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小説「英彦(えひこ)の峰の気を負いて」抜粋⑥

珈琲と木村記念美術館

岩田郁子の実家は江戸時代から続く藩医の家だった。家では子供たちが医者になることは当然のこととされていたが、二人の兄がすでに医学の道に進んだこともあり、郁子は、自分は好きな絵をやりたいと親を説得して美大に入った。

郁子が絵に関心を持つきっかけは、中津出身の洋画家、糸園和三郎の絵が自宅に何点かあったのが一因だった。
一九一一年生まれの糸園は、十代で上京して画家を志し、戦前はシュールレアリストの若手新人として注目を集めていた。東京で戦災に遭い、戦後は一〇年ほど中津に戻り、文化活動や制作を続けていた。その後、ベトナム戦争を題材にした作品も多く手掛け、詩情とヒューマニズに溢れた作品は国内外で高い評価を得ていた。

郁子の祖父が糸園の作品を評価していて、息子である郁子の父も十歳上の先輩となる糸園を慕っていた。郁子も家に飾られた、鳩や母子を題材にした糸園の油絵を自然と好むようになった。子供の頃、糸園が帰郷して家に立ち寄った際、糸園から自分が描いた絵を褒められたこともあった。郁子にとって、最初に出会った芸術家が糸園和三郎で、その風貌や雰囲気に魅かれた。一緒に本屋に行って、西洋美術や小説の本などを買ってもらったりもしていた。

美大に入ってから、郁子の関心は次第に西洋美術史の方へと移り、制作は止めてしまった。そのことを後で話ししたとき、糸園は残念がりもしたが、彼女は内心、到底、糸園の芸術性に自分が努力しても及ばないことを自覚していた。そして、何より、当時の現代アートの傾向に共感できず、創作の方向性を見失ったことも絵を止めた理由の一つだった。インスタレーションや、コンセプチュアルアートの実験も仲間と試みたが、長続きはしなかった。そうした中、たまに、東京の糸園のアトリエを訪れ、話をすることが何よりも郁子にとって一番の勉強になっていた。そして、次第に、美術史の研究や批評の方へと関心がシフトしたのだった。美大の卒業論文として「戦後の中津時代における糸園とその作品」を郁子は書きあげ、その内容が高く評価され、美術雑誌にも一部が掲載された。そして、後に、難関の国立現代美術館の学芸員になることができた。

この日、中津市歴史博物館近くにある木村記念美術館で、地元の版画家、武田由平の展示会があると聞いて、郁子は実家から歩いて向かっていた。

途中、tool coffeeの看板の出た、お洒落な珈琲店が目につき、郁子は興味が湧き店に入った。店内には若者たちが数人いて、郁子は意外な面持ちで様子を観察していた。

「素敵なお店ですね、いつオープンされたんですか?」

「ありがとうございます。店を始めたのは、去年の夏からです。ちょうどいい物件があったので、リノベーションしてオープンしました」

「あら、そう、ホワイトを基調にして、とても清潔感があっていいわよね。内装もミニマルで、ここの壁にかかってあるカリグラフイーも素敵ね。全部、ご自身のご趣味で?」

「はい、カリグラフィーは佐賀の知り合いの作家の作品です。店の内装は、博多で建築をやってる友人に頼みました」

「あら、そう、いい目利きよね、ご自身は以前、何をされてたのかしら、失礼でなければ」

「僕は、こちらの高校を卒業して、東京の大学を出た後、代官山や青山のショップでしばらく働いてました。三〇歳になる前に、いずれ独立して故郷に店を持ちたいと思ってたので、コロナを機に数年前、戻ってきました」

「そうなんだ、なるほどね」

「こちらの店はコーヒーを出してますけど、ジュエリーと服のセレクトショップも兼ねてまして、アート作品の展示も定期的にやってます。もし、良かったら2階にありますから、ご覧になってください」

「あら、そう、少し2階も覗いてみようかしら、じゃ、私はこちらのブラックを頂だい」郁子は珈琲を注文してから、2階のフロワーをひと回りしてきた。

郁子は一階の窓際の席に腰かけ、珈琲を飲みながら店主と会話を続けた。

店主は愛想がよく、客対応もしっかりしていた。続々と訪れて来る若者たちが、彼との何気ない会話を楽しみにして来ているのが分かった。客の中に、町には珍しい欧米系の外国人のカップルがいたので、郁子は英語で話かけてみた。聞けば、アメリカから来たらしく、日本の城下町や甲冑を見るのが好きで、中津城を見に来て、次に、杵築城に向かうところだという。普段は人影が少ない街中に、若者が集う場があることを郁子は少し驚いていた。

「では、また、寄らしていただきます。色々とお話を聞かせていただいて、ありがとうございました」郁子は礼を言って店を出た。

郁子の実家に、糸園和三郎以外で、作品としてあったのは、武田由平の版画だった。
そのこともあり、郁子はまとない展示会に期待をして小さな美術館を訪れた。

岩田は身長が170センチほどあり、ヒールを履くと更に背が高く見えた。身に着ける服は三宅一生の作品を若い頃から好んで着ていた。歩くと服の裾がたなびき、立ち姿が颯爽としていた。この日も郁子が美術館に入ると、受付が緊張して椅子から立ち上がった。

岩田は渡された解説を読みながら、館内を回った。由平が岐阜出身で、すでに大分に赴任していた先輩の縁で中津に教職を得たこと、そして、1960年には、棟方志功らと共に日本版画会を設立した一人であることを知った。

作品の主題は風景や草花が中心だったが、色彩がカラフルで、構成も大胆、版画の可能性が存分に展開されていた。郁子は由平の作品の豊かな世界を堪能した。
そして、由平がこの地に根を下ろし、多くの弟子を育てたことも分かった。洋画家で元日展理事長の中山忠彦も教え子だった。さらに、弟子の中には、中学時代に郁子が尊敬した美術教師の花崎先生もいた。花崎は中学校の教師の傍ら、版画家として、国東や臼杵の摩崖仏の作品を数多く残していた。中学生の頃の郁子に仏像はあまり親しく感じることはなかったが、年を経るに従い、数多くの仏像や仏画を見て回り、花崎の版画を思い出すことがあった。

美術館の2階のチェアに腰かけて、元は医者の私設美術館だったというモダンな建築物の美しさにも郁子は感心した。今では、市の運営で定期的に絵画展が開かれているとのことだった。

考えてみれば、糸園和三郎と武田由平、そして、花崎先生が、自分の進路を決めるきっかけになっていた。そのことに思いが及び、ふっと、郁子は笑みを浮かべた。地元にしっかりと根を下ろした先達の恩恵を感じ、幸せな気分になった。

珈琲屋の店主のような若い人が、地元の芸術の精神を継承して欲しい、ふと、そんなことにも郁子は思いを巡らしていた。


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