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「たまには電話してください」


一人暮らしをしていた大学生のころ、なんの記念日でもないのにふと現金書留がとどくことがあった。母親からだ。

母親は、むかしから手紙やメールの文面が敬語になってしまうのがくせだ。成人してから受け取るそれらの類はもれなくすべてかしこまった敬語で、ひとはなぜ一筆認めるとなると途端にですます調になってしまうのか、不思議におもっていたものだ。

ある日、届いた現金書留のなかについでのように添えられていた手紙にも、ひとこと、「たまには電話してください」と書いてあった。

電話してください、といわれないと電話をしない程度には不孝者だったということだ。

文面を撫でながら自宅へコールする。
話すことは他愛もないこと。

お互いが元気であることを確認するこの作業は、全親子共通のものなんだろうかとおもいながら、正月ははやく帰ろうと決意をかためる。

一人暮らしをしていたころ、なるべく一人でいるようにしていた。一人でいることに慣れようとしていた。一人でいることが当たり前なのだと思うようにしていた。

たまに母親が地元から遊びにきた日。友人が泊まりにきて帰っていった朝。人と一緒に過ごし急に一人にされたあとは混ざり気のないさみしさに襲われるのが常で、だからこそ、一人である感覚を忘れないようにしていた。

そんな折に「たまには電話してください」のようなメッセージを受けとるとフラッシュバックのごとく後戻りで、せっかく元のところにおさめていた何かが堤防を越えて流れてしまう。

雨が降っていた。
雪が降っていた。
そんなときに限って、良い天気だったことはない。

あえて実家を離れて東京に出てきたいま、三十路になってからの上京はなかなかにエキゾチックで、それらは、またもや一人でいることに慣れるための旅でもあったはずだけれど、選んだのはシェアハウスだ。

常に人がいる。

いつ「たまには電話してください」と書かれてもいいように、「元気ですか」というLINEに元気だよと返答できるように、あえて、さみしさの発生源をつぶした。

ふとリビングで一人になっても今ならもう大丈夫だとわたしは思う。


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