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怖い水

 海の果てから彼はやって来た。救命筏は早急に引き上げられ、彼は医務室に運ばれた。衰弱していたため水を与えると何度か吐き戻したが、やがて元気を取り戻した。彼の名はゴードンといった。

 ゴードンは南極の掘削基地で働いていた。掘削基地で凄惨な事故が発生したことはニュースで知れ渡っていた。彼は事故があった掘削基地の生き残りだった。彼が言うには、掘削機が温泉を掘り当てた直後、突然人々が爆死し始めたのだという。

「爆死って、人間が突然爆発することなんてあるのかしら」

 アリスはゲン爺からゴードンの話を聞いて言った。

「掘削基地には調査隊が入ってるが、爆発物のような物は何も見つかっていないって話じゃ。気味の悪い事件じゃな」

 ゲン爺はグラスの『グレンモーレンジィ・ネクタードール12年』を飲み干した。力強いフルーティな香りとエレガントな甘味が口いっぱいに広がった。

 ここは海を自在に移動するゴミ処理島のドリームシティ。アンドロイドのアリスが営む小さなバーだ。開店の口利きをしたゲン爺は好きなだけ飲める約束になっている。

 二人が事件について話をしていると、ふらふらとバーに入って来る影があった。やつれたゴードンだった。手が震えている。

「何でもいい。酒をくれ」

 そしてゲン爺が『グレンモーレンジィ』を飲んでいるのを見つけると、同じものをくれと頼んだ。

「グラスに目一杯だ」

「あなた、まだ寝ていた方がいいんじゃないかしら」

「これが飲まずにいられるか。目の前で友人たちが次々に爆発したんだぞ」

 ゴードンはウィスキーを煽りながら、掘削現場の凄惨な状況を吐き出すように語った。何の予兆もなく突然弾け飛ぶ頭。壁といわず床といわず、どこもかしこも血と肉が張り付き地獄のようだったという。

「何であなただけ助かったのかしら?」

「分からない……」

 ゴードンはウィスキーを飲み干すとやがて酔い潰れて寝てしまった。

 ゴードンがやって来てすぐに、ドリームシティでも事件が起こった。解体工場の工員が爆死したのだ。仕事上がりにシャワーを浴びていた時、突然頭が爆発した。シャワー室は真っ赤に染まっていた。

 ドリームシティの顔訳が集まった。雰囲気は重苦しかった。原因も分からないし対策もわからない。とにかくゴードンを隔離しようということだけが決まった。

 すぐに二人目の犠牲者が出た。その工員もまたシャワー室で爆死した。ゴードンの話によれば水場で爆死した人数が圧倒的に多かったそうだ。そうはいってもドリームシティは海の上の人工島だ。周りは全て水である。人々に動揺が走った。そもそもドリームシティはごろつきの寄せ集めにすぎない。シティといったところで行政があるわけでもない。このまま事件が続けば崩壊するのは目に見えていた。

 顔訳の一人であるゲン爺はため息を吐いた。

「どうすればいいんじゃ」

「とにかく原因を突き止めなければ手の打ちようがないわ。ゴードンはあれから何か言っていた?」

「いや、何も。毎日ウィスキーを飲んで酔い潰れとるわい」

 それからというもの、ドリームシティは不穏な日々が続いた。人々は水場に近寄らずシャワーも浴びない。外部から仕入れた封のされた水しか口にせず、やむを得ず蛇口の水を使う時には必ず沸騰させた。そして人々は少しずつ殺気だっていった。

 その日バーカウンターの一番端でウィスキーを飲んでいた工員は目にあざを作っていた。彼が水にあまり気を使わないので仲間に殴られたのだそうだ。

「俺たちは人間なんだ。水なしじゃあ生きていけない。それをよってたかって水を使うことが悪みたいに言いやがって」

 工員はウィスキーを一口飲むと、持参のボトルに入れた水をチェイサー代わりに口に含んだ。みんなそうやってボトルを持ち歩いている。そしてボトルの値段は日に日に上がっていた。

「今やこいつはレアメタルと同じ値段だ。これじゃあ何のために働いているのか分からない。だから俺はもうやめたんだ。このボトルの中身は本当は水道水さ」

 そういって工員はボトルの水を勢いよく飲み干し咽せた。

「大丈夫?」

 咳は止まらなかった。それどころか工員は口を押さえながらスツールからずり落ち。咽せたにしては様子がおかしかった。

「どうしたんじゃ」

 背中をさすってやろうと近づいたゲン爺を工員は押しのけて転がるように店を飛び出した。

 ゲン爺も慌てて追いかける。工員の顔が真っ赤になっているのを見逃さなかった。そして工員はゲン爺の目の前で頭を爆発させた。血飛沫がゲン爺を赤く染めた。

「なんということじゃ」

 二人が飛び出した後の店内では驚くべきことが起きていた。工員が落としたボトルから流れ出た水が、工員を追いかけるように出口に向かって流れた。その様を見たアリスは流れる水を追った。細い筋になった水は呆然と立ち尽くすゲン爺を迂回して倒れた工員にたどり着くと、首から溢れ出る血に混じり渦を巻いた。そうしてすっかり赤く染まると、そのまま排水溝口に流れ込んでいった。

 アリスはしばらく赤く染まった水が流れ込んだ排水溝口を見つめていた。アリスの、エネルギー場を読み取ることができる右目が、しっかりとひとつの形を読み取っていた。

 それからアリスはカウンター内側にあるシンクに水を流し続けた。バーにやって来た客は皆、水が流れる音に恐れをなして誰も入ってこようとはしなかった。唯一ゲン爺だけが入口から様子を伺っていた。

「何をしておるのじゃ」

「やつはきっと来るわ」

「やつって誰のことじゃ」

「水よ。いいえ、水に見える何か。無色透明で形がないけど生命を持っている。液体生物とでもいうのかしら。そいつが爆死事件の犯人よ。きっと南極の地下に眠っていたのを、採掘で起こしてしまったのでしょう」

「未知の生命体じゃと。信じられん。それで水を流してどうしようというんじゃ」

「似ていたのよ、私と」

「何が?」

「エネルギー場がそっくりだったの。あるのは目的だけ。だからきっとここへやってくる。類は友を呼ぶって言うでしょ」

「誘き寄せるのはいいが、それからどうする気じゃ」

「まあ、見ていて」

 水を流し続けた。蛇口から流れ出た水はシンクにぶつかると飛沫をあげながらやがて排水溝に落ちていく。そんなことが半日も続いた。アリスは黙って流れを見ていた。その流れが一瞬細くなった。

 来る。

 アリスは咄嗟に傍に準備した物を掴んだ。半分ほど減った『グレンモーレンジィ・ネクタードール12年』のボトルだった。タイミングを見計らって蛇口の下に差し出した。わずかに粘り気のある液体が蛇口から流れ出すと、そのままボトルに流れ込んだ。すかさずキャップを閉める。ボトルの中で何か透明なものが暴れまわっているのがわかった。

 閉じ込めたと思ったのも束の間。身体中に電気が走ったような感じがあり、視界がノイズだらけになった。何が起きたのかすぐにわかった。アリスはアンドロイドであるが、電子頭脳のコアは液体窒素の入ったカプセルに入れられている。そのコアを冷やす液体窒素が急速に温度を上げていた。どうやらウィスキーボトルに閉じ込められた液体生物は手近にある液体を共振で沸騰させる能力があるらしい。人々が爆死したのは、血液を瞬間的に沸騰させ頭部の内圧を異常なまでに高めた結果だ。このままでは、アリスもまた液体窒素が沸騰して爆発してしまう。

 だがそうはならなかった。ノイズが少しずつ減っていった。液体生物はもう暴れていなかった。ゴードンが助かったことからわかった。液体生物はアルコールが嫌いなのだ。だから普段酔っ払っているゴードンには近寄らなかった。脱出のためにアルコールを飲まなくなった時を見計らって体内に忍び込み、新しい餌がある場所まで運ばせたのだ。

 『グレンモーレンジィ』のボトルは完全に静かになっていた。

「何が起こったんじゃ」

 ゲン爺が顔だけ覗かせていた。

「酔い潰れたみたい」

 液体生物はボトルの中で完全に沈黙していた。

「死んだのか?」

「わからないわ。もうエネルギー場は見えなくなったけど、それが死んだせいなのか、眠っているのか判断がつかないわ。このボトルは永遠に封印した方がいいかもね」

 ゲン爺は棚の隅に置かれた『グレンモーレンジィ・ネクタードール12年』のボトルを少しだけ物欲しそうな目で見ていた。

「ウィスキーっていうのは、加水した水の性質で驚くほど美味しくなるもんなんじゃよ」

「爆死したいのなら」

 アリスがボトルを目の前に置いてやると、ゲン爺は勢いよく首を横に振った。

          終

おまけのティスティングノート

『グレンモーレンジィ・ネクタードール12年』はスコットランドのハイランド地方で生産されるシングルモルト・ウィスキーです。シングルモルトは癖があるものが多いですが、この『グレンモーレンジィ』は非常にまろやかで飲みやすいことで知られています。その味わいはスコットランド一背の高いポットスチル蒸留気を使っているからとも言われています。背の高い蒸留気は軽いアルコール蒸気だけを取り出せるのだそうです。メーカーサイトにはキリンと並ぶポットスチルの写真が貼られていてなかなか楽しいです。

 そして『グレンモーレイジィ』は硬水を仕込み水に使うことでも知られています。硬水というと飲みにくいとも言われますが、ウィスキーの仕込みではまろやかになるのが面白いところです。その味わいを硬水のミネラルが左右するのであれば、もっといろいろなものが含まれる生命体が加水されたウィスキーはどんな味になるのでしょうね。爆死しでも飲みたいほど美味しいかもしれませんよ。 

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