ドライブインなみま|小説 オムライス編
──あーあ、恋に落ちた。
瞬間的にそう思った。幾分高熱に魘された時のように身体が浮遊して地面から数cm宙にいるような心地がする。勝手に高鳴る心臓の波動が指先を揺らし、それを隠すために頸を掻いた。すると、由美子さんが
「たーやん、彼女はリン ユートンさんと言います。明日から一緒に働きますので、いろいろと教えてあげてね。」
と、言うから、俺は緊張をひた隠しにして、もったりとした平静を装いながら
「高梨彰と言います。よろしく。」
と、卒なく自己紹介した。するとリンさんはにこりと笑いながらこちらを見て
「リン ユートンです。よろしくお願いします。」
と、囁くように言うから、俺は戸惑いながら頸を掻き続け慌てて笑顔を作った。それが分かったのだろう、リンさんは「うふふ。」と口に手を当てて笑ったから、俺も今度は心から笑顔になった。それから三人で世間話をした後にリンさんを見送りに由美子さんと店の外へ出ると、日陰が冷やした秋風がふんわりと吹き抜けた。俺はそれに軽く背を押されるように
「また明日。」
と、手を振ると、リンさんも「また明日。」と呟いてにこりと微笑みながら手を振り、自転車へ乗った。リンさんは自転車のチェーンのカチャカチャという音を響かせて、颯爽と海沿いの道をゆく。由美子さんと俺はその姿が無くなるまで見送ると
「リンさんほんまにええ子やなあ。明日が楽しみ楽しみ。」
由美子さんはそう言いながら、合掌して何かを祈っているように見えたので
「何を祈ってるンすか?」
と、訊くと由美子さんはエプロンのポケットへ手を入れてから
「リンさんの幸せが続きますようにと、──あとは、リンさんの居場所がここにできたから、神様にありがとうってお礼をしてん。」
と、リンさんの姿が消えた辺りを見据えながら火を灯すようにそっと呟いた。どうして由美子さんはこんなに優しく温かいのだろうかと、不思議に思ったけど、それを口に出さなかった。
「さ!戸締りして帰ろうか。たーやん、遅くまでいてくれてありがとうね。」
由美子さんはエプロンを外しながらそう言った。俺は
「いやいや、なんてことないっす。」
と、言うとふたりで店の中へ入り戸締りをしてから由美子さんと別れて、俺はバイクへ乗り帰宅した。玄関ドアを開けると暗くシーンと静まりかえった部屋は誰もいるはずがないのに「ただいま。」と今日という日を玄関先へ落とすように呟いた。台所の照明を点けるとやっと帰って来た気分になって「おかえり。」と安堵が口に出て、その勢いのまま冷蔵庫を開けると缶ビールを一本取り出してすぐさま身体へ流し込む。口の中で冷たい点だったビールは喉を通るときに線へと形状変化して身体の熱を分散させていく。「くわーっ!」と、ビールのCMかと思うくらいの声に、ひとりで「ふふ。」と笑ってしまう。それから今日は店で作ったオムライスを肴にして秋の夜長を愉しんでいたら、ふわりとリンさんが頭に浮かぶ。
──あーあ、恋に落ちた。
俺は瞬間的にそう感じたことを思い出した。それが今になってもアルコールのせいではない、心臓からの熱波が顔に耳に到達する感覚を味わい面食らう。それを癒すように冷たいビールをごくごくと飲み干して、缶をグチャッと潰した。──恋なんてするもんじゃない、と心の中で呟いた。恋は人をダメにさせる、幼い頃からそのことが身に染みて分かっている。俺は遠い遠い遥か昔から恋なんてものがこの世から無くなればいいと思っていた──。
「母ちゃんはどこ?」
俺は兄ちゃんに訊くと
「知らん。」
と、言うから今度は父ちゃんに訊くと
「──出て行った。」
と、だけ呟いた。そのあと父ちゃんは小さなグラスへビールを注ぎそれをグイッと飲んで手に持ったそれをテーブルへどんっと勢いよく置いた。
「お前たちは、あの女に捨てられたんや。あ、俺も捨てられたんだっけ?あはは。」
父ちゃんの肌は酒で赤黒く染まり首からは大量の汗が流れていた。それがTシャツの襟元をぐっしょりと濡らしていることが分かる。下戸の父ちゃんが酒を飲むなんて天地がひっくり返った気分がした。そのことが何を意味しているのか理解できなかった俺は急に怖くなり兄ちゃんの近くへ駆け寄ると
「彰、大丈夫だから、あんま恐がんな。」
そう言って俺の頬っぺたを優しく抓ってにこりと笑った。
「大丈夫だから──」
今思うと兄ちゃんは自分自身にそう言い聞かせていたのかもしれない。全然大丈夫じゃないこの状況を落ち着かせるために敢えてそう呟いたのだろう。それから兄ちゃんは徐に立ち上がり、父ちゃんの前に置いてある母ちゃんが作り置きしたオムライスを電子レンジで温めて俺の前に出してくれた。それは兄ちゃんと俺の好物だった。ラップを剥がすと熱が顔にかかりケチャップの甘酸っぱい匂いが鼻を突く。立ち上がる湯気に顔を埋めてから、いただきますをしてスプーンで黄色い膜をそっと破る。横で兄ちゃんもラップを外していただきますをして食べ始めて急に「うっ。」言ったと思ったら大きな瞳から涙がポロポロと零れ落ちた。それから兄ちゃんは、Tシャツの袖口で涙を拭いて鼻を啜りながらオムライスを食べている。それを見ていると俺も無性に寂しさが襲ってきて、口にいっぱいオムライスを入れて泣いた。
「お前ら、泣くか食べるかどっちかにしろや。」
父ちゃんはふらふらしながらそう言った。兄ちゃんと俺は、感じていることが一緒だったのかもしれない。喉元へ後から後へ打ち寄せる波のような寂しさや辛さを悔しさをオムライスで押し返すと、事の重大さが身に沁みる。
母ちゃんが──
俺たちをスてた。
ミミズ腫れのようにぷっくりと浮き上がる真実に、母ちゃんの大らかな声も、美しい笑顔も、真剣な横顔も、白くて細い首も、艶やかな髪の毛も、温かい太腿も、柔らかい手も、もう二度と触れることはできないと気がついた。小さな心に巣食った絶望は消化されることなく膨張し続け、臓腑に蹲み込んでいる。すると、兄ちゃんは目尻に溜まる涙を手で拭ったあとに
「彰、食べたら一緒に風呂へ入って寝るで。」
泣きながらも毅然とした態度を取る兄ちゃんに俺は、うん、と頷いて、最後の一口を口へ入れる頃には涙は止まり
これが母ちゃんの作った最後のオムライスや。
と、自分の中で呟いた。そしてきちんとごちそうさまをしていたら、父ちゃんが「うえーい!」と、言いながら畳へ寝そべって
「お前たちはいなくなんなよ。」
と、酔った声で呟くから兄ちゃんは
「俺たちはいなくならへんよ。」
と、寝そべる父ちゃんに呟いた。父ちゃんは返事はしなかったけど、小さく震えながら、うんうん、と頷いていた。それから俺は風呂へ入るために箪笥の引き出しを引いたら空だった。どうやら間違えて母ちゃんの引き出しを引いてしまったらしい。そこには母ちゃんのパンツもブラジャーもワンピースも総てが無くなっていて、ただ樟脳の匂いが鼻を突いた。鮮烈に蘇る母ちゃんの匂い。俺は、ただぼーっと空の引き出しを見ていた。そうしたら横から兄ちゃんが
「彰、風呂に入るぞ。」
そう言うから、その引き出しを閉じて、自分の引き出しを引いてパンツとパジャマを取り出して風呂場へと向かった。
それから少し経つと、近所の人や学校で母ちゃんのことが噂になった。陰口で「あいつんちの母ちゃん、男作って逃げた。」とか「駆け落ちした。」とかコソコソと、俺の耳に届いたけど、一度
「文句がある奴は俺に直接言えや。ぶん殴ってやるから。」
と、言ったら、陰口は徐々に鎮火して、残った焼け野原はただの殺風景な景色がそこにあった。そこへポツリと芽を出したものは母ちゃんに対しての憎しみだった。いつしか自分の中で母ちゃんではなく、あの女と成り果てた。黒く滲んだそれに蝕まれながら、なぜ俺たちを捨ててその男を選んだのか、そのことが知りたかった。そして、駆け落ちする方はドラマティックだけど、残された家族は悲惨だな、と子どもながらに思った。恋は人を狂わせて、周りを巻き込みながら破滅していく。それを肌で体感しているからこそ俺は恋に振り回されるくらいならば、くたばった方がマシだと強く思った。その考えは今もこの胸中で呼吸をしている。──なのに、なのに俺は──。
──あーあ、恋に落ちた。
そう思った愚かな自分を殴ってやりたかった。何が恋だ。この感情を捨てることは簡単だと理性的に言い聞かせると、またビールの缶を握り潰した。
翌朝にバイクで職場へ向かい裏口から厨房に入るとリンさんの後ろ姿が見えた。長髪を後ろで結えてジーンズ地の三角巾とエプロンをして由美子さんから何か教わっていた。それを細かくメモに書いている姿を見ると身体の内側がむず痒くなる。
「あ、たーやん、おはよ。」
由美子さんがそう言うと、リンさんはこちらを振り返り
「おはようございます。たーやんさん。」
と、にこりと笑った。その視線を妙に意識してしまって俺は「おはよ。」と挨拶したけれど、イントネーションがおかしくなった。リンさんは体勢を戻して俺はこっそりとその後ろ姿を見ながらコックコートを羽織り、頭に帽子を被ると他の従業員も出勤して挨拶を交わしたあとに、由美子さんが
「みんな集まってー。」
と、フロアへ集合した。俺たちは並ぶと由美子さんが
「はい、では今日から一緒に働くことになりました。リン ユートンさんです。」
そう言ったあとに、場所をリンさんへ譲ると
「リン ユートンと言います。リンと呼んでください。初めてで分からないことだらけですが、いろいろと教えてください。よろしくお願いします。」
と、頭を下げた。そうしたら端の方から拍手が聞こえたと思ったら、みんなは拍手をし始めた。そして、従業員のそれぞれが簡単な自己紹介をした。リンさんはその間も小さなメモ帳に書きながら、「自己紹介、ありがとうございます。」と、感謝していた。それが一通り終わると由美子さんが
「はい、じゃあ、これからもリンさんと一緒に働いて、一緒にご飯を食べて、仲良くしていきましょう。解散!」
と、言うと、みんなで「はい!」と返事してそれぞれの持ち場へ行き準備を始めた。俺も厨房へ戻り準備をして、忙しくなりそうな気配を感じ取りながら仕事に集中した。それからお昼を過ぎて客足が落ち着いた頃に、休憩に入ろうとしたら、由美子さんがやってきて
「たーやん、お兄さんが来てくれてるよ。休憩に入っていいから、行っておいで。」
と、奥の席へ視線を送ると、そこで兄ちゃんがオムライスを食べていた。俺はコックコートと帽子を脱いで兄ちゃんの前に行くと、兄ちゃんが
「よう!元気そうやな。ってこの間会ったけど。」
と、笑顔で呟いた。俺は兄ちゃんの前の椅子へ腰掛けて
「急にどうしたん?来るなら言うてくれたら良かったのに。」
と、軽く言うと、
「ま、あれやな、急にお前の顔が見たくなったし、それにな──、ま、これ食べてから言うわ。」
そう言って、オムライスを美味しそうに食べ続けた。俺はそれを見ていたら由美子さんが
「たーやん、これ一緒に食べてな。」
そう言ってオムライスを持って来てくれた。俺はお礼を言ったあとに、スプーンで黄色い膜を破り口へ放り込む。やっぱりここのオムライスは旨い。俺は味わいながら平らげた。すると、それを待っていたように兄ちゃんは
「あんな、この間の父ちゃんの一回忌あったやろ?彰が帰ったあとにな、うちに──母ちゃんが来てん。」
そう言った。俺は「は?」としか言葉が出てこなかった。そしたら兄ちゃんは
「母ちゃんな、父ちゃんの仏壇に手を合わせたあとにな、泣きながら必死で俺に謝ってな、それから自分のしたことを責めてたわ。俺と彰に申し訳がないって言いながら。それからな、父ちゃんとはだいぶ前から連絡取り合ってたんやて──」
俺はまた「は?」と口にしていた。
「兄ちゃん、あの女、ほんまに自分勝手やな。今更なにをのこのことやって来て、俺たちに謝んねん。都合が良すぎるわ。考えられへん。俺は赦さへんからな。」
そう言って兄ちゃんの前にあるお冷やをがぶりと飲み干した。
「彰は、そうやろなあ、と思ってた。今すぐ母ちゃんも赦して欲しいわけじゃないねんて。ただ俺たちのことがずっと気になってたんやて。」
兄ちゃんはそう言って空になったグラスを手に取り
「まあ、あれや、俺も来月には結婚するし、その時には母ちゃんに来て欲しいと思ってんねん。」
俺はまた「は?」としか言えなかった。そのあとに手持ち無沙汰になりながら
「何であの女を呼ぶねん!兄ちゃん、俺たちはあの女に捨てられてんで!俺は一生赦さへんからな!」
そう言って俺は席を立って店の外へ出た。そのときに漁師のいっちゃんとすれ違ったのでイライラを押し殺して軽く挨拶をして兄ちゃんの車の前へ行った。少しして兄ちゃんもやって来て
「彰は彰の思いがあるからな。俺はそれを否定せえへん。今日はそのことを伝えたくて来てん。それだけや。じゃあ、また来月の結婚式で会おうな。」
そう言って俺の肩をポンッと叩くと車に乗り込んで帰って行った。すると、由美子さんが俺の横へやってきて
「たーやん、大丈夫?」
と、言うから
「大丈夫です。休憩ありがとうございました。厨房へ戻ります。」
と、言って店の中へ入った。それからはそのことを考えないように仕事をしたけど、あの頃の喉元へ後から後へ打ち寄せる波のような寂しさや辛さを悔しさを思い出して堪らなくなった。すると、銀行から帰って来た由美子さんにお時間をいただいて、兄ちゃんの結婚式とあの女の話をした。
「そうかあ。これは私の意見やと思って聞いてな。私はたーやんのお母さんがしたことはあかん事やと思う。赦されへんことしてしもうたけれど、人は生きていく中で過ちもあるからね。今は赦されへん!って思っても仕方がないけれど、いつか、たーやんの心が整ってお母さんと話をしても良いって思ってくれたら、嬉しいな。それからな、恋は悪いもんじゃないよ。確かに人を狂わせる時もあるけれど、その人のために生きてみようと思えるものでもあるんやで。それに恋は人を成長させるしな、悪いことばかりじゃないよ。たーやんにもそれがワかる時がくるよ。」
由美子さんは俺の目をしっかりと見据えてそう言ってくれた。まだその言葉が消化できてはいないけれど、自分の中で「こうあるべき。」と決めつけることはやめにした。あの女のことも──、会った時の状況に任せてみようと思った。そして由美子さんは
「恋はするもんじゃなくて落ちるもんやしね。たーやん、恋に落ちたら教えてね。」
と、笑うから俺はドキッとなりながらも「えへへ。」と笑って誤魔化した。それから俺は由美子さんに話を聞いてもらって肩の力を抜くことができたし、冷静に物事を把握できるようになった。ふと母ちゃんの大らかな声が、美しい笑顔が、真剣な横顔が、白くて細い首が、艶やかな髪の毛が、温かい太腿が、柔らかい手が──、俺の中でふわりと宙に浮かぶ。俺は寂しかったのだ。寂しくて寂しくて堪らなかったのだ。あの空っぽになった箪笥の引き出しを開けた時に感じた喪失感と虚無感を思い出す。そして樟脳の匂いが染み付いたあの引き出しを寂しさと憎しみで満たすことしかできなかった幼い自分を優しく撫でた。俺は母ちゃんを赦すことはできないのかもしれないし、あっさりと赦すことができるのかもしれない。それはまだ分からないけれど、なるようになれと思った。未来なんて思い通りになったことなどないし、肩の力を抜いて楽に生きていきたいと感じる。
「あのー、たーやんさん、あれどうやって閉めるンですか?」
少し困った感じでリンさんが言うから後をついていくとシャッターの閉め方が分からなかったらしい。
「これはこの棒でここを引っ掛けて下に下げたら、シャッターが下りてくるから、そのあとは手でジャーッと閉めたらいいんやで。」
俺が閉めてみせるとリンさんはメモ帳に書き残してから
「なるほど!たーやんさん、ありがとうございます。」
と、言った後に静かになったので、リンさんに
「今日は初出勤で疲れたやろ?」
と、言うとリンさんは
「はい、疲れましたけれど、とても充実したいちにちでした。明日も頑張ります。」
と、にこりとかわいく笑うから俺は目線を逸らして高鳴る胸の内をもったりとした平静で隠した。そしてまた
──あーあ、恋に落ちた。
と、思った。
了
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