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小説「英彦(えひこ)の峰の気を負いて」抜粋⑩

羅漢寺にて

30分もかからず羅漢寺の駐車場に到着した朝吹は早速、急な石の階段を上り始めた。
羅漢寺は、幼い頃から祖父や両親によく連れて来られた場所だ。仁王門を抜け、山門を通り、朝吹は本堂へと急いだ。

「住職さん、お久しぶりです、お変わりなくお元気そうで」 

寺の洞窟の中にある「無漏洞(むろどう)」には千体以上の石仏が鎮座していた。朝吹は、洞内の高い檀に座る住職に下から声をかけた。
尼僧の大山住職は二十八代目で、10年近く前に代を継いだばかりだった。
朝吹より10歳以上若い住職とは子供の頃からの顔なじみだった。最近は年に一回は羅漢寺を訪れ、話をする間柄だった。

羅漢寺は耶馬渓の険しい岩壁にそそり立つ寺院だ。千三百年以上も前にインドの僧侶がこの地で修行したと伝えられ、十四世紀に禅僧が寺を創建した。その後、十代目の住職が五百羅漢や釈迦如来、文殊・普賢菩薩等の石仏を一年で一気に彫り上げ洞窟内に納めた。中世の時代、寺は足利幕府の庇護を受けて栄え、江戸時代は中津藩主が崇敬の対象とした由緒ある禅宗の寺だった。

「住職さん、私も鹿児島に、もう20年ほど暮らしています。まだ、誰にも相談してませんが、そろそろ、中津に戻ろうかと思うています。今日はそのことを相談したくて参りました」その話を聞きながら、住職はすぐに檀から降りて、朝吹を隣の本堂へと案内した。

住職は、正面に座って、朝吹にお茶を差し出しながら声をかけた。

「それはまた、大変なお話で、選挙区では色々とご苦労がおありでしょう」

「いえいえ、支援してくださる皆さんのお陰で、私のバッジがあるわけですから、いつも有難く思っています」

「これまで立派なお仕事をなされてきたじゃないですか」

「はい、多少は国の予算を持ってきて、地元の農業を守ったり、災害対策を優先してもらったりしましたが、国会議員としてやれることの限界も感じてます。私は政治家として日本の安全保障や外交に取り組みたかったのですが、そちらの分野の専門家は永田町に山ほどいます。結局、この20年やれたのは、地元にいかにお金を中央から持ってくるかというだけで、自分の力のなさを実感してるんですよ」

「そうですか、地元に多大な貢献をされたと思いますけど、もし、朝吹さんが中津に帰ると聞いたら、皆さんびっくりされるんじゃないですか」

「そうですね、そこが心配です、でも、そろそろ自分の我儘を出していい頃かと思うようになりました。選挙区を息子に譲る気はありませんし、元気なうちが潮時かと思いまして」

「そうですか、私は政治のことはわかりませんが、ご自分に正直になることも大切です。私に相談するより、ご自身が一番お分かりかと思いますが」

「ありがとうございます。そうですね、自分に正直に、有難い言葉です」

「それで中津に戻ってから何かされるお考えはあるんですか?」

「いや、それがもう一つお話したかったことです。この耶馬渓の地は100年前に日本新三景に選ばれた景勝地じゃないですか。青の洞門の競秀峰は福澤先生が景観を守るために一度は土地を購入され保護されたところですよね。戦後、どこの地方も同じですが、景観が台無しになり、私は政治家が日本の美しい景観を守らなかったことに責任を感じてるんですよ。市内の城下町も同じで、これから古い町並みの景観を取り戻せないか、考えてるところです」

「それは素晴らしいですね。この周辺も勝手な開発が横行して、景観を台無しにして困っています。羅漢寺も皆さんのおかげで、山林の手入れや建物の改修をしてますが、建物や景観を維持するのは大変です。私はこの寺では、参拝者に携帯電話を使わず、写真も撮らず、一度、日常生活で抱えたものを外して、心を空にしてもらいたいと思っていますが、景観と同じく、そうしたことを理解していただくのも難しいですね」

住職も朝吹の話を聞いて、寺の課題を持ち出していた。

「そうですね、ただ景観と言っても、公共のことですから、誰もピント来ないんですね、役所の仕事だと思ってるんですよ。まずは、地域の住民が美しい景観を育てていくという意識を持ってもらわないと話は進みませんね」

「その通りだと思います。最近は都会から来た移住者の方がそうした考えを持っているので、私は彼らにも期待をしています」住職はお茶を差し替えながら微笑んだ。

「最後にもう一つ、伺いたいことがあるんですが、仏教では普く人を救済する、という考えがあると思います。こちらの地蔵さんが納められた普済堂もそうした教えで名づけられたと思います。私も地元民、日本国民のためと思って一生懸命仕事をしてきたつもりですが、どうも、自分たちの得になることばかりを要求されて辟易することがあります。まだ、自分の修行が足りないんでしょうが、これ以上、他人の利益のために仕事をすることに疲れてきました。少しは自分のために、これからの人生を使いたいと思ってるんですがどうでしょうか」

「そのお気持ちはわかります。この寺にも皆さんご利益を求めてきています。お堂に備えた木のしゃもじに願いを書いて、ご利益に預かりたい、その心は素直な気持ちだと思います。檀に座って、参拝者の方を後ろから眺めてみますと、どんな人生を送られたのかを想像することがあります。なかなか他人のために尽力されてきた方は稀ではないでしょうか。こちらにある五百羅漢さんは全員、実在された方々をモデルにしてるんですよ。私はお参りに来られる方に自分に似た姿の羅漢さんを発見してくださいと言っています。見つかれば、自分の心にハッと気づく何かがあるかもしれません。私はそんな思いで、お勤めをさせていただいています」

「そうですか、有難いお話をありがとうございます。それでは、帰りにもう一度、羅漢さんを拝んでいきますね、今日はお時間ありがとうございました」朝吹は住職に手土産を渡し、その場を後にした。

帰り道、急な石段を降りながら、朝吹は、頭を掻き、ちょっと惚けて、ひょうきんな表情をした一つの石仏を思い出していた。自分も素のままでいいのではないか、本来の自分に戻っていいのではないか、そう考えると次第に心が軽くなっていた。

中津市内に戻る途中、朝吹は青の洞門に立ち寄った。川べりの土手から競秀峰を見上げて、改めて、奇岩の見事さを嬉しく思った。昔の人は山国川に舟を浮かべてこの風景を仰ぎ見ていたかもしれない。朝吹は山水画に現れるような景色を守ってくれた人々に感謝の気持ちが湧いた。そして、この地にもう一度、100年前の賑わいを取り戻せないかと心が動いた。

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