エビの美食談

「食に対して、世の中の舌が貧しくなった」
 会食の中で一番年上である者の口から出てきた言葉だった。
「珍味や奇食を尊べとは言わないが、最低限の素材の味が感じられるようでないともてなされる側としては失格、と思うのだがどうだろう?」
 もっともだと感じたがその斜向かいに座っている若いのは意見が違うようだった。
「素材の味と言うと、まるで新鮮さの話みたいになるが、それだと乾かしたりふやかしたりという単純な細工はどうですか?」
 目を見張り、若い方をみる年長者。なにを考えているのかわからないが、なにやら少しの思索をしているようだった。
「確かに、ドライフードといえど、昔に比べて風味が残り、手触りや噛み心地は違うが飲み込んだ後の印象は違和感がなくなった。君の言うことは確かにそうだな」
 大人としての余裕を見せようとしたのだろう。肯定を二回繰り返したところに、余裕を演出しようとしている姿勢が見えた。

 水槽の中にはこの席を囲んでいる三匹以外に、いくらかのエビがいる。
 ここにくる前の水槽では、魚がいて申し訳程度の水草があり、魚が食べ残した食べ物や、水草の表面に集まる小さな生き物、水槽の壁と言わず砂利と言わずあちらこちらに萌芽するコケを新鮮なうちに食べていた。
 ある日のこと、いつもは水たまりのように静かに泡がたてるささやかな流れ以外に動くことのない水槽の水が激しく動き、砂利の奥に沈んでいた澱(おり)は舞い上がり、透き通り端から端まで見えていたのが砂利のような重い色で濁り、なにか大きな生き物が水の上からこちらを狙うようにして出たり入ったりするのが感じられる。逃げられるところはいくらもないが、水草の影や流木の入り組んだ影に逃げ込み、じっとしていればやり過ごせると思っていた。
 すっかりと砂利の間に積もっていた塵(ちり)や芥(あくた)が舞い上がりなにも見えない。
 いくら触覚を振り回しても濁った匂いだけで、なにが起きているのか判然とせず、ただただ流木に掴(つか)まっているだけだった。
 仲間のエビも同じようにしているが、突然のことで驚いて逃げようと泳ぎ回っていたのは何かに捕まったらしい。一生懸命逃げようと腹を動かし、背を丸めたりと激しく動くときに殻同士がぶつかる音があちこちから聞こえてくる。
 何か大きな者にねらわれているのはわかっているが、それが何かわからない。そこに仲間が捕まっていく音も聞こえる。流木の影ならば逃れられると考えていた。
 しかし、その目算は甘く、流木が大きく揺れたかと思うと全身がふわりと持ち上がるような感じがあった。このまましがみついていても危ないと考え、離れようと泳ぎ始めたが遅かった。
 いままで見たことのない、水草の根っこが編み込まれたような物で行く手を阻まれ、水の上に持ち上げられる。
 水の外に出ると体を動かす勝手が変わる。いくら尻尾を広げ泳ごうとしても文字通り空を切るばかりで体は少しも動かない。水が体を周りの物にくっつけてしましまい動けなくなる。流木に押さえつけられている。跳ねようが体の向きを変えようとしても無駄なことで動きがとれない。息はできる。水がなければ息はできないのだが、水があることで動きを封じられ、そして体に絡まり離れられなかった。
 上へ下へと動かされ、水が変わる。匂いが違う。けれども、持ち上げられたときの水槽に比べれば、この水は澄んでいていささか気持ちがよい。
 すべてが目新しく、新しい水槽の中を泳ぎ回っているとき、年上のエビに出会ったのだった。

 見渡しても泳ぎ回っても、水草と砂利、それに泡が出るものしか見えない。ぐるぐると泳いで、いけるところはすべて言ったつもりだが、なにがあるというわけでもなく、水槽と砂利、それにエビの仲間がいくらかいるぐらいだった。
 前にいたところと同じように、泳いでは水草についているコケを食べ、砂利についているヌルリとした膜を食べ、時折転がっている水草の落ち葉を食べとしていた。
 声をかけられたのはたまたまのことで、それがきっかけで円卓に並ぶことになったのだった。

「探索はどうだ? 一息ついたらこっちで一緒に食事でもどうだい? 堅苦しい事はないから」と、声をかけられ、少しだけ高くなっている睡蓮が生えている丘の上にある、少し土のような色をした石が食卓になっている。食べ物がそこをめがけて落ちてくるのもあり、エビたちにとって食事の場所となっていたのだった。
「今日は乾いた小魚だな、水を十分に吸ってから食べてもおいしいが、この堅いのを摘まんで食べるのもすばらしい」ほかのエビが食事に群がる中、石の端にたたずみ、自分の文にと取り分けた破片に手を伸ばして丁寧につまみ上げながらつぶやいていた。
「この乾燥具合が香りをたたせているのかも」とは、別のエビだ。同じように自分の文を摘まみながら丁寧に吟味するように、そうかと思うと観察するかのようにひっくり返したりして食べ進めていくのだった。
 エビはほとんど何でも食べる。ほかの動物が食べられる物だったらなんでも食べられるのではないかと言うぐらいに好き嫌いはない。食べるのは早くはなく、つまつまと食べ物を前足でつまんでは口に運ぶ。
「浅ましい」とは年長のエビの言葉だ。なんでもかんでも手を出して平らげようとする。その姿勢を指して、ニガイ顔をしているのだった。
 エビの食性としては食べ物に群がり、手をつけられるところから食べていく。視覚と触覚、それに水槽内の巡回で食べ物を見つけ、片っ端から食べていくのであった。
 年長のエビが言うには、食べるというのは腹を満たすという実用から、触覚や鰓(えら)を抜けていく香り、かみ砕くときの感触など、体中を使い楽しまなければならないのだという。食べるのを生きるための単純作業ではなく、生きるためのための楽しみにならなければならないと言う。
 食べるのを楽しむのは、全体を賞味しつつ、その要素を一つずつ感じ取り、その配分も改めて鑑賞するのだという。また、見つけた物を片っ端から食していくのではなく、食べ物の山の中から自分がここぞという破片を手に入れられたら、それを徹底して味わう、というのだった。水槽の中にいるということは、敵の存在もなく、ただただ食べるためにいるようなものだ。それであれば、食べ物を前にした衝動を制御し、理性の元で手を伸ばせという物だった。
 食べるのは本能だ。触覚を動かし、手を伸ばし、確保した物を口に運ぶ。その本能を押さえつけ、理知的に動くことで本当に食べると言うことを楽しめるようになるのだと言う。
 時には水草の裏にへばりつき、時には流木の影でコケを食べ、底に落ちてきたもので食べられるものはすべて平らげていく。そうやって生きてきたのだが、食べることをもっと謳歌しようと言うのだった。
 謳歌すると言われてもどうしていいものかわからなかったが、そんなに難しいことは言わず、食べ物を一口運んでいく度に、その味、匂い、触感を楽しみ、食べた物への理解を少しでも深めていくのだとも言う。
 はじめはなにを言っているのかわからなかった。
 要は、食べるのを腹を満たす行為から、楽しみとしての活動にしなければならないという。なにやらややこしいことを言っているが、食べるのは好きだからつきあってみることにした。
試してみると確かに違った。
 今降ってきた乾いた魚にしても、腹のところと尾のところでは全く噛み心地が違う、柔らかいところでも背のところと胸のところでは、触覚の先で感じる匂いや味もまったく違うのだった。
 違いがわかってしまうと今までのように何でも口に運ぶというのができなくなる。
 一口の違いを知ってしまったあとでは、知る前に戻れないのだった。
 そのことを年長のエビに伝えると「それを深めるために本能を制御できないといけない」と言う。

 今日の食事は、なにやら押しつぶされ枯れ葉の破片みたい形の食事だった。
 その色や形はいくらかあり、コケのような色をしたもの、肉のような色をしたもの、色が違うと味が違うというのに気がついた。それも、どれがよい悪いではなく、好きか嫌いか口に合うかあわないかの違いだ。
 肉色をした破片を手にし、石の縁で静かに食べる。いつの間にやらいつもの三匹が顔をそろえ食べるようになる。年かさのエビはコケと同じ色のフレークを手にし、三匹の中でいくらか若いのは両方の破片を手にし、食べ比べるようにしていた。
 手にしたのを食べ終わり、触覚についた細かいかすを前足で綺麗にしながら、食べた物の話をする。
「どの食べ物も食べ始めと食べ終わりでは水の吸い方が違うのか、口にした瞬間の心地が違う」
「大きな固まりだと、周りと中心とで味が違うし、なにより中心部の香りは食指をそそられる」
などと、好き好きなことをいいあっていたのだった。
 自分たちで選んで食べられる物は限られている。そのなかで食事を楽しめるものと、もしくは、降ってきた食べ物に舌包みを打ちながら、食べてはその食べ物の乾燥をい言うというのを繰り返していた。
 脱皮した殻がある。
 エビは体が大きくなるのにあわせ、殻を脱ぎ大きくなっていく。
 脱ぎ捨てられた殻はほかのエビが平らげ、あたもなく消えていく。
 殻を脱いだ当人からしてみれば、脱ぎ捨てた瞬間は自分の目の前に自分と同じぐらいの大きさの殻が目の前に転がる。脱ぐというのは体の方で勝手に準備を進み、その日が近づくと食欲は落ち視界も若干濁る。
 脱皮は、意気込んでこれからしようと力むのではなく、なにか体がだぶつくというか、体と殻の間に水や砂粒が入り込んで気になり始め、そうして少しすると、背中を思いっきり丸めて、殻の背中が開くと、そこから体を引きずり出して終わる。始めはなにやら体がはがされるように痛むのではないかと考えていたが、なんどもやっていくうちになにも特別なことはなくなり、月の満ち欠けがなにもしないでも起きているように殻が小さくなり、それを破り、体を大きくしていく、というだけになった。
 食事を通して、理知的に食事をするようになった。
 ただ、それは本能が静まっているときだけで、本能を押さえ込んでの食事はできていない。
 本能とは、無意識の体の反射でもあるが、忌避を無意識が読みとり避けていたり、危険に対して経験知なのかそれとも無意識のうちに学び取ったことなのか、体が勝手に避け、頭はそのことに対して考えるのをやめ、逃避反応をするもの、だと思っている。
 理知的に食べるための入り口として、本能を押さえつけ、本能に対して理性で行動ができるようになること、これがすべてだと考えた。
 詰まるところ、目の前に転がっている自分の抜け殻に対して、手を着けることができるかどうかが、理知的な食事ができるかどうかの分かれ道であり、なおかつ、これは試練でも何でもなく、無意識の忌避を自分で制御できるかというだけの話なのだった。
 主が抜けた後の殻がゆっくりとした水の揺れにあわせて、右に左にと力なく揺れている。はじめのうちは透明で、光が当たったりすると淡い乳白色の先に風景が透けて見えたりする。そこからしばらく放っておくと徐々に紅葉が色づいてくのかのように殻の縁に変化が見え始め、さらに置いておくと、殻全体がやんわりとした朱の色がついていく。
 よそのエビが脱いだ殻であれば、その匂いを感じると寄っていき、食べ始めるのだが、自分のとなると、目の前に転がっていてもそうは思わず、はやくここから立ち去りたいと考えている。
 本能は逃げたいと言っているが、手を伸ばす。
 脱皮したばかりで、目の前になにが並んでいても食べたくない。普段は食欲がすべてを支配しているのが、普段脱皮した後はすぐにその場から離れ泳いで物陰に隠れる。
 食に対して理性で対応しようと思うと、ここで無意識が体を制御しようとしている本能を押さえつけ、その上で食べるという行為を理路として構築し直さないといけない。そのためには、脱皮した自分の殻に手をのばすのが最短の解決策だ。
 いまは、食べたくないと言う食べる欲求のなさ、それに自分の殻から早く離れたいという本能、その二つを自分の手下にするために、特段おいしいわけでもない殻に手を出す。
 体の奥底から沸いてくる強い拒絶が前足の動きを鈍らせる。触覚にしても目を動かすのと同じように自在に動かせるはずの体がまるで言うことを聞かず、水がほとんど止まっていて何の抵抗もないはずなのに、まるで殻の方から強い水の流れがあって触覚がそれに持って行かれているかのようにそちらの方に向くことを拒否している。
 理知的な行動とはまったく別の、体の動きに命令を出しているなにかがすべて拒否している。
 とにかく、手を出す。
 指先が自分の殻をつかむ。脱皮するときにはなにもせずにできていたものが、手を伸ばし摘まむというだけでも強い意志が必要になる。ただ、つかんで持ち上げるだけなのに関わらず、一大決心に似た強い意志がないと手にできなかった。
 殻をちぎる。
 ちぎっているのではない、いままで殻の内側であるの体と殻の間に付いていた、なにやら薄い皮膜を少し持ち上げ、ちぎり、口に運ぼうとする。。
 強く体に命じないと腕が動かない。腕の一挙一動、腕を伸ばし手を広げる、広げた指先で殻を摘まみ、自分がさっき脱いだ殻を持ち上げ、その内側にある膜を摘まみ、それを口に運ぶだけだ。
 その口に運ぶだけがもたつく。強い意志と強い命令を指先に伝え、指先を動かす。摘んでいる指先に力を入れている感覚がない。なにか、他人の体を動かしているような感覚になっているのだった。腕にしてもそうだ。口元まで手を動かすのに体が勝手に拒否している。
 腕が手元に来ようとしない、それ以上に、口ですら開こうとしない。他人の体に食べ物をねじ込むよりも敷居が高く感じ、食べるという行為が自分の体から遠く離れていったようなそんな気持ちだった。
 これが、理知手的に食事をすると言うことなのか、と頭の片隅で考える。
 やっと運んだ小さな固まりを自分の口に押し込む。
 咀嚼しのどの奥に流し込む。その流れのすべて、どんなに小さな固まりですら喉(のど)の奥を流れているのがわかる。
 手にした物を、すべて口の運び、そして飲み込んだ。
 これが、理知的な食事なのかどうかわからない。
 ただ、一つ判ったことは、これが乗り越えるべき壁かはわからないが、乗り越えた先で大きく風景が変わるというわけではなく、ただ、一つの体験が増えたぐらいなのであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?