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小説「英彦(えひこ)の峰の気を負いて」抜粋⑤

薦神社へ

二日目の朝は空気が澄み、天気も晴れ渡っていた。道路の雪はほとんどが溶けていた。

中津市は江戸時代、港のある商業都市として栄えた町だった。城下町の街中を海風がやさしく撫でていた。

2月の冷気が足元に忍び寄る中、小幡は少し厚めのウェアを着込み、早朝の日課であるジョギングに出かけた。朝はまだ早く、通りに人影はなかった。小幡はゆっくりとしたペースで城下町を縫って走った。高い建物がないので視界が開け、道路はフラットで走りやすかった。小幡はイタリアの地方にある旧市街を、昔走ったことを思い出していた。「ヨーロッパの人だったら、このこじんまりとした城下町をどう思うだろうか」ふと、そんなことも思い浮かべていた。 

コロナの最中、小幡が中津に来ていたのは、故郷への恩返しに自分たちの世代に何ができるかを探るためだった。小幡はこれまで自分が感じてきたことを、友人たちとシェアすることを楽しみにしていた。

ホテルに戻り朝食を済ませた後、小幡は福澤と、車で10分程度の大貞公園という地名にある薦(こも)神社に向かった。二人は前夜に打ち合わせて、共に通った小学校に近い神社に行くことにしていた。同窓生七人の中で、福澤と小幡だけは、小中高、ずっと同じ学校を出た。二人が一緒に神社を訪れるのは中学生の時以来のことだった。

神社の大鳥居の前でタクシーを降り、二人はまず内宮となる三角池に向かった。池の正面に昔あった売店はすでになくなっていたが、傍にあった楠の巨木は変わらずその面影を残していた。二人ともしばらく無言で池の柵に近づき、辺りの様子を伺った。遠景に八面山が目に入った。 

「俺たち、学校の帰りによくここに遊びに来たね、売店で麩(ふ)を買って鯉に餌をやったりしてた。あのときはここも賑やかだったよな、丸々太った鯉が芋洗いみたいに体を寄せ合って餌に飛びついてた。麩を鯉に投げるのが楽しかったな」福澤は隣にいる小幡にも聞こえるように独り言を言った。

「そういえば、ここの売店でスルメを買って食べた気がする。駄菓子屋さんだったから、お菓子がたくさんあったよな」小幡も記憶を取り戻そうとしていた。

「少し、池の周辺を散歩してみようか」二人は、池の正面から右手に向かって歩き始めた。

三角池は一周1キロほどの大きさで、人の手のひらを広げて、三本の指を立てたような形をしていた。池の周囲に木々が生い茂る中、二人は落ち葉を踏みしめながら歩いた。しばらく進むと、池の水面にまで太い枝を伸ばした楠の古木が目に留まった。

「おお、小幡、覚えてるか、確かこの木じゃないかな、俺たちよく3、4人で来て、この木に登って遊んだじゃない。枝のどこまで先に行けるか肝試しをしてた、確かその時の木だよ、これきっと。結構、枝の先は細くなって危なかったけど、折れなかった。そう、この太い幹のつるつるしたところ、ここから跨って、少しずつ、馬乗りの格好で前進したんだよ」福澤が少し声を上げて小幡に話しかけた。楠の枝は、岸から池の中に向かって3、4メーター先まで伸びていた。

「そうだな、確かに、この木かも、俺もよく覚えてるよ。油断すると結構危ない遊びだったよな、枝の先から戻る時も、姿勢を回転するのが危なくて、そのまま尻から戻った気がする。枝が伸びた先、池の水面までスレスレのところまで這って行ったよな」

「池に落ちた奴はいなかったと思うよ。俺たちは結構危ない遊びをしてたけど、あの頃、子供なりに、ここから先は危ないとか、リスクの加減を体で覚えたのかもしれんな。でも、俺たちの子どもたちはみんな都会で育ったじゃない、子供の頃に、自然の中で遊ぶ経験がなかったから、どうやって、この辺りのリスク感覚が身に着くのか、前から難しいんじゃないかとて思ってたんだよ」福澤が持論を小幡にぶつけた。

「昔は親や先生が見てないところで、自分たちは自然の中で遊び方を覚えたよな。どこまでが危険だとか、これ以上はやってはいけないとか、子供なりに友達と一緒にいながら学んだんだろうね。俺もその辺りの感覚が、今の子どもたちはどうなってるのか気になるよ」小幡も同調した。

池の真ん中には、蓮や真薦が群生している小島があり、手前の岸から見ると、背後の八面山と重なって絵のような風景になった。八面山は標高6百メーターほどの高さがあり、なだらかな稜線を持つ山だ。

「どう、この牛の背中のような形の八面山のシルエット、俺、子供の頃、あまり格好いいと思わなかったし、好きじゃなかったかな。けど、何かこうして久しぶりに眺めてみると、変わらぬ姿に気持ちが和むね。俺たちの原点の山の風景はここにある、という感じがしないでもないな」小幡は少し物思いに耽りながら福澤の反応を待った。

「そうだね、お前、セザンヌの絵は好きか、セザンヌの故郷の山、確かサント・ヴィクトワール山、彼はその山を繰り返し描いてるんだよね。考えてみると、その山がセザンヌの原風景だったのかもしれんな。子供の頃、最初に目に焼き付いた風景がずっと、その後の美意識に影響を与えていて、その対象を繰り返し描いていたのかな。俺は印象派の中でも、やはりセザンヌが一番好きだけど、もしかすると、どこかで、セザンヌの原風景と自分の原風景を重ね合わせていたのかもしれん。ここの景色を子供の頃に見て、無意識に沈殿させ、原風景になっていた、セザンヌの絵の緑を見ると心が落ち着くのは、それが原因かもしれん、いや、ここで、こんなことを感じるとは思いもしなかった」福澤も神妙になって小幡に応えた。

二人はそれから、池の正面へ戻り、さらに左手にある社殿へ向かった。途中、池の中に立つ鳥居が目に入った。池の畔にも小さな鳥居があり、そこから、神域である内宮に通じると木製の説明書きに書かれていた。

そして、二人は子供の頃によく遊んだ太鼓橋まで来たが、その木製の橋は傷んですでに渡れなくなっていた。

「この真ん中が太鼓のように丸く盛り上がった橋を登ったり下りたりと、昔はよく遊んだよな。もっと橋は大きかった印象があったけど、今、見ると小さいね。木の手すりや床板の感覚が残っていて、何度か昔、夢に出てきたこともあったな。こうして、実物と再会できて嬉しいよ」小幡が記憶を辿るようにしてつぶやいた。

福澤は歩を先に進め、国の重要文化財となる神門の前に立って、薦神社の由縁が書かれた説明書きを声に出して読んでいた。

「小幡、お前、薦神社が宇佐八幡宮の祖宮だって知ってた?意外と由緒正しい神社だったんだね。三角池は神社のご神体で、古代に渡来人が来て作った溜池だったらしいぞ」福澤が得意になって話すのを聞きながら、小幡は門に近づいた。

「小幡、どう思う、薦神社、カタカナでコモ神社にすると、イタリアのコモ湖を連想して、もっと、世間に知られるんじゃないか、悪くないだろう」

「ハハア、お前にしては良い思い付きだな、それいただきだ」小幡も調子を合わせた。

「まあ、ひいき目はあるにしても、この静寂と三角池の生態系、俺はこれ結構いいんじゃないかって思うけど、ここは守らなきゃいけない場所だよね」福澤が言った。

「確かに、コモ湖とはだいぶ違うけど、神々しさがあるし、今どきの生物多様性で言うと、豊かな自然資源があるよな。俺も多少、世界で色々な場所を見て来たけど、ここは手を加えると十分に勝負できるんじゃないかな」小幡も意見を出した。

「そうだね、なんか、俺たちは恵まれてたのかもしれんな、この神社でたくさん遊ばせてもらって。何か、自然を尊ぶとか、頭で考えるんじゃなくて、子供の頃から、体にインプットされてたのかもしれんな」福澤は腕組みをして、物思いに耽っていた。

二人は本殿で拝礼し、しばらく境内を散策した。二人とも小学校から同じ少年剣道クラブに所属していた。大晦日の寒い夜に、剣道着の中にシャツを着こんで、境内で稽古をした話を思い出し語り合っていた。そうした中、社務所から宮司さんが出て来て、声をかけてきた。

「おはようございます。ご参拝ありがとうございます。今日はどちらからお越しになりましたか?」 

宮司が柔和な顔で尋ねてきた。小幡はその顔を見ながら、子供の頃に会った年配の宮司の顔を思い浮かべていた。

「私は東京から来ました。僕たちは大貞の出身なんですよ。小学校の近くだし、子供の頃はよくこちらに来て遊んでました。少年剣道クラブのメンバーで、こちらで大晦日に稽古をしたことを今思い出して話をしてました。確か、こちらの宮司さんがクラブの会長をされてたかと」福澤が挨拶をした。

「はい、それは私の父ですね。今は私がその剣道クラブの会長をやってるんですよ」

「あら、そうでしたか、それは失礼しました。昔はお父様にお世話になりました。今回は中津に久しぶりに同窓会で戻っています」福澤が話を続けた。

「それはいいですね、色々と懐かしいでしょう、こちらは昔から変わりませんから」

「宮司さん、僕は昔、お父様から頂いた色紙を今でも大切に持ってますよ。確か、中学校の卒業記念で頂いたものですが、色紙には『不断の研究』という文字が書かれてまして、何か、自分への課題をいただいた気持ちになって、大人になってもその色紙を大切にしています」小幡がそう切り出すと、宮司の顔が綻んだ。

「ほう、そうでしたか、私の父が書いたものですね、それは。大事にしていただいて嬉しいです。父も随分前に亡くなりましたが、喜ぶと思いますよ。では、どうぞ、ごゆっくりしていってください」

「はい、ありがとうございます。また、改めて、ご挨拶をさせていただければと思っています」

二人は宮司に深く頭を下げ、その場を後にした。

「宮司さん、お父さんとよく似てたね、何代もこの神社を守っていくというのは大変だね。今度、俺、ゆっくり話を聞いてくるよ」

小幡は帰りの道を歩きながら福澤に話しかけた。途中、大きな石の灯篭の檀に、黄色い毛のふっくらした猫が座っていた。福澤はその猫に近寄り頭を撫でた。

「この猫ちゃんも、神社の人気者かもしれんな。そうだね、頼む、今度、宮司さんの話も聞かせてよ。何か、こちらの神社に俺たちがお返しできることがあるか、考えてみよう」福澤の声は弾んでいた。


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