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自由に表現する事について

【東京23区】新宿区再び。約5年ぶり???(リンク画像あり)



このシリーズって、もう一旦役目が終わったんだよね。
デジタルカメラの写真は、モチーフにはなるけど、モノ的な価値は高くならない。

モノクロームのフイルム撮影された写真をバライタ紙にプリントした作品を昨年、数点購入した。それで理解した。

デジタル化が進むほど、アナログ作品の価値は反比例しながら高まっていくだろうなと。それも写真集ではなく、プリントそのものの価値がたかまるだろう。気になるなら、実際に購入して身近に置いておくなり、額装して部屋に飾れば明らかだ。

もとい、何故デジタルカメラで撮影し続けるか?
それは、僕の立ち位置がよりアクティビスト的に変わりつつある中で、プリント作品の価値より、その瞬間の切り出し(例、1/125秒など)の時間軸やその土地の属性に、より価値の比重がかかってくるからだ。世界が大きく変わりつつある中で、地に足の着いたスチル映像を、どのように構成するか?
それも、写真特有のリアリティのワナを潰しながら、作品や展示を構成するのが、ひとつの到達点だ。もう、写真がプロパガンダとの親和性が高いのは、明らかな事実だろう。

時代は変わった。デジタル写真は、アナログの写真とは別物だ。
その特性を活かして、我々が生存できないような世界に変わりつつある現状へ、如何にアプローチするか?

そういうアクティビスト的な振る舞いの、モチーフと、僕はこの写真群を位置付けている。

※できない、ムリ、と決めるのは個々の判断だ。自由に表現する、という考え方を徹底するなら、それはなかなかの不自由を伴う。クライアントワークで自由な表現などと言える間は、自由に対する考えや体験が脆弱だろう。それは、単に線路の上ではしゃいでいる子どもと変わらない。

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