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ドライブインなみま|小説 ミックスジュース編


自分の抜け殻を見たような気がした。空蝉の硬質な殻の内側は、がらんどうになっているような。

透明な管に繋がれた私は四角い窓の外を見ている。青々と茂る葉を揺らして夏が網戸の網目を滑り抜けて私の頬や額や髪と接触した刹那、何が爆ぜる匂いがした。それはマッチを擦った時のような化合物の刺激的な匂いだった。私の鼻腔を突き抜け脳みそへ到達すると、それがトリガーとなり、着火された瞬間のオレンジ色の炎がぶわっと上がるときの小さな興奮が胸の奥を攫う。何度かスンスンと鼻を鳴らして、再度、その匂いと感覚を自分の中へ落としこもうとしたけれど、それは二度とやってはこなかった。私は五感を使ってこの時間を慈しむ。どれくらい経ったのだろうか、右に傾けた頭を「よいしょ。」と、左へ向けると、母さんが病室の出入口から顔を出した。その手には荷物がたくさんぶら下がり、それを一旦病室の机へ置いてから「よいしょ。」と呟いて柔らかそうなソファへ腰を下ろした。

「また何を買ったん?」

と、私は少し困惑した様子を瞬発的に声音へ乗せて呟いたら母さんは悲しそうに眉を八の字にして

「りんごと、ばななと、みかんと、缶詰のももと、牛乳と、氷と、缶切りと、あとはミキサー。これでなつが好きなミックスジュースを作ろうと思って。少しでも胃の中へ何か入れんと…」

と、その先を言い淀んでこちらを見ながら無理に微笑んだ。私はその先にある言葉が安易に想像できたから、これ以上母さんを苦しめることはやめにした。そして母へ対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。ただでさえ突然、一人娘が血液の病気になり、ご飯は食べないと言うし、治療はしないと駄々を捏ねているのだから。私は

「うん、ミックスジュースやったら飲めるかもしれん。」

と、なるだけ声のトーンを上げて囁くと母さんの表情は重たい枷を外したように開放感に満ちて、心の底から微笑んだように見えた。

「看護師さんに確認は取ってあるから、さっそく作るね。」

母さんは言い淀むことなく軽快にそう言い机の上の荷物をまた手にぶら下げて病室を出て行った。たぶん給湯室で作ってくるのだろう。少し経ってから微かにジャーッと果物と氷が砕ける勢いのいい音が耳に着地した。私はそれを聴きながら目を瞑り、心に沈殿している甘ったるい感傷も薄っぺらい焦燥も歪な沈黙も一緒に粉砕して欲しいと願い、徐に左胸に手を当てた。すると暗闇の中、私の奥から一定のリズムを刻む粘り気のある心音が響いた。

ドクンドクン。

私の身体は生きようとしている。純粋にそう感じるけれど、生きるのならばドナー適合した、あの人の助けが必要になると思うと、澱んだ溝のような感情が指先を麻痺させた。私は見えない裂傷を癒すように、少し震える右手を左手で包んでやさしく撫でた。すると廊下先から聞こえる、幾分円やかになったジャーッという機械音はぷつりと消えてフロアに大人しい静寂がやってきた。少し経つと母さんの足音が床を伝い

「デきたで。これ飲んで元気つけて…」

と、母さんはまた語尾を言い淀んで私に淡黄色のミックスジュースの入ったグラスをそっと手渡した。私はそれを受け取ると、まず冷たさが指を這う。そして、そっと一口含み、風味と喉越しを確かめる。

「ああ、おいしい。」

と、思わず、まあるい言葉が私から飛び出した。母さんは「そう、よかった。」と言いながらハンカチで額の汗を拭うふりをして目元を軽く拭った。

母の由美子は『ドライブインなみま』という店を切り盛りしている。店は潮香る海岸の近くにあり、やけに広い駐車場にポツリと建っている。店内は昭和レトロな雰囲気が机や椅子や本棚に染み付き、木が錆びたように見えるけれど、それが風合いとなり一定の統一感を生んでいる。母さんが言うには、

「むかし流行ったミッドセンチュリーやん。」

らしくて、その内装にコアなファンも多い。そして、看板横にはトレードマークの背の高い椰子の木が植わり、年中青々とした葉が潮風に吹かれてしゃらしゃらと鳴いている。入口の横にはショーケースがあり食品サンプルが均等な間隔で並んでいて、初めてのお客さんはそこで足を止め、メニューを吟味して入店している。中華そば、うどん、焼き飯、サンドイッチ、ミックスジュースが人気メニューだ。そして、このドライブインなみまは、平日には地元の人から土日には観光客まで親しまれていて、休日になると店は神社の祭のように人で溢れかえる。私も子どもの頃から店を手伝っているけれど、朝の九時から夕方四時頃までは動きっぱなしだ。厨房では威勢の良い声と金属や陶器が擦れる音が飛び交い、フロアでは銀色のお盆を持った従業員が忙しなく行き来する。くたくたになり、やっと一休みできる頃合いにフロアへ集合して、母さんが拵えたサンドイッチとミックスジュースを頂くことが習慣化されている。それぞれが忙しなくミックスジュースを流し込むように飲むと、疲労困憊の身体に果物の甘みがじゅわっと沁み渡る。皆から自然と「ふぇ。」とか「ふぁ。」とか吐息が漏れるほどだから母さんの作るミックスジュースは格別だ。そして、それに癒されている頃合いに、あの人は店へやって来る。自動ドアが開くとあの人は

「おお!諸君!ご苦労ご苦労!」

と、ご機嫌に言い、完全に大量の酒が身体を駆け巡っていることが分かる。あの人は仕事もせずに日がな一日酒を飲んでは働き者の母に金をせびりに店へやってくる。その時もすでに酔っているから妙なテンションだ。しかし、いつも店が繁盛している時間帯ではなく落ち着いた頃にやってくるから、あの人なりに気を使っているのかもしれない。

「お!なつも店の手伝いか!お前は母さんに似て働き者やな!オレに似んで良かったな!あはは!」

と、あの人は大笑いするけれど私は「なにがおかしいんじゃ。」と思いながらも特にあの人に返事をすることはなかった。酔狂の声は大きいし、酒臭いし、顔は赤いし、とにかくあの人を形成する総てが嫌で嫌で仕方なかった。すると母は「はいはい。」と言いながら財布から札を取り出してあの人へそっと手渡すと

「お!サンキューサンキューベリーマッチョ!」

と、あの人はおもんないポーズを取った後、札を無造作にポケットへ突っ込んでから私たちの座る方へ、ビシッと敬礼した。そして

「諸君!それではいざ行かん!」

と、大声を叫んで店を出て行った。私は

「どこいくんじゃ。」

と、小さくツッコむと、従業員のリンさんが「ふふっ。」と笑った後にこちらを向いて「あ!ごめん。」と手で口を押さえながら申し訳なさそうにしているから、私は「エヘヘ。」と笑った。そうしたら母が

「それじゃあ、五時でお店閉めるから、あと一踏ン張りしようね。」

と、言うと、皆は「はい!」と残り数mlの元気を振り絞って返事をし、それぞれの持ち場へ行き片付けやら掃除やらを手分けした。私はレジを開けて売上を計算している母さんの横へ行き、皆に聞こえないくらいの小声で

「母さん、なんであの人にお金を渡すの?」

と、訊くと母さんはエプロンの紐を結えた辺りを触りながら

「なつ、あの人じゃなくて、父さんね。」

そう言ったきり私の質問をスルーして

「はいはい、外の掃き掃除して来て。」

と、言い終わるなり札束を手に取り軽快に数え始めた。私は仕方なく申し付け通りに箒と塵取りを持って外を掃いた。潮風が優しく吹いて青々とした椰子の木の葉が上空でしゃらしゃらと鳴いている。私は手を止めて上空から根元までをなぞるように見ると、幹には空蝉が何個もしがみついていた。もうそんな時期かと思うと同時にその姿は見えないけれど、蝉の絶叫が鼓膜を揺らす。私はそれを取ろうとはせずにそのまま置いておくことにした。長年、土の中で懸命に生き抜き、一世一代の覚悟をして土の中から外界へ飛び出し、そして硬質な殻を脱ぎ捨てて変身を遂げる。その一連の工程が辛抱と献身で成り立っているように思えてならないのに、七日で燃え尽きてしまうのだ。沢山のやるせなさが込み上げてくる。それは幾分憤りに変わり液体のように箒を持つ手を伝う。ひたひたと流れ落ちるそれに任せると箒は乱暴な動きになり、慌てて「冷静に。」と、声に出して去なし、掃除を終えると店へ戻った。

その翌日に私はどうしても布団から起き上がることが出来なくて、母さんに連れられて病院へ行き精密検査をしたら血液の数値が異常だった。さらに詳しく検査をすると血液の病気だと分かった。落胆する暇も与えられず淡々と説明される病気の進行状況やこれからの治療のことは母語が異なっているように頭に入らずに私の足元へ転がり落ちて旋回していた。しかし「生存率」というワードが出た瞬間に

私は死ぬかもしれない。

そう思った。その言葉だけが私の中で真実となり定着した。それから緊急入院して、後日に母とあの人がドナー検査をした。そうしたらあの人がドナー適合した。けれど、私はそれを拒んだ。あの人に頼らなければ生きられないことが無性にやるせなかった。

私はミックスジュースをずずずと音を鳴らして飲み干すと空になったグラスを母さんに手渡した。母さんはそれを受け取ると

「洗ってくるわ。」

と、言うから私は「ごちそうさまでした。」と、頭を下げたら病室の出入口の先からぐわんと響く声がする。

「あのー、姉ちゃん、うちの娘、えーっと、波間なつの病室はどこですか!?」

鼓膜へ染み付いた聴き覚えのある、あっけらかんとした声だった。案の定「あはは!」と笑い声が聞こえるから、私は母さんに

「私は寝たということにしといて。」

と、言って狸寝入りを決め込むことにしたら、母さんは「はいはい。」と呆れながら廊下へ出るとあの人は

「お!由美子!なつはそこか!?」

と、酒の回った大声で言うから突発的に恥ずかしくなって私は布団を盛大に被った。それの中は羽化する前の蝉のように固い殻に包まれたような気分になる。羽化したばかりの蝉のように私の白い腕は闇に溶けている。密閉された布団の中でもあの人の声と気配が壁へ反射して転がってきた。

足音で分かる、これはかなり酔ってるな。

と、私は思いながら寝息をスースーと立てた。

「お!寝てるんか!そりゃ静かにせんとな!」

と、全然静かじゃない声で言うから「どんだけやねん。」と思い笑ってしまいそうになったけれど、それをグッと唾を飲み込んで堪えた。そうしたらあの人は「よいしょ。」と呟いてソファへ腰掛けた気配が伝わってきた。その後はポツリとした静寂が部屋を包んで外の木々の葉が擦れる音だけ聞こえた。私は布団をずらして薄目を開けるとあの人はソファで横になって寝ていた。

「うそやん…」

ひそやかにそう呟くと母さんがやってきて

「あ、父さん寝てしもたんやね。」

と、言って棚に置いてあったタオルケットをあの人へそっとかけた。その手つきからは愛というあやふやなものがさらさらと溢れているように感じたから、私は目を逸らしてまた頭を右へ傾けて窓の外を眺めた。すると母さんが

「父さん、なつのことが心配で昨日から寝てないみたいやから。」

と、呟きながら、私は頭を声のする方へ向けると母さんはみずみずしい眼であの人を見つめていた。それは濁りのない清流のように澄んでいて、そこから純粋な匂いが漂ってきたけれど、私は

「どうせ、お酒飲んでたから寝てないんやろ。」

と、清流に足を突っ込むように、ぐちゃっと濁した。すると清流は簡単に砂利や砂がぶわっと舞い上がり視界を悪くした。母さんは

「なつ、いい加減にしなさい。」

と、鋭い声音と視線を私へ向けた。私はそれに射抜かれると言い返そうにも機械が根詰まりを起こしたように言葉が出てこない。あんなに威勢が良かった割には打たれ弱さを兼ね備えた自分が心底嫌になる。

母さんには私の気持ちは分からない。

そう思うと、私の中にはあの人の血が半分流れていると肌が血が腑が煮えるような熱さを感じ、それは不潔な黴のように切実な速度を増しながら私を浸食していく。

「…母さんには…ワからへんよ…」

私は自分にしか分からないくらいの小さな声を出した。それから少し経ってから、あの人が「ふぁーん。」と大欠伸をしながら起きた。そして伸びをして私を見ると

「なつ!具合はどや?」

と、起き抜けなのにいつもの大声を出して私に訊いた。私はスルーすることが出来ずに

「うん、大丈夫。」

と、だけ呟いて、あの人と久しぶりに繋がった透明な視線をすぐさま逸らした。あの人はいつものようにふざけたことは言わなくて、「そうか、そうか。」と言ったきり人形のように固く沈黙した。私は小さく頷いてやけに白い布団のシーツをギュッと掴んだ。こんなにあの人を毛嫌いするようになったのは十五歳の頃からだ。ただはっきりとした理由なんてなかった。朝起きた瞬間から呼吸をするみたいに自然とあの人が嫌いだった。仕事もせずに酒を飲み歩くあの人の、大きな声も、酒臭さも、赤ら顔も、薄ら生える髭も、やけに綺麗な指も、老眼鏡の掛け方も、着ている服も、総てが気に食わないのだ。静かな病室に蝉の鳴き声だけが空気を繋ぐ。すると、あの人は

「それじゃあ、オレは行くわ。なつ、ゆっくり休めよ。」

そう言うと、母も一緒に帰ると言うので、病室の出入口まで点滴スタンドを持って見送り、ついでに窓を閉めた。そうしたら、先生と看護師さんが病室へ来て診察をした後に治療の話になった。どうしても治療が嫌だと言い張る私に先生が理由を訊くから、私は包み隠さず本当の胸の内を話した。すると、先生は

「波間さんがお父さんのことを嫌うのは、それは自然なことやよ。波間さんの遺伝子がそうさせてるんや。特に娘と父親の間に起こることが多いねん。だから、この父親を嫌悪するという感情は本能やねん。」

私は「本能…」と呟いたきり、その先の言葉が思いつかなかった。霧のように白む頭の中で思ったことは自分が本能に従って生きているという理を忘れていたことだ。理性は本能を前にすると存在自体が霞んでしまう。本能とはやけに品行方正なくせに、ある側面ではとても野蛮だと思った。宿命的に与えられた課題を前に、あの人の赤ら顔がふっと蘇生を始める。すると先生は

「お父さんはかわいそうやけど、しゃーないねん。これは性やから。僕の娘も同じやで。僕の着た服と一緒に洗濯するなって言うし、最近は話しかけても返事もせーへんし。父親って悲しい生き物やな。」

そう言ってにこりと笑うから、私もつられて笑った。あの人に対して感じる甘ったるい感傷も薄っぺらい焦燥も歪な沈黙も遺伝子のせいだと思うと、ひそかに抱えた罪悪感が蠢きガサガサと剥がれ落ちる。あの人の仕事をしないところも、大きな声も、酒臭さも、赤ら顔も、薄ら生える髭も、やけに綺麗な指も、老眼鏡の掛け方も、着ている服も、思い返してもやっぱり腹立つけれど、その感情自体が自然の摂理だと思えるとそれは贖罪となった。しかしこれで良いのだろうかと私の決心を躊躇させるに至るものは、あの人と歪に繋がってきた未練がそうさせるのだろうか。

それから先生と看護師さんは部屋を後にした。いつの間にかオレンジ色をした西に傾いた日差しが白い壁を照らす。それは壁がスクリーンとなりショートムービーのように光と影が映し出された奇跡の瞬間だった。


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風に瞬くような木々。光の粒子。陰影の細い線。夏に揺れる光と影。窓枠に額装されたそれは救済のように私の心の中へ反映する。と、同時に

私は生きたいと思った。

この無色透明な感情も私の本能だと感じる。すると私の奥から一定のリズムを刻む粘り気のある心音が響いた。

ドクンドクン。

そして少し震える右手を左手で包んでやさしく撫でながら目を瞑りあることを決意した。

翌朝にあの人と母さんがやってきた。

「よ!具合はどうや!?」

と、開口一番からやけに元気なあの人に対して私は

「具合はいいよ。それから父さん、私、生きようと思うねん。というか、生きたいねん。だから、私のドナーになってくれる?」

と、尋ねるように囁いた。その瞬間に自分の抜け殻を見たような気がした。空蝉の硬質な殻の内側は、がらんどうになっているような。羽化をして空を羽ばたきながら過去の自分を俯瞰しているような感覚だった。久しぶりにあの人を父さんと言えたことに恥ずかしさが混ざるけれど、これが今の私なんだと思う。すると父さんは

「なるに決まってるやん!なんやったらオレの血、全部あげてもいいくらいや。あはは!」

その言葉が身体に心に沁み渡ると、鼻の奥がじゅわっと痛んだ。そして私は何気なく

「血液全部は遠慮しとくわ。」

と、出来るだけ元気な声音で呟いた。すると父さんは

「オレ、ドナーになるから酒やめてん。その代わりに由美子の作るミックスジュースにするわ。あれ、昔から好きやねん。」

と、腰に手を当てて窓の外を見た。それから「もう、夏やなあ。」と、呟いて遠くを見る父さんの横顔はどこか嬉しげで少年のような気配が混じっている。すると先生と看護師さんが病室へ来たので、診察の前に治療をしたい旨を伝えた。

「私、コロコロと考えが変わるんです。ご迷惑をおかけします。」

私は頭をペコリと下げると、先生が

「コロコロ変わるんは生きてる証拠やで。」

と、にこりと笑いながら 

「じゃあ治療を開始しようか。」

と呟いた。私たちはそれぞれが

「よろしくお願いします。」

と、頭を下げると先生は明日、治療方針などの説明をしてから本格的な治療に入ることを教えてくれた。先生と看護師さんが病室を後にしてから母さんが窓を開けると、夏がこびりついている風が吹いて停滞していた空気をかき混ぜる。私はその瞬間に

「必ず生きてみせるから。」

と、言葉が湧いて出た。その決心の塊を受け取った母さんと父さんは力強く頷いて

「生きような。」

と、しっかりとした語気で呟いた。







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最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
この『ドライブインなみま』は、オムニバス形式の小説でストーリー展開していく予定です。
次回もお読みいただければ嬉しく思います。


北野赤いトマト🍅








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