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はじまりのハジマリ piece_vol.64

魚座満月と秋分が過ぎ、身体もだいぶ落ち着いてきた。パワフルとは見聞きしてたけど、まぁーホントにハードでござった。

先日の記事で"それぞれの光柱が強くなったように感じる"と書いたけれど、まー個々が自分というものをより観やすく感じやすくなるんじゃないのかなと思ったりしてる。
勿論これはヨクもワルクもで、自分の中の新たな発見もあれば、観たくなかったものに気がついちゃったみたいなのもあるけど。しかも各々の意識意図するものへのチカラが今までよりもぐぅーんと強く働くような流れになっているから、凹んだりネガティブ思考にはまっちゃった時はそちらへビューンと思いっきり飛ばされる。だから「自分がいま何に意識を向けてるか」は益々ポイントになってくるのかなぁ。そうやって自然に自分というものへ目を向けるよう大いなるハカライみたいなのが流れてる。これは今に始まったことでなく、いつも。今までも常にあるし失くなることはないし失くなりようがない。


私がいま感じているのは。
ああ、根底から引っくり返るんだなーと。何かが、という限定されたものではなく。
言葉も、ものの捉え方も、意識の在り方も、全てが今まで"そうである"と当たり前に思っていた事は本当に逆で、そこが少しずつ崩されていくんだろうなと。まだもんわりとしていて感覚を言語化するのは難しいのだけど。

言葉というものの認識は、ほんとに一回マッサラにせんとあかんなーと感じてる。言葉そのものの存在というか言葉の在り方というか。それがそもそも今フツーに使っている捉え方と違うっぽい。
この世界は言葉で成り立っているとも言えるから、その言葉をいつまでも"自分の言葉"で握りしめてると、新しいチラ見は難しいかもしれないなあ。



言葉を使うということは、瞬時にイメージが湧くということであり、同時に自分がその言葉に関連付けてる「意味合い」「認識」が発動するから。その自分が関連付けてる「意味合い」や「認識」「イメージ」が自分のセカイを創り出すから、今持って使っているその言葉が絶対的で当たり前だと強く握りしめてると、ずーっとその言葉で創り出された自分のセカイを生きることになる。これはまあ意識の変革ってことでもあるから、結局は自分の意識の在り方って事になっちゃうのかしら。

でも先ずは「言葉によって自分の世界を創っている」ということ、それは「イメージでしかない」ということ、その言葉らは「今まで教えられたり得た知識でしかない」ということ、そういったことをこれまた「知識」ではなく"腹落ち"させる、"腑に落とす"ことはタイセツかなぁ。

その上で、その言葉というものが思考と呼ばれるもので常に自分の頭をグルグル走り回っている、ということをちゃんと認識する。
そして少しずつでいいから、その走り回っている思考と距離を置くようにする。
「思考」が「自分」ではないと腑に落とす。常にベッタリ貼り付いてる思考との間にスキマを作る。

この「思考」を「自分が考えている」「自分の考え」と思っている限り、ちょっと楽になってはまた戻り、を繰り返しちゃうんじゃないかな。そしていつまでも外向きの意識から戻れない。


あとは感覚とイメージ力。
光柱が強くなった事で、それぞれの感覚も開かれてきてる。「なんとなくそう感じる」とか「意味分からないけどそう思う」とか「ピンとくる」とか。そういった今まで怪しげに思われてた事がナチュラルに自分に湧きやすくなってきてる。そこで今までの固定観念ガシガシで「いや、そんな事はない。思い違いだわ」とかやっちゃうと、せっかく開き始めてる感覚が閉じていっちゃう。

これからは知識から感覚へ。
今までは何かを知ったりして得た知識・言葉から、その言葉に自分が紐付けてるイメージや感覚が展開されてた。そしてそれが自分の世界へ反映され現実として現れる。

逆。仕組みそのものは変わらないから、自分の意識が反映されるのはもちろんそうなのだけど、直感的なものや何となくという本来のジブンの感覚が色濃く前面に出てきて、その感覚に伴う「言葉」が現れ、そこに紐付けてる意味合い認識が伴走する。

言葉などで知った → こうなのかな、という感覚
から、
ジブンが感じる感覚やイメージ → 言葉として繋がり、知る

みたいな感じなのだけど。文字にすると分かりにくいやね。
言葉(知識)ありきからイメージや感覚が湧いてきてたのが、先にイメージや感覚が湧いてから、それに自分が持っている言葉(知識)が当てはまる、みたいなこと。



今までは「感覚」が閉じ気味だったから、いろんな事を見聞きして知識や経験を得れば、そしたら現実が良くなっていって人生も良くなる、みたいな考え方が主流だったというか社会全体がそうなってたのだけど。
もちろんこれからもそうやって生きていくのが当たり前の人もいるのだと思う。
でも感覚が開かれるにつれ「あれ?」とかなることが多くなったり、「なんか自分はこう感じてるのだけど、自分が知ってる事とは違う」とか、自分の中で"知識"と"感覚"にズレが出てきたり。

その直感的なものは、本来のジブンの感覚だから、本当はジブンはそう感じてるということ。
そこに「今までの自分が得た知識」と誤差が出てきて、違和感を感じるようになる。
で、本来のジブンの感覚の方で生きた方が自然であるから、当然生きやすく楽しくなっていくのだけど。
そこで、どこまで今まで自分が正しいと思って持っていたもの得たものを壊せるか、捨てられるか。ジブンの感覚を信じられるか。


感覚やイメージってね、どんどん広げることが出来るの。澄ませていくことも。
イメージ力は、みーんな標準装備で高性能なものが完備されてる。全員。みんな。ただ今まで使う機会が少なかったから、本来のチカラを発揮してないだけ。

頭で考えることが好きな人は、ちょっと苦手意識があるのかもしれない。先に理屈で進もうとする癖がついちゃってるから。
あとは、思考の思うままに走り回させて振り回されてる時間が長い人も、常に「言葉」がへばりついてるから、イメージとか苦手意識あるかもしれない。


"感覚"を呼び起こすのは、自分がいまどう感じてるか、何を感じてるかに耳を傾けるクセをつけるといいかもしれない。「言葉」を重視するのではなくて、そこから湧いてくるイメージや身体の体感とかに意識を向けるようにする。ああ今自分はこう感じてるんだなと、意識をちゃんと向けるようにする。
「言葉」や「意味」から自分を遠ざける。それが最大重要事項で生きてきたことに気づく。
言葉や意味が少しずつトーンダウンしてくれば、そこにスキマが出来て、自分の感覚がヒョッコリ現れやすくなるから。
ぎゅうぎゅうに詰まってたら、せっかくあるものが出たくても出れないでしょ。だから要らない考えや思い込みやらは手放してスキマ作ってあげる。常に自分の中を風通しよくしておく。


根底から引っくり返ると言うのは。
まるっと言うと、「足りない」から「すべて既にある」という感覚への転換なのかもしれないな。これが、何かの体験とか体感とかではなく、意識の中で起こる。
よく一瞥体験とか悟るとか光を見るとかそういった身体を使った体験でのひっくり返りから意識も変わるというのは今までの流れで多かったし、その体験とやらを通過しないと意識も変えられないみたいな感じだったけど。
そういった体験体感がなくても、意識のひっくり返りは起きて「なんとなく分かっちゃう」ようになるのかなと思う。本人が意識してようとしてまいと。そうやって地球全体の意識が上がっていく。


何だか面白いことになってきたぞ。
自分の意識がどう変わっていくんだろう。
どこまで崩せるんだろう。どこまでひっくり返っていくんだろう。
それによってどんなジブンのセカイが現れるんたろう。

愉しみすぎて
顔がニヤつく。



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