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深海と向き合う piece_vol.91

私はいま、数十年来の出来事に向かい合っています。
向かい合うと決めてそう意思を発してから、この事についての物事が一気に流れ始めました。
腹をくくり、自分で意思を発するということはこういうことなんだなと、実感しました。

次から次へと、その事について私がまだ気付いていない余分な思い込みを削ぐような出来事が起きます。その度に「こんなのもあったのか」と驚きます。

意思を発してから、ずーっとメインの出来事は動かず、ガイドに聴いても「自分から成すな」でした。流れに任せなさいと。自分でコントロールしようとするなと。



360渡から飛んでくる「削ぎ落とし」を淡々としていましたが、ある「思い」を手放し気付きに変わったとき。

その直後に向き合ってることに対するモノゴトがまた流れ始めました。直後です。日も変わらないうちに。

意思のハタラキ、チカラというものはこういうものかと改めて実感します。

よく「その瞬間に変わる」と言いますが、まさに。時間は関係ありません。

本質の、本来の想いとピタリと合致したとき、それがその人の流れに沿っているとき、そこには三次元で言う"時間"と言うものは関係ないようです。

人によってはこれを「パラダイムシフト」とか「別の平行世界へ移動」とか言うのかもしれませんが、そう感じられるくらい瞬間で、世界が変わります。



直接的なモノゴトが動き始めたと同時に、全くべつの新しい出来事が訪れました。

新しい出来事へも真正面から向き合ってるうちに、これが元の出来事とリンクしていることに気が付きます。

全く関係も接点もないように思っていた2つの出来事はリンクしていて、新しい出来事への気付きは、よーくよーく観ると、元の出来事を全くの別角度からの気付きへ導いてくれていました。

直接的な元の出来事での気付きと、新しい出来事での気付き、そこからまた元の出来事へのリンクした気付きと、3つが同時進行し、どれか1つがパタンと開くと又別のどれかがパタンと開くといった感じで、今までにない面白い気付きの味わいをしています。

そこへ加えて、日常のさまざまなものからメッセージを受け取ります。物だったり言葉だったり自然だったり、あらゆるものからです。
なので、ボーッとリラックスしているのですが、ボーッとしてる暇がない(笑)。
いつも「いま」にいないと見逃してしまいます。



その数十年来の出来事というのは、私のものすごーく奥深くに淀んでいたものであり、コアに関わる部分だと感じています。

完全に腹をくくり真っ正面から向き合うと決めるまでにはそれなりの覚悟と時間を要しましたが、もうそこに向かい合わなければ他が動かないとどこかで知っていたのです。

そして、そこに向かい合わないと言うことは、これまで通り外側意識で生きていく、ということでもありました。
その選択もアリです。選ぶ自由はあります。

でもそれは本来のジブンから外れることでもあり、流れにに沿わない生き方となります。


コアに関わるものであろうと、目の前のお茶を飲むことであろうと、やることは同じです。

自分の真ん中へ戻り、本来のジブンから湧いてくる事を行動にして体現する。

あれこれ余計な計算で動くのではなく、単に本来自分にある安らかさや心地よさから日常を過ごす。

真ん中から外れてしまったら、また戻ればいいだけの事であり、その繰り返しが真ん中を安定させ、深めていきます。
ジブンや大いなる流れへの信頼が深まっていきます。


たぶん多くの人が、自分のコアに近いものへ目を向けざるを得ない状況が訪れていたり、もしくはこれから訪れようとしているかもしれません。

ぜんたいの流れがそうなっているからですが、それは今までの「オソレ」を行動の元とする生き方から、誰もがその内側に持っている、その人本来の「喜び、安らかさ、心地よさ」といった輝きを元にして行動する生き方へのシフトです。

オソレを失くせと言うことではなく、オソレも安心も、どちらもあっていいんだよね、という立ち位置に戻り、そこから自分の真ん中から湧き出るものを現すから、自然と輝きのほうから体現することになる、という感じかもしれません。

すべてが軽くなってきています。



自らの重たさを脱ぎ捨て
その軽さに委ね
寛ぐとき

充たされた自分から
こぼれ落ちるその軽さは

周りも軽くし
明るく穏やかにし

それが
拡がっていきます


ひとりひとりが
先ず自分から充たしていけば

誰を充たす必要もなく

すべてが潤います


そして

この世の現れ
摩訶不思議さに

気付いていきます


「自分」だと思っていたものが
何なのか

うっすらボンヤリとでも
わかってきます

「自分」という
固定された個人はなく

それは
思考が織り成すワザであり
ある意味ミラクルであり

ただ
ぜんたいにある
この ナニカ が

その個性特質のエネルギーを
通り抜けるとき

その個性特質が
「自分だ」と思う 思い が現れ

それがあたかも
自分 という個別の人間が存在し
その 自分が 生きている
と 展開していきます

自分が生き
自分の人生だと
楽しめています



そこから少し離れられた時

世界が変わってきます


どの人生がヨイということもなく

何が正しいということもなく

遅いも早いもなく

その
個性特質でしか
現せないことを現せ

それはかけがえのないもので

どれひとつ欠けても成り立たず

欠けようがなく

そんなことを
知っても知らずとも

それすらどちらでもよく


ここ に
それが 現れています


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