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いつか当たり前じゃなくなる緑茶とおまんじゅう


訳あって実家にいます。
いかにも訳あり風に書き出しましたけれども、ただ単にひとりで生活していくお金の余裕がないだけです。29歳にもなってね、アラサーなのにね、不甲斐ないもんです、はい。

常々お金が欲しいと思っています。

それはなんでかって言うと、一人暮らしをして自立したいなあとか、周りで結婚や不幸があった時なんかにすぐに持ち出せるようにしておくのが大人だよなあ、とか、そういう世間体めいた理由も確かにあるんですけれども。

応援したいです。ひたすらに、誰かを

いつも休みの日は決まって自室に閉じこもって作業してるんですけど、
ここぞ!!!っていうタイミングでうちのおばあちゃんが緑茶とおまんじゅうを持ってきてくれるんですよ。

持ってきてくれるのはありがたいんだけど、集中してノってきてる瞬間を邪魔されると正直言ってリズムが崩れるじゃないですか。

でもね、うちのおばあちゃんにはそれがないの。

本当に、今しかなかったねっていうタイミングでノックが『コンコン』って鳴るんですよ。もうね、びっくりしますよ。

そして、私はいつもそれを合図に少しだけ休憩をする。
とてもありがたいと思うし、お茶とおまんじゅうの味は良い意味でいつも同じで、それがまたホッと一息つかせてくれます。

それと同時に、こうやって持ってきてくれるっていう状態がこの先何年もずっと続くわけではない、当たり前に思ってしまっているけども違うんだよなあ、ということにも気づく。

うちのおばあちゃんは80歳です。

元気ですけれども、寿命を考えてもあとこの先何十年も生きられるわけではない。病気の影もみえない健康体ですけれども、いつ何が起きるかわかりません。

パソコンでカタカタ作業をしている私を見て、大変なことだね、大丈夫かね、すこし休みなさいよと声をかけながら置いていく緑茶とおまんじゅう。

この気遣いと応援がいつか受け取れなくなってしまう日がくるのだと思うと、当たり前に思っていてはいけないのだとギュッと我が身を戒められます

今日も、緑茶とおまんじゅうが美味しいです。

こういう応援を、私も、心から『応援したい』と思える誰かに惜しみなく永遠に送れる人でありたい。そのためには、自分の生活を賄える分+αを稼ぎだせる力と信頼が必要です。

それを培っていかなければならないと思う日々です。

ああ、美味しい。



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