見出し画像

ドライブインなみま|小説 サンドイッチ編


「私の名前は林 雨桐(リン・ユートン)と言います。」

と、茶色のテーブルにある自分が書いた履歴書を覗き込むように呟いたら

「私の名前は、なみま ゆみこと言います。」

と、ゆみこさんはテーブルの上へ人差し指を動かして自分の名前を漢字で書きながら挨拶してくれました。細い指から生まれる線と線が重なり合い漢字になります。ーー波間由美子さん、そう心でなぞりました。すると由美子さんは

「林 雨桐さん。まあ、きれいなお名前やね。雨の日に生まれたの?」

と、履歴書の氏名欄を指差しながら円やかな声音で呟きました。私はその言葉に驚いてしまい、空間にポッカリと妙な間ができてしまいました。けれど、何よりも軽やかな湧水のように嬉しさが溢れてきて

「はい!そうです!父がつけてくれました。」

と、私は早口で一生懸命に話をしました。すると由美子さんは、うんうん、と、頷きながら

「そうなんや。お父さまセンスがあるね。」

と、言うなりまた優しく微笑みました。私はあまりにも慎ましく穏やかな空間に身体の芯がじんわりと温かくなると眉間の奥がカーッと熱を持ち、次の瞬間には眼からポロポロと落涙しました。突然のことに私自身も驚きましたが、一番驚いたのは由美子さんでした。

「あら?どうしたの?」

そう言いながら近くにあったティッシュの箱から数枚取り出して手渡してくれました。私は

「ありがとう、ございます。」

と、言いながらティッシュを受け取り熱を含んだ涙を拭うと、由美子さんが手にしている私の履歴書へ視線を送りました。

「由美子さん、そこには私の人生のごく一部しか載っていません。長くなりますが、ーーそこに書いていること以外の話を聞いていただけますか?」

私は神妙に言い終わると、由美子さんは老眼鏡を外して

「うん、林さんのお話、聞きたいわ。」

と、言い終わると、うんうん、と頷きながら微笑みました。私は一度目を瞑り暗闇の中にある胸の底ーー、鳩尾辺りから迫るばらばらになった温い追憶を確かめます。そしてそれをサッと手に取り粘土を丸めるように融合させた後に目を開けて、由美子さんを真っ直ぐに捉えました。そして私は上下にくっついている唇をスーッと離します。

中国北東部に位置する、以前に満洲と呼ばれていた地域で私は生まれました。その日は太陽が顔を出しているのに、雨が降っていて空には山と山を繋ぐ壮大な虹の架け橋ができていたそうです。その光景があまりにも幻想的で美しかったために、父は私に雨桐という名前をつけました。父は大手日本企業の中国支部で研究員として働いていました。とても真面目な父は家に帰宅してからも日本語の勉強をして、たった一年で日常会話程度の日本語とひらがなやカタカナをマスターしました。今思えば、イントネーションがおかしかったかもしれませんが、母語とは違った柔らかい日本語を話す父が誇らしかったです。そして私は父から日本語を少しずつ教えて貰い、ふたりで会話をするときには日本語を話すようになりました。そうしているうちに、ポツリとひとり取り残された母も日本語を勉強するようになり、家族三人のときの会話は日本語を使いました。

そして、私が十四歳になったばかりの頃に父が

「お母さん、雨桐、来年から日本へ転勤になりましたよ!」

と、嬉しさに破顔しながら、興奮した口調で言いました。私と母は、「すごい!」とか「嬉しいです!」とか言いながら父の興奮に同調しました。そのとき私たち家族は希望に満ちていて、挑戦したいことばかりが無限に拡がり続けました。私は美味しい食べ物に目がないので、日本へ行ったらラーメンを、お寿司を、天ぷらを食べてみたいと思いました。それから一年間、文化や風土の勉強をして家族で日本へやってきました。まず来日して驚いたことは、日本の匂いです。中国の混沌とした匂いではなく、清々しい匂いがしました。その匂いを嗅ぎながら「私たちはここで暮らすのですね。」と、未知に対して遥かな希望で胸を躍らせていました。

そして、日本の空気に慣れてきた頃に私は公立中学校へ転校しました。不安と興奮が入り混じったような感情で先生と教室へ入ると、ざわざわしていた教室は一気に鎮まり、そこにある総ての視線が私へ注がれました。私は緊張で手足が硬直しそうになりながら、先生の横へ並びました。先生は私の名前を黒板へ書いて紹介してくれました。そして私も自己紹介をしました。

「林 雨桐と言います。みなさん、仲良くしてください。」

そう言うと、教室の後ろの方から低い声で

「〇〇〇。」

と、聞こえてきました。私はその意味が分からなかったのですが、皆がくすくすと笑ったり、「それは差別やから。」と窘める人がいたので、その瞬間にそれは私を馬鹿にしている言葉だということに気が付きました。私はなぜか腹が立つよりもまず恥ずかしく感じました。耐えがたい空気に屈して俯いたら、横にいる先生が

「静かにしなさい!林さん、前の空いている席へ移動してください。」

と、言うので私は席へ移動して鞄を机の横にかけました。するとすぐにチャイムが鳴り休み時間になりました。皆が席を立つ気配がしたので私はゆっくり後ろを振り返ると、女子のグループが私へ視線を向けていましたが、私の視線と交じる寸前に背を向けて教室の出入口へ向かいました。しかしグループのひとりが教室を出る瞬間に振り返り私を見ました。一瞬でした。彼女の視線は尖端が尖っていて私の柔らかい心を刺しました。それはまるで不潔な異物を見るような蔑んだ視線でした。その瞬間に肌の色や目の色や髪の色も全く同じなのに、ーー私が中国人であるという一点だけが教室にいる人たちとの間を隔絶したような気がしました。そのときの心境は、孤独という言葉が一番近いような気がします。その日から私は学校ではいつもひとりでした。休み時間を机に突っ伏してやり過ごし、授業も何一つ分からなくて、ただ着席しているだけでした。そのうちに私は学校へ行かなくなり、部屋へ引きこもるようになりました。父と母はとても心配していましたが、自分でもどうすることも出来ずに、ただ眠っては母が作る食事を摂り、また眠るという怠惰な生活をしていました。将来は希望で輝いているものだと思い込んでいましたが、まさか自分のアイデンティティで躓くなんて思いもしませんでした。それから私は中学校の卒業式も参加しませんでしたし、高校にも進学せずに三年間引きこもりました。その間のことはーー、言葉にすることができないくらいに辛いものがありました。今でも思い出したくないくらいです。

辛く塞ぎ込んだある日、トイレへ行こうとドアを開けるとお盆の上へ透明なタッパーに入ったサンドイッチが置いてありました。トイレから部屋へ戻り机の上で輪ゴムを外すと勢いよく蓋がペロンと開きました。美しく整列したサンドイッチをひとつ手に取り口へ運びました。ふわふわのパンに優しく絡み合うとろとろのたまごと塩気の効いたきゅうり、そこへマスタードの風味が混ざり抜群に美味しかったのです。私は夢中で食べたあとに、急いで階下へ向かい母に訊きました。

「このサンドイッチはどこのですか?」

そう言う私の血相に最初は驚いていた母でしたが

「これは、ドライブインなみまで買いました。雨桐はサンドイッチ好きでしょう?」

と、言い終わると優しく微笑みました。ーー私は久しぶりに母とまともな会話をしたことに気がつきました。まず恥ずかしさが身体の中へ渦巻きましたが母の笑顔を見えれたことに嬉しさを感じました。

「今から行きますか?」

母は微笑み、右手でお腹を摩りながら「まだ食べられますか?」と小声で言いました。その言葉に私は

「ーー行きたいです。」

と、口にしていました。それからすぐに服を着替えてから車へ乗り込みました。外へ出るなんて久しぶりで、そのことに対しての躊躇がなかったのは、こんなに美味しいサンドイッチを作る店へ行ってみたくなったからです。そのとき、自分の心の赴くままに行動できることが単純に嬉しく思いました。車窓から見る日の光は黄色く見えました。私は車窓を少し開けると秋風の匂いがしました。黄色く色付く銀杏並木を通り抜けると海岸が見えてきました。母の運転でドライブインなみまに到着する頃には日が西へ傾いていました。母と私は車を下りると、大きな椰子の木が潮風に揺れてざわざわしていました。久しぶりに感じる潮風は、来日した頃に感じた清々しい匂いがしました。店の入口にある、ショーケースを見てから店内へ入ると、カップルらしき人が二組いて、奥の厨房から強面の男性が出てきて「いらっしゃいませー!」と言ったので私は思わず母の後ろへ身を隠すような動きをしてしまいました。店内は机も椅子も本棚も茶色で統一されていて、昔のアメリカ映画に出てくるような雰囲気でした。母と私は着席すると、私よりも年下のかわいい店員さんがやってきて、水の入ったグラスとおしぼりを私たちの前へ置きました。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

と、明るい声音で言うので、母もそれにつられて

「ミックスジュースふたつとサンドイッチひとつお願いします。」

と、明るくはっきりと言うと、店員さんは注文を伝票へ書きながら復唱して「少々お待ち下さい。」と、厨房へ姿を消し、少し経った後にミックスジュースとサンドイッチがやってきました。まずはミックスジュースを飲みました。冷たさと果実の甘みが口いっぱいに広がり私の食欲を刺激します。その勢いのままサンドイッチを掴み口へ運びました。さっきと同じ風味のはずなのに数倍美味しく感じるのはこの店の雰囲気がそうさせているのかもしれません。母もサンドイッチをひとつ手に取り口へ運びました。ふたりで「すごく美味しいね。」と言っていたら、先程のかわいい店員さんが伝票を持ってきました。母は何気なく

「若いのに偉いですね。」

と、言うと、店員さんは

「ありがとうございます!私、ここの娘なんです。今日もめっちゃ忙しかったんですけれど、この仕事、やりがいがあって、好きなんですよ。なんか、生きてるわーって感じがするんです。」

と、言った後に「うふふ。」と笑いました。私は何気ないその言葉に胸の奥がギュッとなると同時に、自分に大きな枷を付けて身動き取れなくなっていたことに気が付いたのです。弱くて情けないありのままの自分を受け入れ、そして、生きても、ーーこんな私でも生きても良いのかもしれないと思えました。その瞬間ふわりと網戸の細い網目から秋風がふわりと私の長い髪の毛を揺らしました。それが優しく私の肌を撫でて通り過ぎます。そのときに大袈裟かもしれませんが、この異国の土地の、文化が、歴史が、私に「生きても良いんですよ。」と、語りかけているように感じました。店員さんはそのあと「ごゆっくり。」と厨房へ戻りました。それから私は母にポツリポツリと学校であったこと、ひとりで考えていたこと、自分のありのままを曝け出しました。すると母は、私の目を見ながら

「ーー雨桐のきもちが分かりました。伝えてくれてありがとう。」

と、言うなり俯いて目元を拭いました。私は近くにあったティッシュを母に手渡して、恥ずかしさから咳払いをしてミックスジュースを飲むと

「これからはひとりで抱えないで、お父さんと私に伝えてください。辛いことも三分の一にしましょう。」

と、母は震える声でそう言いました。私はーーうん、と頷いた後に

「辛いことも三分の一だし、幸せも三分の一に分け合えるといいですね。」

と、呟きました。母は目頭をティッシュで拭うと、

「そうですね。そうなるように生きていきましょう。」

と、頷きました。それから食事を終えて伝票を持った母の後ろで店内を眺めていたら、


店員募集!一緒に働きませんか?


と、いうチラシを見つけたのです。運命だと思いました。そして私はここで働きたいと思いましたーー

すると、急に由美子さんは「うっ。」と喉が鳴ると、次から次に涙が零れました。

「話の途中に、ごめんね。」

そう言ってからテーブルにあるティッシュを手に取り目元を拭いました。

「ーー辛いことも、幸せも分け合えるっていいなあと、思って。それから林さんはもちろん、生きてもいいんやで。」

と、由美子さんは震える声で呟き、履歴書へ目を落とした後ゆっくりと私の目を見据えました。

「よくここへ来てくれました。ありがとう。私たちと一緒に働きましょう。一緒に働いて一緒にご飯を食べて、生きていきましょう。」

由美子さんはそう言った後に、手を胸に当てながら、うんうん、と頷きました。私は

「はい!こんな私ですが、よろしくお願いします!」

と、しっかりと言いました。そのあと由美子さんと話をして、さっそく明日から働くことになりました。そしていつの間にか強面のあの男性が近くにやってきました。すると、由美子さんが

「たーやん、彼女は林 雨桐さんと言います。明日から一緒に働きますので、いろいろと教えてあげてね。」

と、言うと、たーやんさんは左手で頸辺りををポリポリと掻きながら

「たかなし あきらと言います。よろしく。」

と、穏やかな声音で自己紹介してくれたので、私も「林 雨桐です。よろしくお願いします。」と頭を下げました。たーやんさんはにこりと歯を見せて笑うと、また頸辺りをポリポリと掻いていました。三人で少し世間話をした後に、店から外へ出ました。

「林さん、じゃあ、明日からよろしくね。」

由美子さんはエプロンの結び目へ手をかけながらそう呟きました。私もきちんと挨拶をすると、たーやんさんが「また明日。」と手を振るので、私も「また明日。」と手を振りました。

私の身体は今、未来の前触れを感じています。そのピンと張り詰めた緊張を丁寧に掬い取りながら、一陽来復の兆しを感じ取ると秋風が通り抜けました。私は明日という日が待ち遠しくて、ドキドキとした気持ちで自転車のペダルを踏んで前進しました。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?