら、大家はハワイで連絡が取れないという。このままだと困るからなんとかしてくれとごねたが、大家に確認しなければエアコンの修理も取り替えもできない、そもそも今は時期が時期だから、取り替えになると半月以上は待ってもらうことになる、などと寝言を抜かした。それ以上何を言っても無駄だった。
 いくらなんでも、東京の最高気温を誇るこの地区で、エアコンなしに一週間を過ごすのは辛い。ここ数年寄り付いてなかった実家に避難するしかないか、とため息をつく。たまに帰れば、結婚相手はいないのか、結婚する気はないのか、とうるさいため、最近は休みが取れても帰っていなかった。
 おまけに買ったばかりのスマートフォンが今日の朝動かなくなり、止むを得ずそのまま仕事に行ったが、夜になっても動かないまま。残業後にショップによる時間もなく、動かないスマートフォンを持ったまま帰宅した。テレビは持っていないしノートパソコンは何故かネットに繋がらなくなって数日前に修理に出していた。つまり、明日から休みにもかかわらず誰にも連絡が取れないし、暇つぶしの道具さえない。

 ついてねえなあ。あっちいし。
 そう思いながらサンダルを見つめて歩く。

 昔の夏はこんなに暑くなかった。
 夜になってもまだ熱を放ち続けるアスファルトの道路をペタペタと歩きながら、そんな年寄りのようなことを思った。
 子供の頃、蝉の鳴く道をペタペタと同じ足取りでプールに向かったことを思い出す。土がむき出しの道すがらでは、花紙をクシャクシャと丸めたような赤い花を、つるんとした木の肌に貼り付けるように咲かせているサルスベリの木があった。田舎のプールはあたりの田んぼからほんのりと堆肥のにおいが届き、井戸水から取られたプールの水は、毎日の酷暑で温められてはいたものの、凍えるほど冷たく感じた。
 プールの底から見上げると、照りつける光の反射が水面の裏側に煌めき、その光を見るのが好きだった。何度も鼻をつまんで潜ってはプールの底に横たわり、しまいには監視員と従姉に、溺れているのと紛らわしいからやめろと怒られた。
 あの時は、ここまで暑くなかったように思う。それとも、俺が単に年を食っただけなんだろうか。

 ピシャリ

 水が首筋に当たったような感触がした。首に手を当てながら驚いて見上げると、空には明るい月が光っていて雲ひとつない。辺りはポツポツと明かりがついた住宅があるだけで、特にどこかの窓から水がまかれたようにも見えなかった。手を見るが、街灯の少ない夜の住宅街では、手のひらに水が付いているのかどうか判然としなかった。そもそも暑くて汗をかいているため、手も首筋もベタベタとしている。
 室外機の水でも飛んできたのかな。
 そう思いながら、また歩き始めた。ようやくコンビニにたどり着く。中は驚くほど快適に涼しく、俺はほっとして深く息をついた。
 立ち読みをさりげなく邪魔しにくる店員の視線をかわしながら一時間近くも粘ったあと、俺は氷とアイスノン、よく冷えたビールを数本と漬物を買ってしぶしぶ店を出た。帰り道も相変わらず暑かったが、体がよく冷えていたからか行きよりはマシに思える。それとも、少しは気温が落ちたんだろうか。
 考えるともなく考えながら、アパートに着く。玄関のドアを開けた瞬間に押し寄せるだろう熱気に身構えながらドアを開けたが、思いのほかひんやりした空気が室内から流れ出てきた。
 あれ、窓開けっ放しだったかな。
 訝りながら室内の照明スイッチを手探りで入れ、明るく照らされた室内の様子に、そのまま俺はハァともヘェともつかない声をあげながら、腰を抜かして座り込んだ。

 水球が浮いている。

 直径30cmはありそうな水の塊が、部屋のど真ん中に浮いていた。その表面はたぷたぷと今にも溢れそうに揺らめくが、不思議な重力に引かれてでもいるように球体を保ち、一滴も床には落ちてこない。部屋の照明の光を、それはプールの水みたいにきらきらと反射した。
 俺は暑さで頭がおかしくなったのかと何度か目をこすり、変わらず目の前に浮いたまま揺れている水球を眺める。ゆったりと漂うそれは、間違いなく水に見えた。
 呆然としたままコンビニの袋から小さいアイスノンを取り出し、首に当てる。しばらくそうして座り込んだまま水球を見つめていたが、そのまま落ちも動きもしない水と対峙しているうちに少し動揺は治まってきて、そうだ、氷を冷凍庫にしまわないと、と、のろのろと立ち上がった。
 元から入れていたアイスノンと製氷皿以外は何も入っていないがらんとした冷凍庫に、袋のままの氷を突っ込み、手に持っていたアイスノンを少し眺めてからそれも冷凍庫に入れた。ついでにビールと漬物を冷蔵庫にしまうと、今度は急に怖くなり、水球のことは見ないようにしながら風呂に向かう。
 素っ裸になってシャワーを出すと、狭いユニットバスの浴槽の中でそのぬるい水を頭から浴びた。髪を伝って落ちていく水滴を見る。
「落ちるよなあ」
 理解が追いつかずに思わず口に出して呟いた。水は、落ちる。落ちると、浴槽の床が濡れる。水は空中に留まったりしない。
 あれは何だ?
 水を浴びながら考えるが、どうにも結論は出なかった。とりあえず、ホラー映画のようにあれが何か怖いもので、こちらを襲ったりしてくるわけではなさそうだ、とは思えた。そもそもあまり意思を感じられない。かと言って、浮いている水の処理の仕方なんて今まで聞いたこともなく、果たしてあれをゴミ袋に包めるのか、何かに入れれば持つことができるのか、そもそも触れるのかも謎だった。
 そこまで考えて、唐突に自分に自信がなくなってきた。

 やっぱりあれは目の錯覚なんじゃないか。実は熱中症にかかっていて、幻覚を見ていた、とか。

 熱中症にしては元気なことはあえてあまり考えないようにしながら、風呂から出たら消えているんじゃないか、いやきっと消えている、と自分を言い聞かせ、風呂からそっと出た。
 体を拭きながら、それでもしっかりと部屋の中を覗き込む勇気は出ず、目の端でちらと部屋の中を確認する。
 果たして水球は変わらず浮かんでいるようで、水色のきらめく光が目の端に映った。絶望的な気持ちでため息をつく。着替えを取りに部屋に向かわなければいけないが、どうにも気乗りしない。とはいえ、汗でベタベタの服をもう一度身につける気分にはなれず、意を決して部屋に向かってそろりと足を踏み出した。
 部屋のど真ん中に浮いている水球から目を離さないようにしつつ、そこらへんに落ちてる洗濯済みの衣類を手探りで拾い、身につける。水球から最大距離を保ちながら、部屋のはじをそろそろと移動して、ベッドに腰掛けた。
 水の塊は、ふわふわとたゆたいながら浮いている。その水面はほんのりと冷気を放っていて、エアコンが壊れたまま締め切った部屋なのに、先ほどより幾分過ごしやすく感じる。
 しばらくそのまま水球とにらみ合い、何事もなく15分ほども経つと、最初の恐怖は薄れてきた。どころか、こいつのおかげで涼しいし、それに案外、綺麗で見ていて飽きないな、とまで思い始めた。
 立ち上がって、思い切って手が届くところまで近づいてみる。恐る恐る手を伸ばすと、その水面にトプン、と指が潜った。
 水には触れる。普通に触れる。
 指の匂いを嗅いでみた。特に匂いはしない。やはり水のようだった。さすがに舐める勇気は出ない。
 少し考えて、掬い取るように手のひらで水を取ってみた。手に取られた水は、しばらくふるふると手のひらの上に乗った後、指をすり抜けてまた水球に戻っていった。手にはほんのりと湿った感じだけが残っている。どうやらこれはここから動かすことはできないらしい。少しずつ捨てるという選択肢はないようだった。ベッドと対面にある窓に寄って窓を慎重に開けたが、空気を入れ替えるほどの風もなく、水球の様子にも変わりはなかった。窓からは明るい月が見えた。

 俺は少し安堵していた。水球がどうやって浮いているのかは依然として謎のままだが、この漂う水たまりに攻撃的な意思はなく(少なくとも触れても怒ったり襲ったりしてくる様子はない)、この夜更けに暑い屋外を部屋に戻れずウロウロする羽目には陥らなくてすみそうだったから。今のところ水は透明で向こう側は透けて見え、幽霊などの恐ろしいものが姿を見せているわけでもない。
 実害がないなら、まあ様子見でいいか。
 そう思ったところでため息をつくと、冷蔵庫に向かい、ビールと漬物を出してきた。この変わったインテリアを見ながら、静かな夜を楽しむことにしたのだ。
 ツマミと酒が用意できると、俺は水球が良く見える位置で座り込んだ。カシュ、とビールを開け、乾いた喉に流し込む。汗をかいた体に、アルコールが染み渡った。
 水球はゆらゆらと微妙に形を変えながら、その水面をきらめかせている。ふと思いついて立ち上がり、部屋の電気を消してみた。開け放った窓から月明かりが差し込み、その水面を照らす。青白く光る水球は、そのなめらかな肌に月光を浴びながら、ゆっくりと回っているように見えた。

 ふと、水球の中に何かが揺らめいた。
 早くも1本目のビールが半分ほどなくなりかけていて鷹揚な気分になっていた俺は、特に怖いと思いもせずにじっと水球を見つめた。特に何もないか、と思いかけた刹那、またひらりと中を何かが横切った。立ち上がって顔を近づけてみると、中に布のようなものが舞っている。更に目をこらすと、白に所々赤い模様が入った金魚がひらひらと泳いでいるのが見えた。水面が揺れているため、姿は判然としない。
 さっきまではいなかったよな。
 首をかしげながら、また座り込んだ。ビールを飲みながら見続けていると、水球の中に、時折ひらり、ひらりと金魚の尾びれがひるがえる。月明かりに照らされた水の中で、輪郭のはっきりしない魚が泳いでいるのは、ひどく幻想的な光景に思えた。

 たけちゃん。

 ふと、従姉の呼ぶ声が耳によみがえった。小さい頃に行った、近所のお祭りのときのことだ。
 小夜子という名の二つ上の従姉は、祖母に着せて貰った浴衣で、早く行こうとはしゃいでいた。白地に紺の朝顔柄の古風な浴衣は、叔母がかつて子供の頃着ていた古い浴衣だったそうだが、従姉にはとてもよく似合っていた。お祭りが楽しみすぎて数歩先を早足で歩く従姉の背中には、金魚の尾びれみたいな、白がまだらに桃色で染められた兵児帯が揺れていた。

 さやちゃん、待って。

 まだ小学校に上がったばかりの俺は、慣れない浴衣と下駄で必死にあとをついて行った。月に照らされた田舎道を、懐中電灯を持って歩く。少し後ろから母や叔母や祖父がついてきていたと思うが、蛙の合唱がうるさいくらい響き渡る田んぼの脇のあぜ道を、遠くのお祭りの明かりを頼りに進むのは、とても心細かった。なにせ街灯もない。小夜子と自分がまるで永遠にくらい夜道を歩いていくのではないかとすら思えた。
 可愛かったなあ。あの帯。
 俺は空になったビールの缶を握りつぶしながら、ぼんやりと思い出した。
 兵児帯を揺らしながら、近所の人たちが村の集会所に作った櫓の周りで、小夜子は熱心に小さな屋台を見て回った。屋台と行ってもみんな顔見知りが出している、机に商品を並べただけのもの。商店に行けばいつも買えるものばかりだったのに、小夜子は飽きないようだった。紅潮した頬は俺よりも幼いくらいに見え、叔母にトウモロコシ焼きをねだる小夜子を、俺はじっと見つめた。母が、トウモロコシが羨ましいのかと勘違いして俺にも買ってくれた。
 甘じょっぱいタレのかかったトウモロコシは、夏の味がした。

 小夜子は、5年前に死んだ。

 すい臓癌だった。見つかったときにはもう、あちこちに転移していたそうだ。死ぬ半年前、入院したと聞いて見舞いに行った。
「よう」
 元気? と続けそうになった言葉を、俺はかろうじて飲み込んだ。元気じゃないから入院しているのだ。ステージ4だそうよ、と親から聞いたが、それがどれくらい深刻なのかは、俺は知らなかった。なんの前触れもなく訪れた俺を迎えた小夜子は、浴衣みたいな寝巻きを着ていた。何の模様もない、薄いベージュの寝巻きだった。
「たけちゃん」
 小夜子は、そう言って弱く笑った。言い方は昔からのままだったが、その笑顔は白く、青く透き通ってしまいそうだった。うん、とだけ答えて、黙って座った。たまたま休めそうな日に急に思い立ってバイクで来たため、手ぶらだった。
 村の小さな医院では手に負えない状態のため、少し離れた市内の病院に入院していた小夜子は、おばさんがたまたま買い物に出ていたらしくて一人だった。
「まこさん達は一緒じゃないの?」
 母のことをまこさんと呼ぶ小夜子は、俺が一人で来たことを不思議そうに問うた。うん、とだけ答えて黙り込む俺に、少し眉を上げたあと、小夜子はおかしそうに言った。
「まだ死んだわけじゃないのにそんなに神妙な顔しないでよ」
 死ぬ、という単語に、俺はひどく傷ついたような気持ちになった。小夜子は黙りこくって座る俺を困ったように見て、軽く息をついた。俺は何を話して良いかわからなくて、そのまましばらく黙っていた。
「ねえさあ」
 小夜子が外を見ながら口を開いた。
「うん」
「治療したら少し長く生きられるかもしれないらしいんだけどさ」
「うん」
「そしたら、夏祭り、一緒に行こうよ」
 俺は小夜子の視線を追って外を見た。その日はすごく晴れた日で、外は春の日差しで柔らかく照らされていた。
「金魚すくい、やりたいんだよねえ。なんだか。昔さ、すごくやりたかったんだけど、すくっても飼えないからっていっつもやらしてくんなくてさ」
「うん」
「金魚すくいで金魚とれたら、たけちゃん、飼ってくれる?」
「……いいよ」
 俺は涙が出そうだった。泣きたいのは小夜子の方だろうに、俺はそれ以上口を開くと泣いてしまいそうで、唇を噛みしめて黙っていた。
「あらあ、たけちゃん、来てくれたの」
 背後から叔母の声がした。振り返ると、1年ぶりくらいなのに、もう5年も会ってないような気がするくらい、急に老け込んで元気のない叔母が立っていた。
「あ、急に仕事が休みになったんで。手ぶらですみません」
 頭を下げる俺に、叔母は疲れた顔で笑いかけた。
「いいのよお、そんなの気にしなくて。わざわざありがとうね」
 今の叔母なら、小夜子が夏祭りに行きたいことも、金魚すくいがやりたいことも、喜んで叶えてあげるだろう。小夜子がわざわざ自分にそのお願いをしてきたことに、俺は少し後ろめたい気持ちになった。
 その日は結局、小夜子とメッセンジャーのアドレスを交換していとまを告げた。

 俺は2本目のビール缶を握りつぶしながら、黒い画面のままのスマートフォンを見た。充電器につなぎっぱなしのそのボタンを戯れに押してみるが、やはりうんともすんとも言わない。俺はまた水球を見た。水球が歪んで見えるのは、俺が酔っているからか、それとも違う理由か。

 ぽつぽつと、小夜子からはときどきメッセージが入ってきた。だいたいは、おじさんとおばさんの話。たまに、見舞いに来たうちの母親の話。
 それから、夏祭りの話。
 あのとき春めいていた光は日に日に強くなり、どんどん夏の気配が増してきていた。ある梅雨のさなかの強い雨の日、小夜子からまたメッセージが届いた。その日は蒸し暑く、俺は会社から帰る電車の中でそのメッセージを開いた。
『今年、夏祭りやらないんだって。村が高齢化で準備が大変で、もうやめちゃうらしい。残念』
 可愛いがっかりした女の子のイラストのスタンプと一緒に表示されていたそのメッセージを、俺は少しホッとしながら読んだ。これで、いっそうやつれたであろう小夜子を、病院から夜、無理に連れ出さずに済むと思った。
 小夜子の治療はあまりうまく進んでないようだった。母は電話でどうにも進行が止まらないらしいことを話したあとで、若いから、と、声を詰まらせていた。
『そうか。残念。金魚、もってこうか?』
 少し考えてから返信した。しばらく経って、返事が来る。
『金魚が欲しいんじゃなくて、金魚すくいがしたかったんだよ』
 怒ったような猫のスタンプが表示される。ごめん、の顔文字を送ると、そのまま返事がこなくなった。
 家に帰ってしばらくしてから、小夜子からまたメッセージが届いた。
『ねえさあ』
 それきり続きが届かない。何度も書きかけてはやめているようだった。
『ん?』
 返事を返してみる。
『もしさあ、たけちゃんが結婚したらさ、私、子供になって産まれてもいいかなあ』
 表示された文字を見て、戸惑った。
『なにそれ』
 短く返す。すぐにまた返事が来た。
『そんでさ、少し大きくなった私が金魚すくいやりたーい、って言ったら、すくわせてくれない?』
『どんだけ金魚すくいたいの』
 思わず読みながら笑ってしまった。送った返信は、開封されたマークをつけたまま、なかなか返事がこなかった。
『やー、ほんとはさ、自分の子供がすくいたいって言ったら、死ぬほどすくわせてあげようと思ってたんだけど。ちょっと、無理そうだからさ』
 ようやく戻って来たその返事を読んで、今度は俺がなかなか返事を書けない番だった。迷った結果、
『そっか。いいよ』
 とだけ書いて、大きな丸を両手で作ってるスタンプをつけた。
 そのあと、しばらくひとりで泣いた。

 秋の気配が強くなり始めた頃、小夜子の訃報が届いた。通夜に駆けつけた俺は、叔母に頭を下げたあと、通された家で顔に白い布をかけられたまま布団に横たわる小夜子を見下ろした。
「顔、見てあげてくれない?」
 叔母に促されて、布をそっと取った。何も言わずに横たわる小夜子は、穏やかな顔だった。強い鎮痛剤を入れたあと、眠るように亡くなったそうだ。
 たけちゃん。
 今にもそう言って起き上がりそうだった。
「頑張ってたからねえ。最後、痛くない時でよかった。苦しんでる顔のままだと、こっちもつらいしね」
 何をどうしたって辛くないはずなんてないのに、叔母は乾いた声で自分に言い聞かせるように笑った。俺は、そうですね、とぼんやり返事をしながら小夜子の顔を眺めた。あからさまにウィッグだと分かるこげ茶色のカールした髪は、小夜子にあまり似合っていなかった。
 小夜子の瞳は固く閉じたまま、開かない。施された化粧は、小夜子の顔をいっそう白々とさせていて、俺は、ああ本当に死んでしまったのだな、と思った。心が動かなくて、涙は出なかった。
 
  焼き場は山のふもとにあった。小夜子が煙になる間、みんなで会食をしていたが、俺は一人先に食べ終わって外に出た。まだ紅葉には遠かったが、早く枯れた葉がはらはらと落ちてきて、山の空気は乾いていた。夏、どこでも良いからお祭りに連れてってやれば良かった。そんなことを考えながら佇んでいると、
「たけちゃん」
 と叔母の声がした。振り返ると、叔母は着慣れない着物をさばきながらゆっくり歩いてくる。黒の着物は、とても物々しく見えた。
「最後まで、いろいろありがとね」
「いえ、俺は何も」
「あの子と、いろいろメールでやりとりしてくれたんでしょう。結構、話してたわよ。友達には、なんの病気かあまり言ってなかったみたいだし、知ってて話せる人は少なかったみたいだから、嬉しかったみたいよ」
 叔母は、葬儀が済んでほっとしているようだった。ある程度の覚悟はあったにせよ身内の葬儀は大変だし、まして自分の子の葬式なんて普通以上に気持ちもふさぐなか、さぞ大変だったろうことを考える。
「そんなこと。叔母さんも、気持ち、沈むかもしれませんけど、あの」
 かけようとした言葉はうまくつながらなかった。落ち込むのが当たり前で、元気になってなど、空虚に響くだけだと思って言えない。
「……そうね。あの子は、ほんとに、私の宝物だったわ」
 叔母はしみじみ空を見る。ほんとにね、と言って黙り込んで、不意に笑った。
「もうね、出し過ぎたから涙なんて出ないって思ってても、やっぱり泣けちゃうのよねえ」
 目尻を指で押さえると、叔母はおどけるように言った。
「あの」
 俺は迷った末に口を開いた。
「ん?」
「さやちゃんが昔着てた浴衣と、あの金魚みたいな帯、もし俺が結婚して、将来子供が生まれて、それが娘だったら、譲ってもらえませんか」
「え?」
 驚いて聞き返す叔母に、俺は頭をかいた。
「約束したんです」
 叔母は顛末を聞くと、泣きながら笑った。ばかね、金魚すくいなんて、ほんと、死ぬほどさせてあげれば良かった。じゃあ、約束ね、絶対に娘が生まれたら、私に着付けさせてね。俺は叔母の言葉に、黙って頷いた。

 ビールは3本目が空になりかけていた。俺はすでにベッドに半分横たわりながら、水球をぼんやり見上げていた。水球の向こうの窓からは、もう月は見えなくなっている。窓から入ってくる街のぼうっとした明かりが、水球を淡く照らしていた。ゆらゆらと角度を変えながら光を反射する水球の中で、白い布きれみたいな金魚が踊る。
 簡単に約束したけど、そもそも結婚がなぁ。自嘲気味に笑うと、そのまま吐く息はため息になった。小夜子の死んだ年齢をもう3つ越え、俺は二八歳になっていた。結婚したくないわけじゃないが、相手がいない。
 3本目のビールの缶が空になった事を確かめて握りつぶすと、ベッドに座り直した。水球の中の金魚が、不意に水面近くまで寄ってきたと思うと尾びれで水面を叩き、水滴をきらめかせてまた潜っていった。一瞬水球から放り出された水滴は、また何事もなかったかのように水球に戻って行く。
 小さい地球みたいだな。
 そんなことを思いながら時計を見ると、すでに深夜1時を回っている。そろそろ寝るか。歯を磨いて戻ってきて、水球を見て少し悩んだ。こいつ、夜中に落ちたりしないよな……。さすがに賃貸の部屋で床水浸し、万が一下に水漏れなんかしたら嫌だ。しばらく考えて、水球の下にゴミ袋を敷き、バスタオルを何枚か重ね、更にその上に洗い桶を置いた。そのまま酔っ払った頭で水球を見た。金魚は相変わらず中を優雅に泳ぎ回っている。
 まあ、大丈夫か。
 いろいろ考えるのが面倒臭くなり、ベッドに横たわる。そのまますぐに眠りに落ちた。

 たけちゃん。

 呼ぶ声に目を開けると、浴衣を着た小夜子がいた。
「どうしたの」
 目をこすりながら起き上がる。外は夕方になっていて、ひぐらしの鳴く音が遠くから響いていた。縁側に置いてある蚊取り線香がゆっくりと煙を立ち上らせている。
「どうしたのじゃないよ、お祭りだよ」
 小夜子を見上げて、うん、と声を出した。もう、と呆れたように言う小夜子は、浴衣姿だった。 そうだ、小夜子は、十歳になったからはじめてこの浴衣が着られると、昼からずっとはしゃいでいた。
「もう着替えたの」
 寝ぼけながら言う。
「そうだよ、たけちゃん置いてこうかって、お母さんたちが言ってたから起こしに来たんだよ」
 そうだ、夕飯のあと、眠くて寝てしまったんだ。今日は、プールも行ってたから。夕飯後、お祭りに行くはずだったのに。
「たけちゃん、起きてよ。ほら、行こう行こう」
 小夜子に引きずられるようにして、縁側から出た。夏祭りの太鼓の音が遠く響く。俺は少し、面倒臭いなあ、と思いながらサンダルをつっかけて歩く。
 暮れかけた道はまだ明るかった。蚊がブンブンとまとわりついてくるのが気になる。夕焼けが空を染め上げ、びっくりするほど赤かった。トンボがつい、と目の前を横切っていく。
「今日はさ、やっと、金魚すくいやってもいいって言われたの。ほら」
 そう言って、小夜子はがま口を揺らした。小遣いをもらったらしく、中でチャリン、と小銭の音がする。
「良かったね」
 本当に、良かったね。
 何故だか泣きたいくらい強くそう思った。自分で不思議に思いながら歩く。
「たけちゃんもやろうよ。すくったら、水槽に一緒に入れて、飼うの!」
 そう笑う小夜子の顔は、夕日が逆光になってよく見えなかった。うん、と頷いてついていく。目を細めながら、小夜子の帯が揺れる背中を見て歩いた。帯は、夕陽に照らされて妙に赤かった。
 夏祭りの会場は、とても賑やかだった。子供がたくさんいて、あちこちから笑い声が響く。こんなに子供、いたっけ。不思議な気分で辺りを見回す。
「ほら、これたけちゃんの分」
 小夜子にポイを渡された。手の中で、頼りなくしなるプラスチックのポイ。和紙は薄く、いかにもすぐ破れてしまいそうだった。
 小夜子は目をキラキラさせて、金魚の泳ぐ大きなたらいをのぞき込む。赤色の小さな金魚が無数にいる中に、少し大きな、白い金魚がいた。尾びれが少し赤く染まり、小夜子の兵児帯のようだった。
「私、これがいい。これすくいたい」
 小夜子はそう言って張り切って水にポイをつけたが、しばらくその金魚を追いかけていたら、あっけなく和紙は破れてしまった。がっかりする小夜子の顔を見て、俺は息を吸い込んだ。
「俺がやってみるよ」
 慎重にポイを水に浸した。少しだけ動かして、白い金魚の近くに寄せる。白い金魚はくるりと向きを変え、ポイのなかにすうっと入ってきた。緊張してドキドキするが、そのまま持ち上げて左手の容器に傾けたら、その白い金魚はするんと容器に移った。
「たけちゃん! たけちゃんすごい!」
 躍り上がるようにして喜ぶ小夜子。俺は得意な気持ちと、狐につままれたような気持ちで、それを店のおじさんに渡した。
 袋に入れて貰った白い金魚と、おまけで入れてくれた赤い金魚とを掲げ持つようにして眺めながら、小夜子は嬉しそうに歩く。いくつか店を冷やかし、残りのお小遣いで少しおやつを買って食べた。
「ねえたけちゃん。ありがとね」
 俺たちは、金魚が死んだら困るから、という理由で、早々に家路についていた。
「うん」
 小夜子が嬉しそうで、俺も嬉しかった。とっくに日は暮れ、夜空には星が無数に瞬いている。大きな天の川が、大きく空を分断していた。蛙の声がうるさいくらい響く。夜になっても鳴いている蝉が、続けて何かを告げる小夜子の声をかきけした。
「え、なに?」
 聞き返したら、小夜子はもう一度言った。
「もう気にしなくていいからね」

 ぴりりりりり ぴりりりりり

 はっと目を覚ますと、スマートフォンが着信をうるさく主張していた。表示される、家、の文字に、寝ぼけたまま着信ボタンを押して耳に当てる。
「ああ、やっとつながった!」
 母の声だった。
「ん? ごめん、寝てた」
「あんた昨日から全然つながらないんだから! いったいどこほっつきあるいてたの?」
「いや、携帯壊れて……あれ?」
 思わず耳から離してスマートフォンを見る。昨日から全く動かなかったはずのスマートフォンは、何事もなかったかのように通話中を表示していた。
「携帯直ったの?」
「……そうみたい。えっ?」
 思い出したように部屋を見回したが、水球はどこにもなかった。唐突に現れたのと同じように、唐突に消えてしまっていた。
「何?」
「なくなった……」
「えっ? 何かなくしたの?」
「いや、じゃなくて、金魚が。ええと……、金魚が」
「金魚飼ってたの? 死んじゃった?」
「いや、そうじゃなくて……」
 部屋はものすごく蒸し暑くなっていた。日はとうに昇りきっていて、閉め忘れた窓からものすごい音量の蝉の声が聞こえている。首筋からは大量の汗が噴き出ていて、Tシャツは汗でびたびたになっていた。その気持ち悪さが意識を現実に引き戻す。
「ああごめん、こっちの話。それで、何?」
「いやあんた、今年も帰ってこないのかなって思って。休みに入ったんじゃないの?」
「……今日から休み」
「たまには盆に墓参りいきなさいよ。正月もこなかったでしょ。まあお正月だとお墓は雪に埋まっちゃってるけど」
 じーわじーわじーわ
 蝉の声がうるさく響く。そうか、墓参り。
「そうだな」
「っていうのもね、お母さん最近、小夜子ちゃんの夢良く見るのよ。あんたと遊んでるのを横で見てる夢。きっと待ってるわよ」
「じゃあ、今日行くよ」
「あら、今日は素直ね」
「実はエアコン壊れてさ。このままここにいたら熱中症で死ぬから」
「まっ、ゲンキンなんだから。じゃあ家出る前に電話してよ」
 呆れた声の母を適当にあしらいながら電話を切る。

 PCが壊れた。エアコンが壊れた。携帯が壊れて友人と連絡がとれなくなった。水球が現れて、金魚がいて、小夜子の夢を見た。

「偶然、だよなあ」
 頭をかきながら、部屋を見渡す。昨晩ゆらゆらと揺れていた水球は、夢だったんだろうか。部屋のど真ん中に置いてあるバスタオルと、その上の洗い桶が、ひときわ異彩を放っていた。

 考えるのが面倒になってTシャツを脱いだ。シャワーを浴びたら、家に向かって出発しよう。そうだ、小夜子の好きだった芋羊羹をお土産に買って帰ろう。面倒だけど叔母の家まで持ってってやる。と思いながら。

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