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学者はなぜ神を信じるのか的な話を聞いての解答

どうやらそんな本があるらしいです。それを紹介している記事をみて、肝心の答えの部分がなかったので、自分で整理してみようと思います。神とは縁遠い科学の道を歩むものがどうして、非科学的な神を信じて信仰するのか。そんな問への答えです。





そもそも神とは

最高絶対善にして、理想状態のこと、またその体現者やその教えや法則のこと。

自己定義

というわけで、神とは絶対に間違えない、失敗しない、その示す方向に進めば成功する。言ったことやったことは全部正しい。そういう+の究極形態だと思います。





なぜ神を信仰するのか

神=絶対+なのて、神に向かって進むこと、神の示す方向に進むことは、絶対+になるわけてす。だから、神を信じて、信仰してそこに近づこうとするわけです。絶対+が増えることは良い事ですから。また、神が示したからだと指示に従えば、神に責任判断を丸投げできます。かりに自分が失敗したら神の指示が悪かったと、神が間違えたのだと責任転嫁もできます。

つまり、神を信仰した方が、その人にとってはプラスは増える気がするし、マイナスが生じてもそのマイナスを誤魔化せるし、実に都合が良いから神を信仰するわけです。






なぜ神を信じるのか、信じないのか

神を信仰するしない以前に、神の存在を認めた(信じた)かどうかがあります。そもそも神なんていない。そんな絶対に+な存在なんで、いるわけないと神を信じない人も当然います。信じる人もいます。

この辺は、人間が持つ知性(将来を予測する力)と密接な関係があります。将来を予測する力(知性)とは、つまり、因果関係や物事の関連性を見つけ出す能力と言い換えられます。丸々だから、次はこうなる。きっとこういうことだろう。これが知性の本質です。丸3つをみたら、そこに顔があるように判断するのも一緒です。勝手に知性が関連性を見つけだそうとするのです。

さて例えば、この特別な水と粉を飲むと体の不調がなくなった。こんなことが起きれば、この水と粉のお陰だ関連性がある。それを作り出す人は神だ!みたいにもなりえます。一方で、その粉の成分が体にこれこれ作用して、医療技術として不調がなくなったのだとも言えます。進みすぎた科学は魔法と区別がつかないという言葉があるように、その人の知らない理解できない関連性は、神がかってみえるわけです。

ここでポイントになるのは、人間は誰しもまだまだ知らないことばかりだということです。水と粉を魔法やお祈りによるものだと関連づける人もいます。一方で、学者のように世界をよく知る人であっても、常に未知の問や原理を証明しようともがいています。まだ知らない関連性を見つけだそうとしているのであり、学者であっても神の御業に見えるものと常に闘っているわけです。

違う例をあげれば、この青色のミサンガを着けたら、全てが良い方向に転がりだした。パーソナルカラーや魂の色で、特別な配色を施してあるからだ。を信じる人はいないかもしれません。しかし、全ての物質物体は波の性質を持ち振動数が決まっている。だから、その波長を増幅したり弱めるような振動数のものを身近に持つと、自分本来の振るまいができて、良い方向に転がるのだ。さて、後者ならば少しは信じる人もいるかもしれません。そして、後者は本当に真かもしれません。まだまだ未知の領域です。常に神のようなもの(未知の関連性)と誰しもが接し、常に神のようなものはそこにいるわけです。

つまり、神を信じるか信じないかは、この未知の関連性に対するどういう原理説明を採用するのか。どういう原理説明を受け入れるのかで、決まります。なんらかのジンクスを採用する人も、ある種神を信じて神頼みしているともいえますし。上の振動数のように自分はそう思うな謎理論を採用して、結果的に神を信仰している場合もあるでしょう。





科学的、宗教、観測

未知の関連性の扱い受け止め方には、二つの大きなポイントがあります。一つ目は科学的かどうか。二つ目は観測です。

科学的とは、客観性があり再現性があることです。言い換えるならば、誰がいつやっても、同じ条件や方法ならば必ず同じ答えになるということです。人間が見出した未知の関連性は、この科学的なプロセスを経て、個人の関連性ではなく、人間全員が普遍的に適用されるものに証明されます。裏を返せば、この科学的に証明ができない事象を取り込んだ関連性の説明群を、宗教と呼びます。天国がある。死んだ後の世界。業を背負っている……云々。

観測とは、原理原則を理解できなくても、そこで起きた事象の結果を観察して推測する事です。船が浮く原理や、風を受けて進む原理が分からなくても、帆船を作り操縦するように。ある程度に関連性を証明し利用できる形にまで関連性を昇華させることが観測です。未知の関連性を全て証明してからでないとその関連性を利用できないでは、開発速度が遅すぎて使い物にならないからです。なので、そういうものとして、未知を未知のままに扱い、人間にとって都合のよい結果だけを利用することもあります。

この2つのポイントが混ざった結果、個人で編み出したよくわからないけれどもそうらしいもの(非科学的なもの)を、良いものだと認識して、自分にとって都合の良いものだとして信じること。これが宗教であり、神の信仰の正体であり、神の本質です。




なぜ学者が神を信じるのか

科学の徒でおる学者が神を信じるとは、直上でのべたような一般人が宗教に染まったり、民間療法のようなうさんくさいものを信じることとは別物だと思います。私は学者ではないので以下憶測です。

1つめは、未知の関連性を突き詰めていくという科学的なアプローチそのものが、絶対+を積み上げる、いわば人間が神がかっていくプロセスであり。智の神様を信じているというところだと思います。科学神の信仰ともいえるでしょう。

二つ目は、そうした学者の取り組みをさせてくれる知的好奇心を満たしてくれる問を常に与えてくれるこの世界や原理への賛美でしょうか。そして見出だして証明した関連性が、またほかの関連性をも上手く説明できる。この複雑で美しい答えの出現を賛美しているのだと思います。自然崇拝や人間賛美というもっと広義の世界そのものを神として見出だしているのではないてしょうか。

3つ目は、プロ野球選手でもサッカーを遊びでするように、学者で科学的なアプローチをして神とは普段は無縁であっても、人間臭い部分があることもある場合てしょうか。学問を取り組むことと人間的にいきること(日常生活)は全てが重なるわけではなく、その人間的な部分では神や信仰や宗教を採用している場合てす。




おわりに

と整理した過程で、関連性の見出だしというしっくり来る表現をみつけました。人間が争うのは価値観の違いからですが、じゃあ価値観の違いとは何から来るのかと言われれば、この関連性の見出だしに起因すると気づきました。

ある野球の試合で、勝利に貢献したのは丸々だ。みたいな話です。守備のおかげ。ある選手の動き。投手の腕。野球のように攻防分かれていればまだ良いかもしれませんが、サッカーならどうでしょう。相手の注意を引くプレーのお陰で後ろにスペースができて云々とか。複雑な要因の複合の中からどれを選ぶか。どこに関連性をみるか。で各自の視点は異なり結果的に、見える世界は人それぞれになる。互いを理解しあうには関連性を相互に納得できるだけの理解力が必要です。

複雑な関連性の論理構造を理解できる力がないと争いはなくならない。しかし、人間は本来自分の興味があるものにしか集中しない。理解しようとしない。争いをなくすには能力と、興味の拡張の2つが必要なんだとしみじみ思いました。

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