見出し画像

小説「英彦(えひこ)の峰の気を負いて」抜粋⑨

母校へ

高校時代、福澤は剣道部の主将を務めていた。母校の校長に剣道部の後輩がなったと聞き、福澤は昼食後、母校に向かった。

あいにく学校は休校で、生徒の姿は見かけなかったが、修学旅行の引率から帰ったばかりの校長と話ができた。

「お久しぶりです。休校とは知らず申し訳ない。修学旅行はどうでしたか、お疲れさまでした」福澤は校長室の応接の椅子に深く腰掛け話を繰り出した。

「前半は北海道、後半は東京ですわ。お陰様で生徒は誰もコロナにかからずほっとしました。一人でも感染者が出れば帰らないといけなかったんで、心配しましたが」

「そうですか、それはご苦労でした、生徒さんたちは喜んでましたか?」

「はい、北海道でスキーもできたし、東京で自由に行動させたのが良かったようです。アンケートを見るといい思い出になったと書いてました」

「そう、それは良かったですね。私たちの時は、東京と確か日光や富士山に行ったと思うけど、なんせ消灯やら外出の制限が厳しいんで、夜中に先生を起こして抗議をしたことがあった、そう言えば」

「はい、先輩たちの世代は何かと活発だったようですね。色々と話を聞いちょります」校長が湯呑を置きながら話を継いだ。

福澤はその後の話で、母校の高校生が東京や関西の大学を志望せず、多くが九州内の国立大学を目指しており、就職先も公務員希望の生徒が多いことを知った。

「そうですか、高校生は保守的なんですかね、親の影響でしょうか。世の中、大学の時から起業をして、世界に出たい人が増えてると思ってましたが」福澤は校長の話を聞きながら神妙になった。

「大学に入っても海外に旅行や留学で行ってみたいという学生は減っちょります。若い人は内向きになってますわ」校長は話を続けた。

「どうなんだろう、将来、若い人が地元に戻ってきて欲しいなら、むしろその傾向は好ましいのでは?」

「いいえ、私の意見はちょっと違います。卒業生がずっと地域に留まるより、外に出て色々とキャリアを積んで、それから故郷に戻って欲しいですね。そのほうが視野も広がって、地元にも色々と貢献できるじゃないですか」

「なるほど、それはいい考えだね」

「そういえば先輩、東京で活躍する卒業生をお呼びして、生徒向けに講演会を開いてるんですが、先輩も一度、お願いできませんか」

校長は自分で生徒の進路やキャリアの相談に応じているが、実際にナマの社会人の声を聞かせることが一番参考になるという考えだった。金融業界で活躍する福澤であれば、面白い話を聞かせてくれると思っていた。

「分かった。これから少し時間ができるかもしれん。その件は気に留めておくよ。また、連絡して」福澤は興味を覚えたらしく、校長に前向きな返事をした。

その後、福澤は武道館や体育館へ案内された。休校中だったが、体育館では運動部の女子生徒たちが練習をしていて、二人が体育館に入ると大きな声で挨拶が飛んできた。

「元気な子たちですね」福澤が言うと「そうなんです、最近は女の子の方が勢いがあるんですよ、明るいし、彼女らに期待してるんですよ」校長は目を細めた。

福澤は生徒たちが内向きだという話が気になりながらも、高校生に可能性があると感じていた。自分の高校時代に機会はなかったが、まだ頭が柔軟な時に、最新の情報や知識に触れて欲しいと考えていた。

校舎の中庭には、昔からあるソテツの木が植えてあった。建物は立て替えられたが、植え込みは昔のままだった。

「お疲れの中、お時間いただいてお世話になりました。いい勉強になりました」福澤は校長に礼を言って辞去した。

校門を出てから、福澤は左に折れ、近くにある山国川の土手に向かった。
土手は昔、剣道の袴を穿いて部員とランニングをした場所だった。

福澤は東大に入ってからも体育会で剣道を続けた。部員数は少なかったが、仲間と親密な関係を築いて主将も務めた。部のOBの中には、新聞やテレビで顔を見るような先輩もいた。
その中の一人の先輩の推薦もあって彼は都市銀行に就職した。
しかし、就職した銀行はやがて数行と統合されることになり、予想しなかったキャリアの変更を経験した。銀行では主に市場部門や企画、人事部門を経験したが、40代でいきなり関連証券会社に出向することになった。それから彼のサバイバルは始まった。
新しい環境で福澤は持ち前の粘りを発揮し、債券運用部門のトップになり成績を上げた。そのことが業界でも評判になり、やがて、外資系の証券会社にヘッドハンティングされ転職した。新しい職場で、彼は外国の投資信託を国内の機関投資家や地銀向けに売りまくった。いずれ東京支店のトップも間違いないと噂されるほどの業績を上げていたが、部下の不祥事が発覚し、その責任を取らされ降格した。そして、本国から彼よりずっと年の若い部門のヘッドが来ることになった。
そうした中、日本の保険会社が合同で出資した新しい投資運用会社から声をかけられ彼は社長の座に就いた。外資の雰囲気に必ずしも馴染めなかった福澤は、古巣に戻ったような気持ちで新しいポジションに勝負をかけた。そして、会社を上場させ、自身の持ち株でも大きなキャピタルゲインを得ることができた。傍目には社会的にも、経済的にも成功したように見えた福澤だったが、本人自身は必ずしも満足していなかった。

同級生と作った40年前の文集『時代』で、福澤は「これからのリーダーの役割は何か?」という題で寄稿した。日本には調整型タイプのリーダーは数多くいるが、自分の意見を持って周囲を率いていく指導者は少ない。ビジョンを語り、周囲を巻き込むリーダーがこれからは必要だ、と彼は書いた。また、自分は「ノブレス・オブリージュ」というイギリスのエリートの精神を日本も見習うべきだ。リーダーが率先して犠牲的精神を発揮すべきだとして、学生時代にイギリスに短期留学した経験を文章に加えた。官僚や政治家になる道も考えていたが、彼はあえて民間部門に入り、自分の力を試したいと思っていた。

福澤はやがてリーダーとなる志を持って銀行に就職したが、彼が入った銀行業界は政界以上に政治が跋扈していた。入行後、派閥を組み、足の引っ張り合いをする風土に彼はすぐに嫌気がさした。駆け引きを好まぬ福澤は次第に、昇進競争の枠外の者とみなされ、酒の誘いもなくなった。そうした時、時間が空き、数多くの本を読む時間が取れたことが彼の救いとなった。
金融業界では再編が続き、新しい知見が必要とされていた。早くから欧米の金融動向を調べていた福澤は、多くの外資系金融機関が東京市場に進出してくる時代の波に乗ることができた。しかし、数字の結果がすべてという金融の世界で次第に福澤は自分の仕事に疑問を持ち始めた。2008年のリーマンショックの後、世界経済に大きな惨禍をもたらした欧米の金融機関を批判する記事を彼は雑誌に書き、メディアで注目された。銀行や証券会社、ヘッジファンドがマネーゲームに狂奔する姿を彼は正視できなかった。更に、日系の運用会社の社長になった後、投資運用業界の会合に参加するようになった福澤は、会議で投資家保護の観点を持ち出し、業界内では正論と見なされ、次第に煙たがられる存在になっていた。

福澤は次の株主総会で、社長を退任し、すべての役職を返上することを心に決めていた。退任後、彼が考えているテーマの一つが若い世代向けの教育だった。彼は長年勤めた金融業界で高額の報酬を得ており、教育にかける原資はあった。故郷の中津で新しい教育が始められないかと、秘かに考えていた。

福澤は子供の頃から周りに推されて、クラスの代表や生徒委員になることが多かった。高校生の頃、すでに身長は180センチを超えて、押し出しもあった。周囲の期待に応えることは嫌いではなかった。しかし、東京の大学に進学してからは、彼にリーダーを求めるような雰囲気は皆無となった。周囲は秀才ぞろいで、自分が日本で一番だと思う連中からは気にもされなかった。そして、社会に出てからは、一部に尊敬できる先輩はいたが、多くが自己保身に秀でて、我の強い者が社内で生き残ることに違和感を覚えていた。とりわけ、能力があって人柄も良い上司がどんどん失脚していく様子をみて、割り切れぬ思いを抱いた。長く企業社会にいながら、人格も秀でて、結果も出せる経営者に出会うことは稀で、自分の居る世界に居心地の悪さを感じていた。

その中で、高校の同窓生は、福澤が心から気を許せる仲間だった。友達は年を取り、風貌は変わっても、中身は素朴な田舎者に変わりはなかった。福澤は自分にはまだ良心や、正義感が残されていると感じていた。自分がこれから社会に貢献できることは何なのか、それを見つけるヒントにしたいと故郷の集まりに期待をして福澤は臨んでいた。

山国川の土手を歩きながら、福澤は遠くにある名峰、英彦山の稜線を眺めた。何世代もの先輩や後輩たちもここからの山並みや川の流れを眺めていたに違いない。

「英彦の峰の気を負いて 青春の空呼ぶところ 
ここ沖代の学び舎に 希望の光満ちわたる」

高校の校歌を福澤は思わず口ずさんでいた。将来の人材の教育に自分の最後の人生を費やせないか、福澤は繰り返し思考を重ねていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?