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お初の家出


丁助ちょうすけ。おい、ピンゾロの丁助!」
「この辺に逃げ込んだのはわかってんだ!」
「とっとと出てきやがれ!」
 せっかく息を潜めて隠れているのに、何度も大声で叫ばれては堪らない。
 丁助は慌てて空木桶の中から身を乗り出した。
五月蠅うるせぇ、馬鹿。付け馬どもに見つかっちまうだろうが」
「そんな処にいたか」
 組み立てられた木枠に支えられ、縦三段に並べられた大桶の最下段。
 底蓋に貼り付いていれば、余程の思い付きでもない限り普通なら確認などしないであろう隠れ家に、ピンゾロの丁助は息を殺して縮こまっていたのだ。
 付け馬に渡せるだけの金があれば、もちろんこんな狭苦しい処に隠れていたりはしない。
 ピンゾロの丁助こと扇子職人の長助は、三度の飯より博打が好きという困った男である。本業に精を出して真っ当に稼いでいることは稀で、同じ長屋の住人からは「まともに働いているところを見たことが無い」とまで言われ、自作の扇子を売りに表へ出ようものならカンカン照りだろうと皆が雨の心配を始めるという有り様。
 扇子作りを生業にしようと江戸に入った長助は、江戸でもその名を知られた扇子職人に弟子入りしたものの、技巧の全てを受け継ぐ前に賭場浸りになって破門された身の上だ。
 部品ごとに分担されて作られる京扇子とは異なり、全ての行程を一人で担い作り上げるのが江戸の扇子であり、その仕上がりは即ち職人の腕次第である。
 現在は技巧の拙さを小手先の器用さでどうにか誤魔化しているが、長助の作り上げた扇子の出来は、文人からすれば微妙なところで卸し先も付きにくく、大抵は長助自身が歩き回りながら町人相手に売り捌かなければならない。
 半端者の職人が拵えた扇子が売れるかというと、勿論たいして売れない。扇ぐための道具が必要とされる夏と「開けば末広がり」という年賀の縁起物として買い求められる年の瀬を除けば、誰とて使わぬ扇子をわざわざ買い求めたりはしないであろうし、どうせ金を出すならば、やはり質の良いものを選ぶ。
 だから長助の扇子はあまり売れないし、掻き入れ時に売りまくって得た泡銭も博打の負け分として儚く消えてしまうので、滅多に残ったためしが無い。
 懐がいつも素寒貧だから交遊も狭いし、友人の数よりも顔なじみの付け馬の方が多いと自身が語り、しかも付け馬に追い回される原因が全て博打による借金で、知人に会えば説教を聞き流して種銭寺銭をせびるものだから、いよいよもって人が離れる。
 そもそも「ピンゾロの丁助」という渾名も、まだ見習い職人の頃に入り浸り始めた賭場で、無謀にも胴元相手にサシでの丁半三本勝負を挑み「半、丁、半」の順で賭けたものの、出目が三回ともピンゾロ、つまり「一」と「一」の丁目で敗れたところから勝手に付けられたものである。
 噂では、この一件が親方の耳に入ったことで破門になったそうだが、それが真実であるかどうかをわざわざ調べるような暇人はいない。
 そういう訳で、昨夜も博打で借金を拵えたピンゾロの丁助は、陰干しされている大桶の底に貼り付いていたのである。
「おい猪松いのまつ。わざわざ俺の名を呼んだってことは、何か俺に用があるんだろうな? 言っておくが金なら無いぞ。有ったらこんな処に隠れていたりはしねえ」
「知ってる」
 猪松は、丸顔の中心で福助人形そっくりの笑顔を作った。
「葛屋の御隠居が探していたぜ、丁助を見なかったかって」
「金の話か?」
「さあな。行けばわかるだろ。俺も付いていくけど」
「なんでだよ」
「見つけたら菓子くれる約束なんだよ」
「ガキか、手前は」
 横に長い厚紙に眉やら眼やらを描いた玩具、目鬘めかつらを売るのが猪松の本業である。
 本人に言わせると、昼間に買うのは子供ばかりだが、夜に盛り場をうろつくと、酒に酔った町人や宴席の余興を求められた幇間たいこもちらが買い求めるので、地廻りに渡す分を引いてもそこそこの稼ぎになるらしい。尤も丁助は、猪松の狙いが居酒屋や宴席に出される料理の食べ残しにあると踏んでいるのだが。
 そういう食べ物に対するだしい執着と、皿や容器に己の鼻面を押し付けんばかりの見苦しい食べ方から「豚松」と罵られることも少なくないが、本人は「飯が喰えれば幸せ」と言わんばかりに平気の平左を決め込んでいる。
「呼び出しついでに金貸してくれねぇかな」
 まあ例え俺が首を切り落とされるとしても、御隠居が貸してくれることはないだろうけどな、と愚痴りつつ、丁助は大桶から這い出して立ち上がった。懐が寒々しい身に吹きつける秋風は殊更冷たく、籠っていた桶の中の方がまだ暖かいと感じてしまう。
 どうか付け馬どもに見つかりませんようにと、名前も素性も知らぬ賭け事の神様に祈ってから、丁助は表通りへと駆け出した。
 見つからぬようにと願いながらも、出来る限り常人と変わらぬ動作で駆け続けなければならないのは、丁助にとって若干の煩わしさがあった。
 幼い頃から江戸に入るまでの間、丁助は郷里で忍びの修行を続けていた。
 表向きは何処にでも存在していそうな普通の村里だが、秘かに古来から伝わる忍びの技と術とを研鑽し、その両方を会得した若者を有力大名の元へ派遣、提供することで郷里の維持に必要な糧を賄い、時として地元の大名に恭順の意を示し続けてきた。
 その手法が通用しなくなったのは今の御公儀が出来上がってからだと里長に教えられてきたが、それより前の時代を知らぬ丁助には、以前の状態との違いがわからない。
 いずれにせよ、里全体の収入が大幅に減少していたところに、四公六民から五公五民への年貢米改め、さらには同時期に起きた凶作により困窮した里の権力者たちは、まずは田畑を持たぬ次男坊三男坊ということで忍びの修行をさせていた若者たちを、口減らしという名目で次々と里から出して江戸へと追い立てた。
 勿論、隠れながら忍びを育て続けていたことは、領主を介して随時報告を受けていた御公儀にとっては半ば公然の秘密であり、その技術を会得した者が江戸に流れ込むなど、これまでなら絶対に認められぬことであったろうが、その主な原因が凶作と飢饉であり、「やむなく」「仕方なく」「拠無く」を繰り返されたのでは、御公儀としても断り辛い。何より百姓一揆が頻発した当時の状況で、窮した里の忍びが一揆に加担しようものならば、こちらの消耗もより激しいものになるであろうと判断した御公儀は、江戸に入る者の素性を残らず報告すること、また里から監視役を派遣し厳重な監視を怠らないことを条件に、一部の里に限定してこれを承諾した。
 丁助らの里から認可付きで江戸入りが許されたのはごく最近のことであり、丁助は言わば「第一号」の一人である。
 さらに里側は、下手に有能な人材を江戸に押し付けて目を付けられぬよう、また御公儀から厄介事を押し付けられぬよう、忍びとしては無能、あるいは犯罪に走らぬ程度には良識を持ちながらも、性格に難のある若者のみを厳選していた。
 丁助もまた、その尋常ならざる博打好きのさがに辟易していた里の人間の進言により、選別されたようなものである。
 駆けながら振り返ると、どたどたと無様に腹を揺らしながら必死に追いつこうとする猪松の姿が徐々に遠ざかる。江戸に入った忍びには、猪松のように能力で大きく劣る者もいれば、内面に問題を抱えている者もいる。
 博打狂いは丁助に限らない。
 酒好きなくせに酒乱という、孫仲謀そんちゅうぼうさながらの迷惑者もいる。
女好きで、他人の女房に手を出して村八分をくらった奴もいる。
 血を見るのが至福という物騒な輩や、咎めても悪びれぬ嘘吐きは、さすがに江戸に余計な混乱をもたらしかねないとして忌避された。
 丁助にしても、手に職を付けてしまえば稼ぎながら好きなだけ博打が出来る、と内心では喜んでいたものの、その目論見は大好きな博打が原因でご破算になってしまったのだから、他人を嗤えない。
 おまけに、里を出る際に命じられた任務は今をもって未達成ときている。
「よいか、長助。江戸中を調べに調べ尽したうえで、貴様と同じような境遇にある忍びが生業として会得し、郷里の名産として通用しそうな職か品を見つけ出すのだ。それが見つからぬ限り、この里は遠からず滅ぶであろう」
 前者はともかく、後者の条件に当て嵌まりそうな仕事や名産品は、今のところ見つかってはいない。一応は、如何なる時であれ常にその件を頭の片隅に留めながら生活している丁助自身ですら、そのような都合の良い仕事があったとしても、とっくの昔に誰かが独り占めしているだろう、世の中とはそういうものだと諦めかけている。
 また里の名産になりそうな食材や工芸品にも目を配ってはいるものの、一から栽培ないし一人前になるまで育成するための時間や場所が求められるものばかりであり、手っ取り早く評判になりそうなものは、御公儀や有力大名による手厚い保護を受けており、そのずいを得るのは非常に難しい。
 そうかといって、里が今まで通りの密偵稼業を続けていくには、あまりにも見通しが暗いと言わざるを得ないのが昨今の情勢である。
 長年の統治による御公儀の御威光が浸透する事、まさに鶴翼の如しという現状では、大名同士の領土争いなど起る筈もなく、仮に争いが起こったとしても御公儀の介入により即座に決着するので、諜報や攪乱を担う忍びの出番など、滅多に無い。
 長助は、幼い頃から忍びとしての技術と体術や知識などを、厳しい修行を通じて叩き込まれ、いざ一人前の忍びとして認められはしたものの、その腕前を見込んで雇いたいという大名は中々現れなかった。
 一度だけ、さる外様大名からの依頼で紀州へ飛んだことがあったが、内容は婚姻相手の好みを調べ上げるという凡庸なものだった。しかも依頼主である大名側の厳しい台所事情から、どうにか捻り出された報酬も、殆どは里に吸い上げられてしまったので、すっかり意気消沈してしまった長助は、その日以来博打に溺れるようになってしまった。
 江戸に入ると決まってからは、これで少なくとも遣り甲斐の無い密偵の仕事を待ち続けなければならぬ情けない日々を送ることはない、と秘かに小躍りしていたものの、長々と平穏な江戸暮らしを続けていると、やはりこの時代に雇われの密偵稼業は通用しない、このままでは郷里の困窮は続く一方でしかないのだと改めて痛感する。
 どうにかならぬものか、一筋の光明だけでも見出せぬものかと、散策と情報収集を続けているうちに、ついふらふらと足が賭場に向かっては金と時間を無駄に費やしてしまうのが、ピンゾロの丁助にとっての日常なのだ。
 尤も丁助に言わせれば、賭場で博打を打つのも情報収集の一手法なのである。賭場に集まる博徒のような連中は、その殆どが郷里から追い出されたか、郷里に居られなくなり自分から飛び出したかで江戸に流れ込んできたような奴らばかりである。敵意を見せず彼らに近づき、酒を振舞いながら郷里自慢を語らせることで、名産の手掛かりを得ようとしているのだと嘯く。そして、たいした手掛かりも得られないまま、最後は素寒貧になって賭場から追い立てられているのがピンゾロの丁助なのである。

 日本橋をば南に抜けて、馳せ参じたるは御隠居こと葛屋惣兵衛くずやそうべえの住む小さな草庵。
「え、御免くださいやし。お探しの丁助でございやす」
 誰もいない玄関口で腰を曲げ、呼びつけられた際の常套句となっている口上を述べると、奥から老人のものとは思えぬ闊達な声が返ってくる。
「おや、丁さんかい。まあお上がんなさい」
「それでは」
 草履を脱ぎ、丁寧に揃えてから縁側を歩いて奥座敷へと向かう。
 丁助が初めてこの庵を訪れた際、玄関先でおとないを入れずに上がり込んだところ、何処を探しても惣兵衛は見つからず、さては留守かと思いかけたところで背後からぽかりと殴られ
「おや、泥棒じゃなかったのかい。客人のつもりなら、ちゃんと玄関口で訪いを入れなければ痛い目を見るよ」
と、痛い目に遭わせておきながら笑顔で叱られた覚えがある。
「失礼します」
 明障子あかりしょうじで区分された座敷の奥には、主の惣兵衛が床の間を背にちょこんと正座していた。
 葛屋惣兵衛。
 元はピンゾロの丁助や目鬘の猪松らが住んでいた郷里を治めていたという先々代の長の腹心であり、若い頃は江戸で諜報活動を続けていた男でもある。息子の一人が奉公先の津で出世し暖簾分けを受けたこと、ほぼ同時期に忍びの頭領を兼任していた里長が息子にその座を継がせて隠居したことを機に、忍びの世界を引退。今は息子からの仕送りを受けながら、津や郷里よりも住み慣れた江戸で悠々とした隠居生活を送っている。
 丁助ら若い忍びにとっては、長い人生設計の目標ともいうべき人物である。
 惣兵衛の経歴と引退後の生活については公儀にも把握されており、また惣兵衛自らが公儀隠密を介して町奉行に自ら打ち明けており、監視を条件に認可されているのだという。
「おや、猪松さんは一緒じゃないのかい?」
「野郎なら今頃、転がりながら日本橋を渡ってるでしょうよ。走るより転がった方が速い男ですからね」
「あんまり馬鹿にするものじゃないよ。猪松さんだって忍びとして育てられた男だ。動きは鈍いが、術ならお前さんと比べても劣ったものじゃない。それに腰が低くて愛嬌のある丸顔だから、相手によっては簡単にこちらが知りたいことを喋ってくれる」
 確かに、朴訥で愛想のよい猪松の方が自分よりも情報収集に適していることは、丁助自身も認めているところではある。
「遅れて来るのでは仕方ない。まあ、お座りなさい。お茶を用意しよう」
「それでは失礼して」
 丁助は下座で胡坐を掻いた。少々無作法ではあるが、この座敷では座布団が出ない代わりに胡坐が許されている。
 世代交代の折に先々代の息子である新たな長が惣兵衛の引退と江戸在留を認可したのは、丁助らのような忍びの江戸移住計画に使い易いという利点もあったのだろうが、衰え能力的に忍びとしての任が務まらぬようになった惣兵衛を合理的に厄介払いできると同時に、兄弟間の跡目争いや今後も起こるであろう権力抗争への介入を避けるための隔離手段になると判断したからであり、それは当の惣兵衛自身も引退前から自覚したうえでの保身術であったのではないかと、江戸に流れてきた忍びたちの間では噂されている。
 緩慢な動作で惣兵衛が座敷から離れると同時に、玄関口から猪松の威勢の良い声が轟き、そのままどたどたと忙しない足音を立てながら、転がるように本人が座敷に転がり込む。
「いやあ、遅くなって申し訳ねぇ」
 満面の笑みを浮かべた猪松の顔が、次の瞬間には怪訝な表情に変わる。
「御隠居は?」
「茶の用意」
「おくにさんは?」
「出かけているんだろう」
 住み込みで惣兵衛の面倒を見ている年増女のお邦は、惣兵衛の監視役として公儀から派遣された密偵でもある。恐らく、猪松が丁助を捜しに表へ飛び出したのを見届けてから、報告に向かったのだろう。
 そう間を置かず、惣兵衛が三人分の茶と茶菓子を運んできた。
「おや、猪松さんも来ていたのかい」
 驚いたように見せかけているが、本当に気づいていなかったのであれば、運んできた茶は二人分のはずである。
「丁度良かったよ。約束の|薯蕷饅頭じょうよまんじゅう、召し上がれ。丁助さんも、おあがりなさい」
「それでは遠慮なく」
 うほっと歓喜の声を上げ、猪松は差し出された薯蕷饅頭を掴んでかぶりついた。饅頭を掴んだ指先が己の鼻面にくっつきそうな勢いで貪るその様は、まさしく餌にありついた豚そのものである。
 一方の丁助は、茶にも薯蕷饅頭にも手を付けず、惣兵衛が座に着くなり身を乗り出した。
「御隠居。俺に何か用事があるということですが」
 丁助にとっての勘どころは、その用事に金が出るかどうかという点である。
 それに対し、惣兵衛は驚くでも叱るでもなく、薄くなった白髪頭でどうにか結える程度の丁髷を揺らしながら笑う。
「まあまあ。そうせっつかれたのでは、折角寄ってきた福の神も逃げてしまうよ。まあ茶でも飲みながら、まずはこの老人の話を聞いてはもらえんかね」
 口に物を入れた状態の相手であれば、説明の最中に茶々を入れられることもない。
 惣兵衛のいつもの手口ではあるが、さりとてこちらが饅頭を食べ始めない限りは話を進めようとしないあたりも、いつも通りである。
 仕方なく手を伸ばした盆の上。しかし、そこに存在していたはずの薯蕷饅頭の姿は忽然《こつぜん》と消え失せていた。
「豚松! 手前、俺の饅頭まで喰いやがったな!」
「おあがりと言われたのに手も付けないから、てっきり喰いたくねぇのかと思ったんだ」
 二個目の薯蕷饅頭を飲み込んでから、空々しく惚ける猪松。
「やれやれ、しょうがない小僧だ。丁助さん、良かったら私の分を食べるかね?」
「いや、それには及びませんので」
 ならば俺がと惣兵衛の薯蕷饅頭へと伸ばした猪松の手を、丁助と惣兵衛が同時に引っぱたく。
「それよりも、そろそろ用事の話を」
「そうかい」
 惣兵衛の顔から笑みが消えた。
伊勢屋万右衛門いせやまんうえもんさんの頼みなのだがね」
「伊勢屋かぁ」
 己の眉間に縦皺が生じていることは、丁助も自覚している。
 伊勢屋万右衛門といえば、先代が一代で財を成した染物問屋の二代目である。
 齢は三十半ば、父に似て日々の商いには精力的に従事する生真面目な商人として知られており、丁助のような素人でもその評価通りの人物であると認めざるを得ない。
 では、その男の依頼に、何故丁助は嫌な顔をするのか。
 それは丁助が、伊勢屋の依頼によって散々に振り回された挙句、煮え湯を飲まされた過去があるからだ。
「人捜しなのだよ」
「御隠居、まさか」
「お初さんだ」
 平然と番茶を啜る猪松の隣で、丁助が「ああ」と呻き声を上げた。
 話は一年前に遡る。
 博打が原因で親方の元を追い出された丁助が、これからの身の振り方を惣兵衛に相談している最中に乗り込んできた伊勢屋万右衛門は、赤ら顔の赤みを際立たせながら一気に捲し立てた。
「妾のお初が間夫と逃げた」
「最近は商いが多忙で構ってやれず、昨日もその件で喧嘩したのだが、そこに付け込んだ間夫がお初を適当に言い包めて連れ出したに違いない」
「間夫はどうなろうと構わないから、とにかくお初を見つけて連れ戻したいのだが、惣兵衛さんは人捜しに適任の人間を知らないか」
 怒りと焦燥で明らかに分別を失っている万右衛門をどうにか宥め、もう少しお初さんを信用してやったらどうだねと言う惣兵衛であったが、男に誑かされたに違いないという万右衛門のお初に対する疑惑は微塵も消える様子を見せない。そのくせ肝心の間夫については何も知らず、それでいて今の生活に不満があろうはずがない、儂に詰られ傷ついたお初に言い寄ってきた男に騙されているに違いないと万右衛門は繰り返す。
 逃げ出したということは愛想を尽かされたということだ、それでは連れ戻したとしても同じことを繰り返すだけではないのかと問う惣兵衛に、
「お初も今頃は、頭を冷やして自分が悪かったと反省しているだろうから」
と根拠も無しに勝手なことを言う。
 ともかくもお初さんの身が心配だからと、半ば押し付けられるようにお初捜しを引き受けた惣兵衛は、うっかりその場に居合わせ一部始終を見てしまった丁助にこの一件を委ね、伊勢屋には報告を待つように言い含めて帰ってもらうことにした。
 ところが翌日の夕方。取り敢えず浅草から北方面を虱潰しに調べてみた丁助が、その結果報告に向かった惣兵衛の庵には、当の伊勢屋万右衛門が昨日とは一転して申し訳なさそうに縮こまっていた。
「何卒、昨日の話は聞かなかったことにして頂きたい」
 一介の元職人見習いごときに頭を下げる大店おおだなの主の話では、間夫の手掛かりを求めてお初の妾宅に乗り込んだところ、いなくなった筈のお初がケロリとした顔で出迎えたのだそうだ。
 今まで何をしていたのか、昨晩は何処に泊まっていたのかを問い質すと、お初は妾宅を飛び出してから浅草の女友達の処に転がり込み、旦那の悪口を散々に捲し立てた挙句にその女友達から身勝手を叱られ、二人で謝りに帰ってきたらしい。
 早い話が、たまたま構ってもらえなくなったことから勃発した痴話喧嘩が、一晩経って元の鞘に納まっただけである。
 お初は必ず戻って来ると未練たらしく繰り返していた伊勢屋がこれを許さぬ筈もなく、惣兵衛もまた平謝りの伊勢屋を許したとあっては、丁助一人が怒るわけにもいかない。
 結局詫び料が懐に入ったものの、妙な遣り切れなさに抓まれた丁助に、
「これもまた、江戸の人情というやつですよ」
と惚けたことを惣兵衛が呟いたことだけは、何故かしっかりと覚えている。
「前回で懲りなかったのか、あの色惚けは」
 伊勢屋万右衛門が愛妾お初の失踪を、間夫との駆け落ちが原因だと言い張った根拠は、お初一人では自分以外に頼れる相手もおらず、また妾としては今より恵まれた生活など望むべくもないことを彼女は理解しており、その生活をかなぐり捨てるほどの理由は恋愛以外に考えられないからだと言っていた。
 見方を変えれば一種の自惚れであり、その辺りも丁助は苦々しく感じている。
 丁助よりは年上なのだろうが、年齢の割には妾を囲っても生活には困らない程の裕福な生活を送っていることも、丁助にとっては鼻持ちならない。
 そうかといって、女房や妾を相手に博打絡みで揉め事を起こすような生活は願い下げだし、何より伊勢屋のような男でさえ振り回され持て余す、お初のような女と所帯を持ちたいとは絶対に思わない。
「前回ではないのだよ、丁助さん」
「へぇ?」
「実はあの後、伊勢屋さんは同じことを三度も繰り返しているんだ。丁助さんは気を悪くするだろうと思って頼まなかっただけで、そこにいる猪松さんにもお初さん捜しを頼んだことだってある。勿論何もしないうちから、お初さんが帰ってきたのだがね。お初さんが家出をしなくなったのは、御内儀の提案で伊勢屋さんが自宅に建てた離れに移り住んでからのことだよ」
「そうそう、覚えてる」
 ようやく満ち足りたらしい腹を摩りながら、猪松が頷く。
「染物問屋というのはあれか、馬鹿でも出来るもんなのか」
 口では悪態をつく丁助だが、しかし翌日には取り下げられた上に詫び料も入るのであれば、今回ぐらいは引き受けても良いなどと、腹の内では調子の良いことを考えている。
「まあ、どのみち今までと変わらないのでしょうな。こちらが引き受けなくとも、明日になればまたお初は帰っているんでしょう。待つに限る」
「それが、どうも今回はいつもと様子が違うのだよ」
「違う、と仰ると?」
「これまでは一方的に捲し立てていた伊勢屋さんが、まるで人が変わったかのように私の顔色を窺いながら、御迷惑ではございましょうがと、下手に出てきたのだよ」
「これまでがこれまでだったのだから、流石に気が引けたのでは?」
「いや。今回は男と駆け落ちしたのでは、と勘繰ることもなく、しかも連れ戻してくれたらその先の説得は自分がする、とまで言い出してね。明らかにおかしい」
 確かに、お初は必ず自分の元へと戻って来ると信じていた伊勢屋にしては気弱に思える。
 何か、お初を裏切るような真似を仕出かしたのか。
 それとも、これまでは危惧に過ぎなかった魅力的な男が、お初の前に現れたというのか。
「それに伊勢屋さんの話では、今回は前触れとなる喧嘩も無かったらしい。ある日突然、世話係の少女と共に忽然と消えてしまったのだそうだ」
 今度も家出か。
 それとも誑かされたか。
「こうも今迄とは違うとなると、私も気になるのだよ。丁助さん、あんたは気にならないのかね」
「なりますね。これは気になる」
 つまりは、お初捜しを引き受けるということになる。
「伊勢屋は、幾ら出すと言ってました?」
「三両」
「俺も捜すよ」
 それまで、居眠りでもしているのかと思うほど静かだった猪松が、声を上げた。
「俺だって、お初さん捜しを頼まれたんだ。気にならない筈が無いじゃないか。そんな話を聞かされて俺だけ仲間外れは無いだろうよ」
「すると、俺と御隠居と猪松で一両ずつか。まあ、後で詫び料が入ってくるかもしれないが」
 一両あれば、博打の負け分を返すには十分である。
「しかし、気をつけるのですよ、丁助さん。今迄とは違うということは、それなりの危険も覚悟しなければならないのだからね」
「御隠居。それなんですが、万が一の場合は手を振るっても宜しいですかね?」
 江戸に入る前から認可を受けていたとはいえ、丁助のように忍びの技と術を会得した者が公儀のお膝元である江戸に入るのは、危険と見なされても仕方がない。
 故に、江戸では三つの誓いを立てさせられる。
不殺ふさつ
 殺さず。
不盗ふとう
 盗まず。
不袒ふたん
 右袒うたんせず。
 一つ目と二つ目は、そのままの意味である。三つ目の「右袒せず」とは、主たる公儀に逆らう輩とは手を組まない、という誓いだ。
 これは外国の歴史書で、正統な統治者に味方する者は左袒さたん、即ち着物を脱いで左肩を見せ、権勢を誇っていた反逆者に従う者は右袒せよと言ったところ、その場に居た全員が左肩を見せたという故事に倣ったものらしい。
 この誓いのいずれかを破った者は、速やかに同胞の手で始末される。
 それに対して丁助が問い質した「手を振るう」とは、命までは奪いはしないものの、己が身に危険が迫った場合は暴力をもってこれに応じ、あるいは忍びの術を使用しても構わないかという確認である。これすら認められない場合、たとえ理不尽な理由で白刃を突き付けられたとしても不抵抗を貫き通し、その日の食事にも困り果て餓死を待つ身であろうと盗みを行ってはならない。
 それが掟であり、それを遵守すると宣言したからこそ江戸に留まっていられるのである。
 その厳しい掟を条件付きながら解除できる権限を持っている数少ない一人が、ここにいる葛屋惣兵衛なのだ。
「お二人だけならどうにでもなりましょうが」
 少しばかり俯き案じていた惣兵衛は、瞳に決意の輝きを宿して顔を上げた。
「お初さんの身に危険が及ぶことも有り得る。認めましょう」
 途端に。
 庭の松木から飛び出した黒い影が、ぱっと土塀を跳び越えた。
「御隠居」
「なに、いつものですよ」
 飛び去った影は公儀隠密に違いない。
 惣兵衛を監視し上役に報告するのが任務であり、彼女が報告に発ったということは、惣兵衛が伊勢屋から聞き頼まれていた内容を包み隠さず丁助に伝えていたという証左に他ならない。
「いつも通りの報告を済ませたら、市場で今晩のおかずを買ってここに戻ってきますよ。それでは丁助さんに猪松さん、お初さん捜しをよろしくお願いしますね」

 丁助と猪松が伊勢屋万右衛門の妾お初を捜し始めてから丸一日が経とうとしていたが、お初の足取りは一向に掴めず、また彼女が伊勢屋の離れに舞い戻ったという話も聞かない。
出汁漬だしづけと梅干し」
 行きつけの茶漬け屋で、丁助はいつも通りの昼飯を注文した。
 当時の江戸では、茶漬けのみならず副菜や軽食を出す店が好評を博しており、店先に「八八はちはち茶漬け」の看板を掛けておけば自然に客が集まって繁盛したと言われている。
 とはいえ、どの店も狭い敷地の殆どを占めているのは調理場で、残った空間も店の者が往復する通路以外は酒甕が置かれているか、幾つかの床几しょうぎが重ねられているのみだ。注文を終えた客はこの床几に腰掛ける。江戸に限らず、これが当時の居酒屋であった。
 この茶漬け屋も表通りでは人気の一軒で、白飯に茶を注ぐ一般的な茶漬けのみならず、昆布と鰹節で取った出汁を注ぐ出汁茶漬けや、味噌を溶いた汁を注ぐ味噌出汁漬けといった変わり種も売っていた。
 さっぱりとした味付けの出汁漬けと粒の小さな梅干しは、どちらも丁助の好物である。
「また、それかよ。白地に赤いのばかり喰っているからピンゾロが出るんだ」
「うるせぇ」
 揶揄う猪松は猪松で、大盛りの茶漬けに鮭の塩焼き、葉山葵はわさびにたくあん、煮しめ、締めに隣の饅頭屋の饅頭まで頼むのだから呆れたものである。
 注文を終えた二人は壁に立て掛けられた床几を表に出し、腰を下ろした。座れるだけの余裕があったのは幸いで、繁盛している時には茣蓙敷ござしきで茶漬けを啜る破目になる。
「それで、そっちに収穫はあったのか?」
「まあ、あれだ。芳しくないってやつだ」
 丁助と猪松は二手に分かれ、丁助は浅草と神田方面での聞き込み、猪松は両国に店を構える伊勢屋の奉公人と小女から話を聞き出す手筈になっていた。とはいえ丁助は、付け馬から逃げ回ることで結構な時間を浪費していたのだが、それは敢えて語らない。
「浅草に居るという女友達の処へ行ってみた。お初同様に札差の妾をやっているおみつという三十女なんだがな、これまではお初も喧嘩のたびに此奴の処に転がり込んていたそうなんだが」
「居なかったんだな」
「その場にお初が居たら、俺は今頃こんな処で昼飯を喰わずに、御隠居の処へすっ飛んでいただろうな。お初が転がり込まなかったことについては、おみつも驚いていたぜ」
 ついでに聞き出した話では、おみつとお初が出会ったのは日本橋の越後屋で、偶々たまたま在庫が一つしかなかった反物を巡って掴み合いになりかけ、その後に入った茶店で同じものを注文したことから生じた縁だという。
 お初の家出に驚いたおみつは、急にお初の身を案じ始めた
「あたしの家以外に、あの子に転がり込むような転がり込む当てなんてあるのかねぇ」
「お初ちゃんは男勝りで無鉄砲なところがあるから、何処かで無茶してなければいいけど」
「旦那さんも反省しているんだろう? あたしも旦那と喧嘩したら必ず後で謝っているし、それが妾の礼儀だと弁えているから、早くお初ちゃんも旦那さんに謝って仲直りしてもらいたいねぇ」
 人情家なのか、それとも寂しがり屋で友達に会えなくなるのが怖いのか、不安げなおみつに何かしら裏があるとは、丁助には思えなかった。
「おみつの話だと、お初は伊勢屋の内儀の世話をする小女として奉公に入ったそうだが、伊勢屋がその見た目と性格を気に入って囲い者にしたそうだ。出身は越後らしい」
「じゃあ、里心がついて越後に帰ろうとしているんじゃないのか?」
「馬鹿か、てめぇは。江戸で金持ちの妾として暮らしていた女が、郷里にとんぼ返りして、どうやって暮らしていけるんだ。慣れぬ野良仕事を押し付けられ、今迄は当然だった贅沢も出来なくなるんだぜ。旦那と喧嘩して家出するような女が生きていけるもんかよ」
「それじゃあ、郷里に居る親兄弟の誰かが危篤なんじゃないか?」
「それならそれで、伊勢屋か内儀に打ち明けてから出発するのが筋ってもんだろう。むしろ、そうすれば旅費や駕籠代も出してもらえたかもしれねぇのに、そうはしなかったのがおかしいんだ」
 反論してから、丁助の胸中に新たな疑問が沸き上がった。
 逃げ出すにしろ飛び出すにしろ、必要とされるのは金である。
 お初が自発的に行方を眩ませたのであれば、その先に必要になるであろう資金は何処で調達したというのか。おみつの処へ転がり込んだ際には多少なりとも小遣いが与えられていたそうだが、今回はその当ても無いのだ。
「おみつは何も知らなかったってことは、今回の家出とは無関係と考えていいんだな?」
「多分な。あの顔は嘘を吐いている顔ではなかったし、話してくれた内容に矛盾も見つからん。念のためにと話を聞き終えてからおみつの家に忍び込んでみたが、お初本人はもとよりお初が泊まっていたという形跡も見つからなかった」
 話を聞き終えた丁助は、お礼にと自作の扇子を一本差し出したのだが、おみつは笑顔で受けとりながらも、ぼそりと呟いた。
「どうせなら、団扇の方が嬉しかったんだけど」
 これには丁助も、うへぇと舌を出すしかなかった。
「それに、浅草と神田でお初を見なかったかと聞き回ってみたんだが、ここしばらくはそれらしい女は見ていないと誰もが答えやがる。おみつの話じゃ、お初は伊勢屋と喧嘩して自分の処に転がり込むまでの間に、必ずと言っていいほど派手な着物姿のままで騒動を起こしていたそうだが、今回に限ってはそれも無ぇらしい」
「じゃあ、いつもの処へは行かなかったわけか」
「へい、お待ちどうさま」
 丁助の元へ出汁漬けと梅干しが運ばれてきた。
「なんだよ、丁の字の方が先かよ」
「当たり前だ。俺が頼んだのは出汁漬けと作り置きの梅干しだけなんだからよ。鮭の切り身まで焼いていたら、そりゃあ手間が掛かるってもんよ」
「ちぇっ」
「いいから、そっちはどうだったのか早く言えよ」
 床几の一端に腰を下ろしたまま梅干しを齧り、出汁漬けをかっ込みつつ、丁助は猪松の調査報告を促した。
「伊勢屋の店先と万右衛門の自宅まで行ってみたんだろう?」
「小僧共は何も知らなかったぜ」
 猪松が話を聞き出す相手は、主に子供である。
 買い集めた甘い菓子を分け与えながら、福々しさのある丸顔で世間知らずの子供を少々持ち上げつつ話していれば、大概の子供は口が軽くなるものだとしばしば吹聴する。
 猪松のこの類の手法について、丁助は素直に評価しているつもりではあるが、甘いもので相手を吊るという方法は、本当は分け与えるのを口実にして自分が菓子を食べたいが為であることも知っている。
 その猪松は、丁助が出汁漬けの中に放り込んだ梅干しの残りに物欲しげな視線を送りつつ報告を続ける。
「まあ伊勢屋の小僧共がお初を知っている道理も無いだろうが、派手なじゃじゃ馬が店先をうろついてやしなかったかと尋ねてみても、皆揃って首を横に振るばかりだったぜ」
「番頭は?」
「けんもほろろ、というやつだ。まあ番頭や手代にとっちゃ主人の痴話喧嘩なんてものは、店先で騒ぎ立てる猫の喧嘩みてぇなもんなんだろうな。お初の名前には思い当たるふしがあったみたいだが、私どもは一切関わりございませんと、まるっきりの他人事だったぜ」
「まあ、今迄が今迄だったからなぁ」
 己が主人を、店のことなどそっちのけとばかりに幾度も奔走させている妾について聞かれたのでは、確かに良い気分にはなれないだろう。
「逆に考えたら、伊勢屋の番頭や奉公人たちがお初をかどわかした、ということも有り得なさそうだぜ。勝手にいなくなっただけで店に迷惑をかけるような女を、わざわざ目的も無しにかどわかす必要なんてあるわけもない」
「身代金が目的かもしれんぞ」
「それならそれで、お初一人だけといわず内儀も一緒にかどわかしているんじゃないか? 聞いた話じゃ、お初が離れからいなくなった時、内儀も伊勢屋の自宅に居たそうだぜ」
「賊が侵入したとは限らないだろう。お初が離れを抜け出して、一人で表をふらついていたところを、かどわかされたのかもしれねぇ」
 そう言ってから、丁助は出汁漬けを頬張った。ふやけて柔らかくなった白米に鰹と昆布の旨みが吸い込まれ、これまで粗食に甘んじていた丁助の舌を得も言われぬ喜びで満たす。
「それで猪松、伊勢屋の自宅は調べたんだろうな?」
「いや、それが、その」
 梅干しに注がれていた猪松の視線が、急に宙を漂い始める。
「さぼったな?」
「違うんだよ。お初と内儀の仲を調べるために色々と聞いて回っていたから、忍び込む時間が無かっただけなんだよ」
 猪松が不得手としているのは、忍び込みと荒事だ。
 とても身軽とは思えぬ図体で動きも鈍く、しかも意気地が無いので、正面からやり合うことをとことん嫌う。戦況が少しでも不利になれば逃げだそうとするし、逃げ場を失えば土下座してでも許しを請う。一応これでも郷里で丁助と共に忍びの修行を続けてきた筈なのだが、このざまでは仮に忍びの正体を世間に知られたところで、誰も信じてはくれないだろう。
 そういう意味では、己を上手く隠しているのかもしれない。
「それで、お初と内儀の仲というのはどうなんだ?」
「出入りの呉服屋や小女|《こおんな》の話では、険悪なものではないらしいよ。元々、お初が内儀の身の回りの世話をする小女だったことも関係しているんだろうな。伊勢屋と内儀の仲も悪くはないのだが、それをお初が一方的に嫉妬したり、対抗して突っかかったりすることもあるにはあるが、基本的には姉妹か母娘のような関係で、子宝に恵まれない内儀もお初と暮らすことで家の中が賑やかになったと喜んでいたそうだ。これまでの家出の件も、まるで肉親のようにお初の身を案じていたんだってよ」
「猪松。お初が居なくなった時のことについて、そいつを語ってくれた小女から、何か聞き出せてないか?」
「それが、内儀に頼まれて伊勢参りの手形を受け取りに出かけている間に、お初の身の回りの世話をしていた小女と一緒に、ふっといなくなってたんだとさ。内儀が呼んでいると伝えに離れへ行ったところで、いなくなったことに気付いて、内儀も含めた全員で家の外やら内やらを捜し回っていたところへ伊勢屋が帰ってきて、この騒ぎというわけだ」
「伊勢屋の伊勢参りか。いや、しゃれてる場合じゃねぇな。内儀は、お初が出ていくところを見なかったのか?」
「見ていたら引き留めている筈だって、小女は言ってたぜ。内儀はお初とは対照的に控えめで慎み深いけれど、そういうところは引かない人だってよ」
「つまり、お初は控えめでもなければ慎ましくもないってことだな」
 そういう女の、一体どこを気に入って妾にしたのか。
 丁助には、伊勢屋の好みが今一つ理解できない。
「どうだろうな、丁の字。伊勢屋の商売敵がお初をかどわかして、何か大口の商いから手を引くよう脅しているとか、考えられねぇかな」
「それならそれで、お初をかどわかした奴らから何がしかの動きがある筈だろう。それも無いうちから伊勢屋が御隠居を訪ねてきたというのは、流石に無理がないか? 俺が伊勢屋で相手に心当たりがあるのなら、お初を捜してくれと頼む前に、まずは向こうの仕業かどうかを確かめたうえで出方を探る。下手に騒ぎを大きくしてお初の身に危険が及んだんじゃ、それこそ本末転倒だからな」
「じゃあ、これから動きがあるかもしれねぇ」
「無いかもしれねぇ。いずれにせよ、俺たちは頼まれた通りにお初を捜さなければならないことに変わりは無ぇんだ……まて、猪松。おいこら、てめぇ、その顔は何か知ってやがるな?」
 丁助の詰問に、猪松の丸顔が萎む。
「いや、そうじゃねぇ。たった今、思い出したんだ」
「何を」
「番頭から話を聞こうと裏手で待っている間、妙な連中が伊勢屋の周りをうろついていたんだ。見た目は田舎のヘボ侍で、数は三人か四人。どいつも剣呑な雰囲気を漂わせていてな。刃傷沙汰は願い下げなもんで、触らぬ神になんとやらを決め込んでいたんだが、連中の目的はどう見ても伊勢屋だったぜ」
「伊勢屋に田舎侍が、なあ」
 恐らくは江戸勤番と呼ばれている、大名に付き従って江戸入りしたばかりの藩士だろう。
 目的は、金か。
 葵の御門の御威光が天下に轟くようになってから、各地の大名は有名な寺や橋の普請《ぶしん》を任されるようになったという。厳密に言えば、普請による功績を重ねることで朝廷から官位を授かることが、大名としての栄誉に繋がるのだそうだ。
 但し、普請に掛かる莫大な費用は大名の負担になるので、予想外の出費に困窮する大名も出始めた。しかも元禄に入ってからは武士も体面を気にする風潮になり、見栄や対抗意識から発した散財の挙句に豪商から借金する大名も、急激に増えたと聞く。
 伊勢屋もまた秘かに多くの大名を相手に貸し付けを行っているらしく、二代目に当たる万右衛門の手腕が褒め称えられている要因も、その辺りにあると噂されている。
 しかし武士たる者が、それも大名が町人如きに頭を下げて金を借り、しかも期限内に返せぬ時にも頭を下げて期間の延長を乞い願うとは甚だ理不尽であると激昂し、あまつさえそれを理由に返済を拒否するという、困った輩もいると聞く。
 下々の者ですら忌み嫌う「踏み倒し」というやつである。
 大名でも借りた当人、即ち殿様や家老あたりならば、周囲の風聞をおもんぱかり、返済できぬことを恥として、何が何でも完済しようと倹約に勤めるだろう。しかし、無理をしながら金を返すよりも、債務そのものを御破算に出来る方法が存在するのであれば、非合法でもそちらを選択するという輩は、残念ながら下級の武士に多い。そういう地位も責任も軽い連中が、こうすれば主人のためになると勝手に勘違いして、さらに貸し手の妾であるお初の家出を知れば、どういう手段に訴えて来るのかわかったようなものではない。
「危なっかしいな……そいつら、まさか伊勢屋に因縁つけに行ったわけじゃないだろうな」
「まさか。そんな破廉恥をやらかせば主人の恥となるぐらいの自覚はあるだろうよ」
 だからこそ表立っては動かず、お初をかどわかす暴挙に出る恐れはある。
「しかし、お初も酷い女だよな。せっかく本妻が一緒に伊勢参りを楽しもうって誘ってくれたのに、断るどころか勝手にいなくなっちまったんだからよ」
「一緒に?」
 出汁漬けの最後のひと口を啜り終えた丁助が、残しておいた梅干しへと伸ばした箸を止める。
「おう。亭主の無病息災と商売繁盛をお祈りしに行く予定だったんだとさ。ついでに子宝に恵まれますようにって付け加えるつもりだったのかもしれねぇな」
 揶揄うように言う猪松の元へ、大盛りの茶漬けと、鮭の塩振り焼をはじめとした副菜が次々と運ばれる。
 猪松の歓声は、丁助のあっという叫び声に掻き消された。
「しまった、しまった。伊勢参りだ。畜生、どうしてこの手に気付かなかったんだよ」
「どうした。丁の字」
 ふがふがと茶漬けを貪りながら、呑気な声を掛ける猪松。
「猪松、今すぐ伊勢屋の内儀の処へ向かうぞ。大急ぎで話を聞かねばならねぇ」
「内儀?」
「ああ。恐らく内儀はお初とぐるだし、俺たちに知られたくはない大事なことを隠している。伊勢屋の周りに屯していた侍共が気掛かりだし、直接会って聞き出さないと」
 床几を蹴って立ち上がろうとした丁助の腿に、どんと重たいものが圧し掛かった。
 猪松の脛。
「ちょっと待ってくれ。せめて茶漬けを喰ってから」
「じゃあ勝手に喰ってろ、この豚松!」
 重い脛を手で払い落し、立ち上がって駆け出した丁助の背中に、またしても猪松の呑気な声が浴びせかけられる。
「おぉい、丁助ぇ。お前の残したこの梅干し、俺が喰っても構わねぇんだなぁ?」

 伊勢屋万右衛門を介さず、彼の内儀から直接話を聞いたことで事態が好転した。
「おい、いたぜ」
 あと数里も歩き続ければ、箱根の関所が視界に入るであろうという山道。
 一尺ばかりの桐箱を背負った丁助と、竿竹の先に僅かばかりの目鬘をぶら下げた猪松は、少女の手を引いて歩くお初を発見した。
 内儀が言っていた、お初の世話係であろう少女を連れて先を急ぐお初の服装は、小袷の上に塵除けの浴衣を羽織り、扱き帯を締め菅笠を被っている。大柄であれば少女と連れ立って歩くその姿は母娘のように見えたかもしれないが、お初自身も小柄なので、むしろ姉妹のように見える。
 伊勢屋の内儀から、お初失踪の裏に隠された真実を聞き出した丁助と猪松は即座に江戸を発ち、忍びの健脚でお初を追った。朋友に比べて劣っているとはいえ、猪松も郷里で忍びの修行を続けた男。長距離を全力で駆ければ並の人間では追いつくのは叶わず、丁助は当然ながらその猪松の速さを上回る。
「さて」
 伊勢屋参りに行くということは、箱根の関を越えるための手形を用意しているということでもある。お初が一人でその手配を済ませたとは考えにくく、内儀が用意した手形を持ち出したと考えるのが妥当だろう。
 しかし小女の話では、お初がいなくなったとわかったのは、小女が手形を内儀に渡してからのことであり、家人がお初を捜している間に当のお初本人が自宅から手形を持ち出すというのは、例えお初が忍びの術を会得していたとしても至難の業である。
 だが、持ち出したのが内儀であり、お初を捜す振りをしながら屋内のどこかに隠れていた彼女に手形を渡したのだと考えてみたら、どうなるか。
 お初が行方を眩ますことを、予め知っていたことになる。
 それを伊勢屋万右衛門に告げなかったのは如何なる理由からか。
 亭主には知られたくない、或いは知らせたくない秘密があるに違いない。
 そう読み解いた丁助は、伊勢屋の周辺をうろついていた侍共を引き合いに出してお初の身の危険を説き、今は彼女を保護する必要があると繰り返し懇願して、ようやく真実に辿り着いたのである。
 伊勢参りのための関所越えは、条件が緩和されているとはいえ、通行手形の発行には日数がかかるし、箱根を越えてしまえばお初の足取りは今以上に掴みにくくなる。
 なんとしても、お初の関所越えは阻止しなければならないところであったのだが、彼女の同行者が幼い子供であったことが幸いした。大人はともかく子供にとっての長旅は辛く苦しいものであり、また道中の景色は痛む足を止めさせるほど魅力的なものであったのだろう。意図せぬ足止めが、賭場ではツキに見放されてばかりの丁助に幸運をもたらした。
 お初らとの距離をさらに縮めようとした丁助が、あっと低い声を上げた。
 珍しく人通りが疎らな街道の両脇から野獣の如き勢いで飛び出した四人の旅人が、通せんぼしてお初の行く手を阻む。
「あいつらだ。あの顔は伊勢屋の裏口で見た顔だ」
 猪松の口ぶりでは、どうやら伊勢屋の周辺をうろついていた若侍たちの変装らしい。
 まさに江戸いろは歌留多の一つ、嘘から出た実というやつである。
「猪松、お初と子供を逃がせ。あいつらの相手は俺がする」
 一度に四人の侍を相手に、しかも正面から挑んだのでは勝ち目はない。さりとて見通しの悪い場所まで誘き出して各個撃破しようにも、丁助を追わずにお初と猪松に襲い掛かる奴がいたのでは、それこそ本末転倒である。
 丁助は、懐に忍ばせていた鉄扇を握った。形こそ畳んだ扇そっくりだが、全体が鉄で出来ており、開閉できないがその分重く頑丈な護身用の武器である。
 ぱっと投げつけた漆黒の鉄扇が、くるくると縦に回転しながら宙を奔り、お初の腕を掴もうとしていた男の手首に命中した。
「うあっ!」
 突如として手首を襲った痛みに堪らず顔を歪めた男は、仲間の三人と共に、怒りと侮蔑の入り混じった視線を丁助へと向ける。
「何をする!」
 猪松が街道の脇に飛び込み、子供の手を引きながら修羅場から逃げ出そうとするお初の後を追ったことを視認してから、丁助は手首を押さえて蹲る男に指を突き付けた。
「何をするって、そいつはこっちの科白だぜ。大の男が四人掛かりで、しかも白昼堂々若い娘に不埒な乱暴狼藉ときたもんだ。そんなもんを見せられたら邪魔立てするのが人の道ってもんじゃございやせんかね」
「何を、町人風情が」
「ほら出た、本音が。俺が町人風情なら、町人の真似事をしているつもりの手前らは、一体何者なんだろうな」
 せせら笑いながら、丁助は四人組の一人一人に指を突き付ける。
裁着たっつけも履かずに股引姿で旅する町人がいるかい。そっちだってそうだ。旅装束の手甲は町人なら白が基本だよ。黒の手甲はお侍のもんだ。そっちもおかしい。煎餅みたいな平べったい一文字なんぞ被りやがって。町人の笠は真ん中が上に尖っているか、すり鉢をひっくり返したような形をしているもんなんだよ。そっちのあんたは陣羽織か。引き回しで十分だろ。何だ、その顔は。ははあ、お裁きの市中引き回しと勘違いしてやがるな。どいつもこいつも手抜きの変装しやがって。どう贔屓目に見たところで、田舎から江戸に入ったばかりのへなちょこ侍。芋臭さは隠せないんだよ」
 自分たちの間抜けさを指摘され頭に血が上ったのか、それとも自分たちの正体を見抜いた丁助を生かしてはおけぬと判断したのか、四人は一斉に長脇差を抜いた。野次馬よろしく往来で事の成り行きを見届けていた旅人たちが、巻き添えは御免だとばかりに、忽ち蜘蛛の子を散らすように方々へと逃げ惑う。
「おっと、お侍様が街道で刃傷沙汰ですかい。ご家老に知られようものなら、お腹をお召しになられるんじゃございやせんかね?」
「貴様を始末し、お初を奪って消えてしまえば、後には何も残らぬ」
 首謀者らしき陣羽織の男が低く唸ると、残りの三人が白刃を煌めかせながら丁助の前に躍り出る。
「そうはいくかい」
 丁助は、長脇差で踏み込まれてもその切っ先が己の身体に届かぬであろう距離を保ちながら、背負っていた桐箱の中に手を突っ込む。
「一人につき二本で、丁度良い」
 本来ならば中々売れぬ商品を詰め込んだ桐の箱から 丁助が取り出したるは、何の変哲もない白扇子。
 親指と人差し指で一本。
 人差し指と中指で一本。
 中指と薬指で一本。
 薬指と小指で一本。
 計四本を両手で八本。
 八相さながらの構えから、畳んだままの扇子すべてを指の動きだけで同時に押し開く。
「さてや、御覧あれ」
 大きく両腕を振るった丁助の指から放たれた八本の扇子は、ひらひらと宙を舞いながら、四人の周辺に弱々しく落下した。
「なんだ、これは」
 一笑した男の顔が、次の瞬間には恐怖で凍りつく。
 白地の扇面。
 中央にぽっかりと描かれた黒瑪瑙の如き黒円の中心から噴出した黒煙と共に、白く光沢のある物体がにゅっと突き出る。
 骨。
 黒円から次々と湧き出る無数の白骨が、一つに組み合わさり人の形を成し、自分らに恨みと救いを求めるガシャ髑髏として前後左右から次々と押し迫る光景に、ある者は恐怖の悲鳴を上げながら逃げ惑い、ある者は逆上を面に表して長脇差で斬りかかる。
 黒煙で蔽い尽くされた闇の中で振り下ろされた刃は虚しく宙を薙ぎ、それを嘲笑うかのように骸骨が己の骨を何度も打ち鳴らす。
 四人の周辺は、忽ち阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

「あの人たちは、一体何をやっているんですか?」
「さあて、自分らのご先祖にでも会っているんじゃないかね」
 ある者は滅多やたらに長脇差を振り回し、またある者は路上に這いつくばって南無阿弥陀仏を繰り返す。
 騒動により一時的に人影が途絶えた東海道で、四人の奇妙な旅人は、それぞれが他人には見えぬ幻を相手に醜態を晒している。
 庇う猪松の背中越しにその光景を目撃していたお初の、当然といえば当然の質問を、猪松は他人事のようにはぐらかした。
 慌てふためく男共の周囲に転がる八本の扇子が、彼らを幻惑へと誘う道標となっていることを知る者は、この場では猪松だけである。
 丁助の扇子に囚われた者は、その扇面に描かれた図形や紋様により異なる幻覚に引き込まれる。それは藍一面から押し寄せる漣であったり、薄桜の中から吹き上がり風に舞い散る桜花であったり、或いは無明の闇にも似た漆黒の中から、ぽぅと浮かび上がる亡者の魂であったりするのだが、何れも現と幻の見分けを付けることはまず不可能であり、その絡繰りを知る人間でなければ、彼らのように無様な姿を晒すことになる。
 恐らくは妖怪か幽霊に斬りつけているのであろう、闇雲に長脇差を振り回す暴漢のこめかみを、丁助は拾い上げた鉄扇の平面でぴしゃりと叩く。
 同様に、這いつくばって念仏を唱えていた者、腰を抜かし震えていた者、逃げているつもりなのか同じところをぐるぐると駆け回っていた者をぴしゃり、ぴしゃりと立て続けに打ち据えた丁助は、地面に落ちた扇子を一つ一つ拾い上げては畳んで桐箱に仕舞い込んだ。
「ざまあみろ。箱根の狐は性質が悪いぞと、酒の肴にでもするんだな」
「殺しちまったのかい?」
 丁助の口上を耳にした猪松は、少女の顔を両手で覆っていたお初の不安げな呟きに、ぷっと吹き出した。
 どうやら今の口上が聞こえなかったのか、その意味を理解できなかったらしい。
「死んじゃいないよ。あんな半端者の博打狂いでも、手加減ぐらいは心得ているからな」
「誰が半端者だ」
 路上に倒れた四人組をその場に放置し、扇子の回収を終えたピンゾロの丁助は、鉄扇を懐に仕舞い込みながら猪松たちの方へと歩いてくる。
「博打狂いは否定しないのか」
「やかましい」
 ポンと片手で桐箱を叩いた丁助の視線は、猪松の丸顔から彼に縋《すが》りつく少女へと移る。
「さっそく手懐けやがったな。見たところ、まだ十にもならねぇガキじゃねぇか。こんなガキまで巻き込むのを厭わないとは、まったく武士どころか人の風上にも置けねぇ。伊勢屋から一体幾ら借りているんだか」
 ひと通り悪態をついてから、丁助は顔を上げた。
「あんたがお初さんかい? 伊勢屋と御内儀に頼まれて、連れ戻しに来た者だ。詳しい理由は御内儀から聞いている。あんたとしては戻りたくないかも知れないが、ああいう物騒な手合いが屯しているのが世の中というもんだ。これ以上の厄介事を抱え込まないうちに……」
 丁助の説得は、自らが発した呻き声により中断された。
「猪松! 手前、知ってたな!」

 ピンゾロの丁助が住む裏長屋は、珍しく騒がしい夜を迎えていた。
 安酒入りの徳利を抱えた丁助の元に集ったのは、目鬘売りの猪松、伸子しんし売りの三吉、暦売りの平太に易者の左源堂魔巻《さげんどうまかん》、砥ぎ師に糸売り、漫才師に足按摩、箒売りに|艾もぐさ売り。
 ついでに二八蕎麦やら田楽売りやら天麩羅売りまでもが、今宵の売れ残りを押し付けに推参した。
 全員がピンゾロの丁助と似たような境遇の忍びたちであり、推参の目的は丁助が得た金の匂いを嗅ぎつけての集りである。
「どいつもこいつも、金が入った途端に群がりやがって。金蠅か、手前らは」
 各自が持ち込んだ猪口に次々と酒を注ぎながらぼやく丁助。
 勘定を受け持った本人が酌をするというのもおかしな話だが、酒が入った徳利を適当に回し飲みされた挙句に空にされるよりは遥かにましである。
「そいつはお互い様だろう」
 畳どころか土間にまで腰を下ろした数多の酔客の中から声が上がり、暦売りの平太がそれに続く。
「お前が金を稼いだところで、どうせ博打で吸い上げられて霞と消えちまうんだ。形が残っているうちに俺たちに飲み食いさせるのが功徳であり、正しい使い方なんだよ」
 然り、然りと同意する声の中には、丁助に金を貸したことがある奇特な輩もいるので、強くは出られない。
「それで丁助、そいつらはどうしたのだ?」
 左源堂魔巻が、美髯から滴る酒を惜しみながら丁助に質問した。普段から酒徳利と同衾するような生活を送っているこの男は、こちらから誘わなくとも酒の匂いを嗅ぎつけては盃を抱えて参上する。
「そいつら?」
「お前が倒した四人組の侍だ」
「知らん」
「知らんって、お前」
「いや、お初らを伊勢屋に送り届けてから、目を覚ました連中が江戸に戻ったところまでは見届けて、何処の大名の人間だったのかまでは調べ上げたよ。しかし、連中の去就に興味は沸かなかったからなあ」
「大丈夫なのか? お前の術を知られたことになるのだが」
 扇子を使った幻術には、効果がいつ切れるか術者自身にも分からないという欠点がある。
「あれが幻術だと看破できる奴が、江戸の侍共の中にどれだけいると思う? 例外があるとすれば、俺たちの素性と術について里長達から報告を受けている町奉行と、ここにいる連中ぐらいのもんだ」
 鉄扇で撲り倒した四人が、自分たちの敗北を同輩に語るとは思えないし、語ったところで狐にでも化かされたのだと、物笑いの種にされるだけで終わるだろう。
「そういや、伊勢屋のお初が家出した理由は何だったんだ?」
「ああ、それは」
 鼻面を器に押し付けながら饂飩を啜っていた猪松が、三吉の疑問に答えようとして顔を上げた。
「豚松!」
 途端に丁助の叱責が飛ぶ。
「忘れんじゃねぇぞ、豚松。伊勢屋の詫び料には俺たちへの口止め料も含まれているんだ。うっかり喋って広まってみろ、俺たちどころか葛屋の御隠居まで面目を失うことになるんだからな」
 葛屋惣兵衛の名前が出たことで、酔いに任せて騒がしかった座が急に静まった。
 この裏長屋の住人ならば、惣兵衛には大なり小なり世話になっているからである。
 丁助は、ふっと息を吐いた。
 元々、相当な年下好みであった伊勢屋万右衛門は、家の為に見合いした内儀の了解を得たうえで、小女として当時奉公しに上がったばかりのお初を引き取り妾にした。
 お初を初めて見た丁助が驚いたのは、妾という立場にそぐわぬ童顔と、その身体つきが幼さを残したままであったからだ。
 妾になってしばらくの間は嫌がっていたお初であったが、女一人が暮らしていくには何一つ不自由のない生活に馴染むにつれ、もし自分が伊勢屋に捨てられたならばこの生活が出来なくなることを理解し、少しでも伊勢屋の足が遠のこうものならば、内に抱えていた不安が肥大化し、それが激情と化して伊勢屋や内儀、おみつにぶつけられるようになった。
 何度も喧嘩と仲直りを繰り返すうちに、苛立つばかりのお初を持て余すようになった伊勢屋は、同居するようになったお初の世話係として引き取られた少女に目を付け、二人目の妾にしようと秘かに画策を始めた。
 しかしその企みを見抜いたお初は内儀に打ち明け、相談の末に伊勢参りと偽って少女を親元に返すことにしたのである。
 伊勢屋が慌てながらも今迄とは明らかに異なる態度を取り続けていたのは、目を付けていた少女をものに出来なくなりかけているという不安と、己の性癖を世間に知られたくなかったが故である。
 結局、伊勢屋の元に帰ったお初と内儀は、伊勢屋が少女を新たな妾とすること自体は認めたものの、少女が大人の女として成熟するまでは絶対に手を出さないようにときつく叱りつけ、しかもそれまでは彼女らの下で監視するという覚書を取り交わした。
 丁助らに支払われた詫び料は、内儀の臍繰へそくりから捻出されたものである。
「まあ、その件については口を割るわけにはいかねぇが」
 空の猪口を次々と回収しては自分の前に並べ立てたピンゾロの丁助は、締めとばかりに傍らの徳利をどんと置き据えた。
「気分直しといこうじゃねぇか。さて、この徳利には何杯分の酒が残っているか、これから順に酌して確かめてみようじゃねぇか。俺は十と三杯に八文賭ける。さあ張った、張った!」

                                   (了)

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