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二冊のかもめ食堂


三年前に事故に遭ったとき、病院では個室だった。個室はいい。気を遣わなくていいし、テレビは垂れ流してもいいし、鼻歌も歌えるし。だから、三ヶ月の入院中、二ヶ月は個室で悠々自適の生活をしていた。けれど、看護師さんが

「ときどきは、気分転換にテラスとかホールとかへ出たらどうですか?すこしは、体も動かさないと。」

と、仰るので、私は、気分を転換しなくても、心は穏やかだし、健康で文化的な最低限の活動はしているし、問題はないと思ったけれど、看護師さんが仰るならと

「では、そうします。」

と、従うことにした。そのとき私は、歩けるようになるまで車椅子で移動して、テラスへ向かい、途中の自販機で買った甘々のコーヒーを、舌をタンタンいわせながら飲み、読書に耽った。テラスは、爽やかな春の風が吹いて心地よく、読書を楽しめた。それから、晴れの日の午前中は、テラスで過ごすことが多くなり、その際は、読書をした。

その日も、いつものように、テラスで読書をしていたら、横からお声がかかった。

「あのー、こんにちは。いつも、ここで本を読まれてますよね?私も本が好きで、ときどき、こうしてテラスで本を読んでいるのですけど、ときどき、お目にかかるので。いま、どんな本を読んでいますか?」

彼女は、すこし恥ずかしそうに話しかけてくださった。私は、きょとんとしたけれど、ひさしぶりに病院のスタッフさん以外と話すので、嬉しくなった。私は、本の表紙を見せてながら

「西加奈子さんのまにまにを読んでいます。あ、はじめまして。」

と、しどろもどろに話した。すると、彼女は自己紹介してくださったあとに

「私は、かもめ食堂を読んでいます。これ、映画も好きなんですよ。」

と、話してくださった。それから私たちは、テラスですこし本の話と入院中の話をして、別れた。そして、その日から彼女とテラスで会って話をする仲になった。

その頃、コロナが流行の兆しを見せはじめた為に、病院は面会謝絶で、誰にも会えなかったし、人恋しさではないけれど、互いに話し相手が欲しかったのだろうと思う。それに、年齢も近くて、本が好き同士ということもあり、話が合い、私は、午前中にテラスへ行くことが楽しみだった。

彼女とは、いろいろな話しをした。花粉症の薬がドでかくて嚥下するのに苦労していることとか、廊下にある自販機のブラックコーヒーがいつも売り切れていることとか、昼食の鯖の塩焼きにすべての骨がなかったことに感動したこととか、とにかく、しょーもない、くだらない話を互いにした。そして、笑い合った。けれど、どちらからも連絡先を交換しようとは言い出さなかった。なぜ、連絡先を訊かなかったのか、いまは、思い出せない。

ある日、私が『まにまに』を読み終わった頃、彼女も『かもめ食堂』を読み終わった様子だった。すると、彼女は

「北野さん、まにまにの、どこが面白かったですか?」

と、問いかけた。私は、まにまにの内容を話したあとに、エッセイの言葉を引用した。



その他諸々、「なんやようわからんこと」で弾かれている人へ、大丈夫やで、この世界は、カスでも命の方が勝ちやねんで。圧倒的に、くその勝ちやねんで。

まにまに 西加奈子



そこが一番心に残ったことを話した。すると、彼女は

「面白そうですね。私も読んでみよっかな。」

と、仰るので、私は

「え?良ければ、この本、差し上げます。ぜひ、読んでください。」

と、言うと、彼女は

「え!?いいんですか?じゃあ、私のかもめ食堂と交換しませんか?」

と、仰った。実は、私は『かもめ食堂』を持っていたけれど、本を交換した。えらく喜んだ様子の彼女を見ていると、私も嬉しく思った。それから、私が先に退院をする際、彼女はエレベーターまで見送りに来てくれた。そして

「またね。」

と、手を振った。

もし、彼女と再会することがあれば、連絡先を交換したいと思っている。

私の本棚からは、『まにまに』が消えたけれど、その代わりに『かもめ食堂』が二冊ある。そのことを本棚に並んでいる『かもめ食堂』を見て思い出したので、ここに記す。










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