【短編小説】 春のあしおと
立春がくるといつも思う。
「こんなに寒いのに春だなんて」
私はそう呟きながらマフラーを口元に引き上げた。立春も立秋も、一番寒いときと一番暑いときにやってくる。そのたびに私は悪態をつきたい気分になる。期待させておいて、裏切られるのが本当に嫌い。
吹く風はとても冷たく、顔に吹き付けてくる。時折、雪がちらついていっそう顔を冷やした。
玄関の鍵を開け、ドアを乱暴に開けると、ドアベルがちりんちりん、とうるさく鳴った。いつもは好きなその音色が、神経に障って余計イライラした。
「おかえり」
えっ、と思ってブーツを脱ごうと屈んだ状態から目を上げると、母が来ていた。
「なんでいるの」
「あら、駄目だった? 散歩してたらあなたの顔が見たくなったの」
「来るときは連絡してって言ったじゃない」
「だってね、美味しそうなお菓子見つけちゃったのよ」
私の機嫌の悪い声に全く頓着せずに、母が答える。隣町にひとり暮らしを始めた私の家に、母は唐突にやってくることが多い。何度言っても、事前に連絡をくれない。
「私だって予定があったりするのよ」
「あら、また出かけるの?」
「……今日は出かけないけど」
「ま、それなら良い日に来たわ」
そういうと母は立った。台所でヤカンに湯を沸かし始める。私は一気に怒る気が失せてしまい、ため息をついた。
「見て。道明寺」
母は台所ですれ違う私に、嬉しそうに和菓子を見せる。
「……ほんと、美味しそう」
桜の葉にくるまれた、ピンク色のもち米が、つややかに光っていた。
「でしょ? あなた好きだから、一緒に食べたくなっちゃって」
「お父さんは?」
「今日は写真撮りに行っちゃったのよねぇ」
「あっそ……」
父はアマチュア写真家だ。朝はまあまあ良い天気だったから、きっと一人で出かけていったのだろう。私はコートを脱いでハンガーに掛けた。母が部屋にいたから、部屋が寒くない。
「お茶淹れたわ。さ、食べよ食べよ」
「ありがと」
コタツに足を入れると、冷たくなった足先がじんわりと弛んでくる。むず痒いような感覚。お茶を口に含むと、風ですっかり冷たくなった鼻に湯気がじんと染みる気がした。
「仕事はどう?」
「んーー、まあまあかな」
嘘。本当は、全然うまくいってない。目をそらしながら道明寺に手を伸ばす。
「いただきます」
口に含むと、うすしょっぱい桜の葉の味。そのあとに、甘いあんこの味。しょっぱくて、あまい。涙の味みたい。
「立春ねえ」
「全然春じゃないのにね。寒いし。雪もちらついてた」
不満げに言う私に、母はふっと笑って言った。
「一番寒いから、立春なのよ」
「……どういう意味」
母はおや、と言うように眉を上げた。
「陰極まれば、陽生ず。陽極まれば、陰生ず。一番寒いとか、一番暑いがくれば、あとは変わっていく、って事なのよ。一番寒いから、春が立つの」
私、昔教えた気がするんだけどなあ。と、言いながら、母の口にも道明寺が入っていった。
「覚えてない。そうだっけ」
「そうよぉ。でもあなた、三歳か四歳くらいだったから覚えてないのかも」
「覚えてるわけないじゃん」
呆れたように言う私に、母は「ですよねぇ」と言って笑った。
「お母さんねぇ、春になると、あなたの顔が見たくなるの。夏になっても、見たい。秋になっても冬になっても見たいわ」
「いつもじゃん」
「そう、いつもなのよ」
母は大真面目な顔で頷く。何それ、と笑うと、
「やっと笑ったわぁ」
と母が言った。私ははっとする。
「こないだの電話で声が元気なかったから。なんかあったのかなって思って」
あった。仕事でつまんないミスをして、自分にも嫌気がさしたし、上司に怒られたのも腹が立った。自分でもミスしたことは反省しているのに、あんな言い方しなくても。その帰り際に、ちょうど母から電話があったのだ。
でも、言えなかった。
「別に」
母は私の顔をちら、と見て、肩をすくめた。
「なら良いんだけど。たまには週末、夕飯食べに来なさいよ」
「……うん」
そう答えたら涙が出そうになって、私は誤魔化すためにスマートフォンをいじる。母はしばらくコタツに入って他愛もない話をしたあと、夕飯前に帰って行った。
母が帰るときに開けた玄関から空を見上げたら、昼間にどんより曇っていた空はいつの間にか晴れていて、夕焼け色に染まっていた。オレンジ色の月が空に見えた。そう言えば、年末に比べてずっと日が長くなってきてる。
玄関のドアをそっと閉めると、ちりんちりん、とドアベルの音が優しく響いた。
「昼間あんなに天気悪かったのに、散歩なんて」
そう思って、母の下手な嘘に苦笑する。きっと、父も出かけてなんていない。
明日も仕事。これからきっと、あったかくなる。私の冬も、長くは続かないんだろう。
春の足音が、聞こえた気がした。
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