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在りし日の残像

 音階がズレていくみたいに、会話が噛み合わなくなる。できたての不協和音が響く空間で、徒労に終わる会話もいつしか温かい思い出になるのかな、とぽつりと意識しながら、ホットコーヒーを啜った。

「だらだらと過ごすくらいなら、誰かいい人みつけて、デートのひとつやふたつしておいでよ。」

母は、恋愛に疎い私に対しての苛々を言葉へ変換し、ぶつけてくる。もう恋なんてしない、とつい口にしてしまった私が悪いのだけれど、その言葉が種火となり燃え、炎は一気に巨大な火柱へと変化して私を焚き付ける。母のきもちもわからんでもないが、私には私の生き方がある。そのことを追求すると互いが引くに引けなくなって口調が強くなるし、胸が痞えて呼吸が浅くなるし、居心地悪くなるし、嫌なきもちになるし、喧嘩をするには体力が必要だから要らぬところで消費したくないし。私はゆっくり味わいたいと思っていたホットコーヒーを、するすると体へ落として立ち上がり「散歩に行くわ。」と、言葉を置いて外へ出た。

 てくてくと歩きながらニットから出た爪を見ると、夕日のオレンジ色がこびり付いていた。それを見ながら、こんな色のネイルがあったらすぐに買うのに、と思うと風がビューッと吹き抜けた。

「なんでこんなに寒いんやろ。」

ひとり言をつぶやきながら先ほどのやり取りを消しゴムで消すようになぞるけど、そこには痕跡がしっかりと残っている。小さくため息を吐くと右側の視界の片隅で何かがゆれた。私はそちらへ視線を移した。そこには、マンションの部屋のひとつが窓も網戸も全開で、レースカーテンがふわりと風を纏ってゆれていた。それは夕日と風の形を映し出すように大胆に膨らみ動く。その様が、マリリン・モンローの白いワンピースみたいだなと思うと、なんの変哲もないレースカーテンだったのにセックスシンボルへと変幻した。シンボリックなそれは、ゆれながら私の脳みそを刺激する。そして、簡易にものを擬人化してしまう自分が可笑しくて、ひとつ小さなため息のような笑いをマスクの中へこぼした。そのうちに夕日は鉄が灼けるような色へ濃縮して光を放っている。それを見ていたら、目の芯が痛くなったので、側にあった涼しい暗闇に視線を移すと、夕日の残像がチカチカと点滅する。私は首を上下左右に振ってそれをやり過ごそうとしていたら、イヤフォンから礼賛の『バイバイ』のサビが流れて、めちゃくちゃノッてるひとみたいになったので、慌てて首を振るのをやめてすこしジッとしていたら、煩わしくそこに居た残像は欠けながら徐々に消え去った。

この矛盾も混沌も一緒に消え去ってくれたらいいのに。

心の片隅で、棘に塗れた本音が囁いた。そして、公園のベンチへ腰掛けてイヤフォンを外したら、鳥の鳴き声や風の囁きが聴こえた。痞えていた呼吸もゆっくりとだけれど、深く深くできるようになった。すると

「ドンゴリ、ころころ、どーじょ。」

と、小さな子どもが楓のようなかわいい手からふくふくとした団栗をくれた。

ドンゴリ…か…かわいい。

その言葉は、私の歪な多角形をしていた心の角をぼろぼろと剥がし、丸味を帯びた心は幾分軽やかになった。私は「ありがとう。」とその子どもに伝えると、先程まで堂々としていた子どもは、急にモジモジと恥ずかしそうにしはじめた。そうしたら

「すみません。ごめんなさい。」

と、女の子の母親だろう、すごく申し訳なさそうに私に気を遣ってくださった。

「ありがとうございます。今日一日、このどんぐりのおかげで幸せになれました。」

私はマスク越しだけれど、心から溢れる嬉しさを笑顔に変換して頭をぺこりと下げると、母親と子どもは同時に「えへへ。」と声を出して小さく笑った。暖かくシンクロする笑い声っていいなあ、と思いながらふたりに手を振って別れた後に、その子どもの後ろ姿をジーッと見た。そこには、元気と勇気が身体から漏れ出たような気配が漂っていて、大人が忘れた幸せがあったことを思い出させた。子どもの力ってすごい、と思う。だって、あの一瞬の出来事で、ひとを幸せにしたのだから。

 その後、私はてのひらで団栗をころころと転がせ、それを擬人化して腹話術をした。

「寒いっすねえ。もう冬っすよ。」

甲高い声の団栗は、思っていたよりも元気な様子で冬を告げる。そして、足を動かしながら視線をマンションへ向けると、あの窓は閉められ、マリリン・モンローのレースカーテンは部屋のなかで静かに佇んでいた。







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