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ドライブインなみま|小説 うどん編


「はい!息を吸ってえ、吐いてえ、吸ってえ、はい!止めて息んでっ!」

助産師の伊藤さんに言われる通りに息を深く吸ったり吐いたり息んだりしていると、自分がロボットになったような気がする。けれど、頭蓋骨を貫くような下腹部の激痛で私はロボットではなく動物なんだと実感できた。

「イタタタ!痛い!お願い!助けてえ!」

私は喉が千切れるかと思うくらいに叫んだ。すると伊藤さんは

「痛いよね。でも東さん、助けてあげるから、ちゃんと息をして。はい!もう一回!吸ってえ──」

と私に負けないくらい大きな声で言った。私はなりふり構わずに形を変えて波のように押し寄せる痛みを堪え、大袈裟に息を吸って肺を大きく膨らませたり、小さく縮めたりして呼吸を続けた。そうしていると

「よし!あと少し!頑張って!はい!吸ってえ、吐いてえ──」

伊藤さんが分娩室へ入室する前に言っていた

「私たちは運命共同体ですから。このお腹のお子さんが元気に生まれてくるように、お互いに最善を尽くして全力で挑みましょう!」

という言葉が、朦朧とする頭にぷかりと浮上した。私は頭を浮かして足の間から伊藤さんを見た。その顔は薄らと赤みを帯びていた。すると、伊藤さんがこちらを向いたときに目が合った。伊藤さんは笑顔を作って、うん、と頷いたあとに

「大丈夫。私がついていますから!あと少し!頑張って!」

と声を張り上げた。私も、うん、と頷き頭を元へ戻し呼吸をして息んでを繰り返した。今までこんなに命を振り絞るような経験はしたことがない。のたうち回る痛みを感じながらもグッと息むとヌルッとした感覚がした。どうやら赤ちゃんの頭が体外へ出た様子で

「東さん!頭が出ましたよ!あと少し!頑張って!はい!大きく吸ってえ!大きく吐いてえ!」

と、伊藤さんも全力で声を出している。私は命を振り絞って息んだ。あとのことはどうでもよかった。旦那が家にいないことも、他所に女を作っていることも、冷め切った私たちの関係のことも、思いっきり息んでいるうちに、あんなに悩んでいたのに、それすらどうでも良くなって、ただ頭と体は熱を──、命の熱を発散させている。それと同時に、ボロボロと剥がれ落ちるように私のどうしようもない過去が清算されるような気がした。私は激痛の合間を縫うように最後の力を振り絞って思い切り息むと、またヌルッとした感覚のあとに、ふっと下腹部が軽くなるような気配がした。

「オギャー!オギャー!オギャー!」

部屋いっぱいに赤ちゃんの産声が響き渡った。

「東さん!産まれましたよ!元気な女の子です!良く頑張りました!」

伊藤さんの声が産声に紛れて私の耳に届いた。それから処置をしてから伊藤さんが抱えた赤ちゃんはとても小さく、まだアウアウと言いながら元気に泣いている。

「東さん、赤ちゃんも、おつかれさまでした。」

と、私の左胸の上に赤ちゃんをそっと手渡してくれた。私は赤ちゃんを抱くと熱の塊のように熱く、命そのもののような気がした。すると、自然と涙が溢れてきた。それは自分を労う涙なのか、安堵の涙なのか、それとも嬉しさなのか判らなかったけれど、その涙は目尻をスーッと流れてこめかみに落ちた。

「伊藤さん、ありがとうございました。」

私がそう言うと、伊藤さんは、うん、と頷いてから

「東さんが良く頑張ったおかげで、無事に運命共同体を遂行できました。ありがとうございました。そして、ご出産、おめでとうございます。」

と私の左腕をそっと摩って最後にぽんぽんと軽く撫でた。それから二時間くらい分娩室で過ごしてから赤ちゃんは新生児室へと向かった。私も処置が終わり病室へ戻ると母が待っていてくれた。

「莉花、よう頑張ったなあ。おつかれさま。」

母は私を労わるようにそう呟いたあとに、にこりと笑った。私は

「あいつはどこにおるん?」

と母に言うと

「旦那さんのことをあいつなんて言うもんじゃない。太一さんは、来てへんよ。」

ああ、やりよったな、あいつ──、と私は心の中で思った。私が死ぬ思いをしている間に女の所へ行っているなんて信じられなかったけれど、自然と怒りは湧いてこなかった。そういえば、私は出産の際にあいつのことも清算したのだった。だからもう狂うような怒りも、底のない悲しみも、尖った哀れみも、総てを、総てを過去に置いてきたと感じた。

「名前は決まったん?」

母はそう言ったあとにペットボトルのお茶を飲んだ。私は母の喉元を見ながら

「やよい、三月生まれやから、弥生。」

そう言って母の喉元から顔へ視線を移した。すると母は「いい名前やね。」と微笑み、またお茶を飲んだ。

それから私と赤ちゃんも健康そのもので、私たちは五日後に退院した。その際に伊藤さんが見送りに来てくれて

「これから大変だと思うけど、東さんなら頑張れるからね。私はいつも応援してるから。また検診のときに会いましょう。」

そう言うと私の左肩を優しく撫でた。母が車で迎えに来てくれたので、それに乗り込んで、伊藤さんに笑顔で手を振った。結局あいつは──、入院期間中に一度も病院へはやって来なかった。それが答えなのだと私は確信した。もう未練などない。幾分さっぱりとした気分で母に市役所へ寄ってもらい、離婚届を何枚か頂戴した。この緑色の枠の中に私とあいつの氏名を書けば、それでこの関係を終えることができると、細い糸のように繋がり続けている夫婦という名だけの繋がりもプツリと切れたような気がした。

「私、もう離婚すんで。」

そう呟くと、母は

「あんたの人生やから好きにしい。家の部屋は莉花が使ってたときのままやし、いつでも引っ越しておいで。」

とハンドルを握りながら呟いた。私は「そうする。」とだけ言って車窓から見慣れた景色を眺めた。海岸沿いを通るとドライブインなみまが見えた。

「ああ、ドライブインなみまのうどんが食べたい。」

私がそう言うと、母は

「莉花は食いしん坊やね。お父さんもあそこへ行くと必ずうどんやったわ。けれど、今は弥生もまだ小さいし、首が座るまで行けんなあ。」

と言いながら信号で停車した。私は弥生をあやしながら、ドライブインなみまを眺めた。その場所は幼い頃から在って当たり前のような、すでに店の底には沢山の植物の根のようなものが張っていそうな、そんな気がする。ふと、父と母と姉と四人で良く通っていたことを思い出す。あの頃の幸せな記憶を感じながら、私は弥生に「もう少し大きくなったらドライブインなみまへ一緒に行こうね。」とそっと呟くと、弥生は小さな手をぎゅっと握った。信号が青になり車がゆっくりと発車すると車窓からドライブインなみまは後ろへ流れていった。

実家へ到着すると母に弥生を預けて早速、離婚届を書いた。筆は止まることを知らずに予備に頂戴した三枚を一気に書き上げたあとに判を紙へ埋めると、これできれいさっぱり終わり!と幾分、爽快な心持ちになった。そして

私は、この子とふたりで生きていく。

と強い決意がうわーっと胸いっぱいに溢れてきた。それから私は母と姉に手伝ってもらいながら、マンションから少しずつ荷物を実家へ移動させて、それが終わるとあいつに連絡した。数コールしてからやっと出た声は寝起きだった。「──うん、もしもし?」という過去の人の声が耳の中で跳ね返った。

「久しぶり。あんな、離婚届けを書いたからマンションへ置いとくから書いて。書いたらテーブルへ置いて。私が市役所へ出しに行くから。それから、私はマンション引っ越したから、あとの荷物はよろしく。」

私は、息つく間もなく一気にまくし立てたあとに、ふぅ、と息を吐いた。そのあと数秒の沈黙が訪れて、何も音を発さない携帯を耳に当て続けていた。あいつは何を迷ってんねん、と些かいらいらとしていたら

「──うん、わかった。」

と、小さい声で言うから、私は

「よかった。じゃあ、元気で。」

そう言って電話を切った。そしてリビングへ戻ると母が弥生を抱っこしていたので、その横へ座り私は弥生を見つめた。人差し指を弥生の手の前へ出すと、弥生はそれをぎゅっと握って離さなかった。すると母が

「あんたは、えらい子や。これからは私も姉ちゃんも子育て手伝うから、あんまりひとりで抱え込まんとき。」

と言うから、その目を見ると眉間に力を入れて目尻で右往左往している涙が流れないように堪えているように見えた。私はこれからの漠然とした不安はあったけれど、何も怖くはなかった。私の側には、母が、姉が、そして、天国で父が見守ってくれていると思えたから、私は弥生と共に生きていけると実感できた。私は母に、ありがとう、と言うと母は我慢していた涙を流しながら、弥生を私に渡すのでそっと受け取り、抱きしめた。

それからマンションへ離婚届を持って行きテーブルへ置いき、その二日後に数時間だけ弥生を姉の瞳に預けてマンションへ行くとテーブルの上に、東太一と書いた離婚届が置いてあった。そしてその横には、今までごめん、と書いたメモが置いてあった。私はそれを手に取ると湧き上がる、どす黒い怒りをグッと鎮めてビリビリと破き丸めてゴミ箱へ入れた。すると、離婚届が丸まってその中にあったので、それを取り出し広げると、あいつは住所の番地を間違えた様子で、その部分をボールペンで黒く塗り潰していた。それを見た瞬間に、これまでの一瞬だけだった幸せも、狂うような怒りも、底のない悲しみも、尖った哀れみも、走馬灯のようにくるくると回り流れて通り過ぎた。もう涙は枯れ果てたのか出ることはなかった。私はメモ用紙へ

家のキーはドアポストへ入れてます。

と、書いてテーブルへ置いて部屋を見回してからマンションをあとにした。その足で市役所へ離婚届を提出して、海岸沿いを車で走った。その途中にドライブインなみまが見えてきたので、そこの駐車場へ停車させて姉に連絡をした。弥生はミルクを飲んだあとに、ぐっすりと寝ているそうで、姉は

「私が弥生を見てるから、たまにはひとりでゆっくりしておいで。」

と私に時間を与えてくれた。私はその言葉に甘えることにして、電話を切ると車から下りてドライブインなみまへ向かいながら空を見上げると、大きな椰子の木の葉が春風に揺れてしゃらしゃらと鳴っていた。そして自動ドアから入店すると「いらっしゃいませ。」と店主の由美子さんが迎えてくれた。

「あ!莉花ちゃん!お子さん生まれたみたいやね。おめでとう。あんなに小さかった莉花ちゃんがお母さんになるなんて、そりゃあ私も年取るわ。」

と由美子さん和かに言った。私はありがとうと言ったあとに

「由美子さん驚かんといてな。私、離婚してん。」

そう言うと、私はほんとうに独り身になったと実感した。由美子さんは

「そうかあ。それは大変やったね。」

と言いながら私の右腕を撫でてから

「──これから大変かも知れんけれど、百合子さんや瞳ちゃんがおるしね。あんまりひとりで抱え込まんように。莉花ちゃんなら良いお母さんになると思うよ。ファイト!」

と小さくガッツポーズした。実母のように私を心配してくれる由美子さんの言葉に心は反応して、込み上げてくる熱い塊を我慢した。そして私は由美子さんにお礼を言ってから、うどんを注文して席へ移動した。私の隣の席には小さな女の子と母親がうどんを半分に分けて食べていた。その姿は何年後かの私と弥生のようで、また胸の奥に熱いものがじゅわっと溢れてきた。すると隣の女の子はこちらを向いて、やや恥ずかしそうに微笑んだ。その可愛さに私まで頬が緩み笑顔になった。子どもの力ってすごいなあ、と感じる。子どもが笑うだけで大人も笑顔になるのだから。私は女の子から母親へ視線を動かすと、目が合ったので軽く会釈をし合った。

「お子さんは何歳ですか?」

私は訊くと、母親が、ろ──、と言いかけたら、女の子がそれに重ねるように

「わたしは、ろくさい。」

と真面目な顔をして応えた。私は

「六歳なんやね。もう立派なお姉ちゃんやん。」

と言うと女の子は、うん、と頷いた。すると母親が

「お子さんはいらっしゃいますか?」

と尋ねてくださったので、私は頷きながら

「はい。最近生まれた娘がひとりおります。私と娘のふたりで、──いや、母と姉に手伝ってもらいながら育児を頑張っています。」

と言った。母親は何かを察した様子で

「そうですか。私も母に手伝ってもらいながら育児をしてます。不安なこともたくさんありますし、サツキに寂しい思いをさせることがありますが、私もサツキと一緒に成長しながら何とか元気にしてます。」

と言った後に大きくひとつ頷いた。

「サツキちゃん──もしかして、五月生まれですか?」

私は少し驚いたように訊くと、母親は

「そうです。五月生まれやからサツキです。漢字も皐月と書くんですよ。名付けの際に少し安直な気がしたんですが、とてもきれいな響きがする名前だったので。ちなみに私は七月生まれで文乃と言います。」

そう言いながら右手の人差し指を宙に浮かせて皐月と文乃を漢字で書いた。その瞬間に私の胸は小さくコトンと鳴った。

「あの、私の娘も三月生まれで弥生と言います。」

すると文乃さんは、すごい!、と言って口元を手で覆った。そして、同じですね、と言って微笑んだ。私は隣の親子と大きなつながりを感じると共に、私の中で小さな波のような心のうねりが発生した。それはほっと胸を撫でるような温かいもので自分自身を肯定した気がする。すると、もうすでに枯れていたと思った涙がスーッと流れ落ちた。──アレ?と思うと、次から次へと涙が溢れて零れ落ちる。私は慌てて鞄からハンカチを探したけれど、見つからなくて手の甲で涙を拭っていたら、皐月ちゃんが私に、はい、これ、と可愛いイラストが描いてあるポケットティッシュを渡してくれた。突然の出来事に私は、あ、ありがとう、と言って受け取ると、それで涙を拭った。すると文乃さんが、大丈夫ですか?と声をかけてくださった。私はティッシュで涙を拭きながら

「出産後でホルモンの高低がスゴくて。突然、すみません。」

と言うと、文乃さんは

「わかります。私も泣くつもりはないのに、涙が溢れてくるし、怒りたくないのに怒ってしまうし、大変でした。」

そう言い、優しく微笑んだ。そうしたら、由美子さんがうどんを持って来てくれた。

「ありゃ?莉花ちゃんどないしたん?」

由美子さんの言葉に触れると、私はまたひと泣きした。由美子さんは

「いっぱい泣き。ここでいっぱい泣いて、嫌なもんは忘れていき。」

と、私の背中を摩ってくれた。私は一通り泣くと気持ちが落ち着いたので、何回か深呼吸をした。ゆっくりと呼吸すると鼻腔の奥に薄らとうどんのお汁の香りがした。すると、ぎゅーっとお腹が鳴り、それが聞こえたのか由美子さんも文乃さんも皐月ちゃんも「良い音が鳴ったねえ。」と笑った。私は「ごめんなさい、お腹が減りすぎて。それではいただきます。」と合掌すると、まずは丼を両手で包むように持ち、お汁を啜った。口の中に鰹出汁の風味が優しく広がる。美味しい、と自然と声に出ていた。すると、皐月ちゃんが

「あ!お姉ちゃんが泣きやんで、良かったね。」

と、可愛い声で呟いた。私は皐月ちゃんに、おうどん、おいしいね、と言うと、皐月ちゃんも、うん!おいしいね、と言い、ふたりで微笑んだ。熱々の麺を食べるとコシがあってじんわりと咀嚼するたびに、うどんの風味がふわりと広がる。なんだろうか、この安心感。温かくて、柔らかで、軽やかで、この丼の中には優しさが配合されているような気がした。それを食べ終わる頃には小さな幸せを感じているけれど、それはぱらぱらとページが捲れるように、すぐ消えてしまいそうだった。私はその余韻を感じながら、ふわりと現れた言葉を口にした。

「よう、頑張りましたよね、私。」

そう口から零れ落ちた。それを聞いた由美子さんが

「そうやね、莉花ちゃんはよう頑張ったよ。そうやって歯を食いしばって生きていくことには意味があんねん。だから今の自分をたくさん褒めてあげてな。そのあとは、莉花ちゃんも変わるし、周りの人も変わるし、世の中も変わっていくけれど、今までの経験や記憶を大事にしながら上を向いて歩ければ、人生もそんなに悪いものじゃないよ。」

と私の目を真っ直ぐに見て言った。私は、そうですね、と呟いた。憎しみに狂っていた私も、弥生を愛おしいと思う私も、ひとりでうどんを食べている私も、その集合体が私なのだと滲んでいた自分の輪郭線がはっきりと見えた気がした。そして、これから繰り返していくであろう楽しみ、悲しみ、それで人生を作れば良いんや、と思った。すると、──あ、さくら、と皐月ちゃんが窓の外を指差して呟いた。私たちは、その小さな指に導かれて窓の向こう側を見ると、山の緑の中に薄いピンク色が見えた。みんながそれぞれその景色を眺めながら、もう春やね、とか、お花見行こう、とか話をしてから、私は文乃さんと連絡先を交換した。そして会計をして外に出ると春風が皐月ちゃんのスカートを膨らませて通り過ぎた。それを見た瞬間に弥生に会いたくなって駐車場で文乃さんと皐月ちゃんにさよならして、私は爽快な気分で車を動かした。









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