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タンポポ(花まくら より 014)

 白色のタンポポを初めて見たのは中学生のころだった。中学校の外周を歩いている時、校庭の片隅に、白いタンポポが咲いているのを見つけた。私はそのタンポポを見て、突然変異のアルビノは、植物にもあったのか!と驚いた。辺りにはごく当たり前の黄色のタンポポも咲いていたが、その株から生えている二本のタンポポだけが、白い花をつけていた。白いタンポポが咲いていた、という話を学校でして、植物に詳しい先生から、それは突然変異ではなく、関西の方面で多く見かけられるものだということを教えてもらった。関西のタンポポは白い。そう私の頭にインプットされた。
 時は流れて、私は縁あって京都に移住した。京都のタンポポは黄色かった。私はてっきり、関西のタンポポはみんな白いのだと思っていたのだが、そうではなく、関西でもタンポポは一般的には黄色の花を咲かせる植物だった。ほんのごく稀に、白いタンポポを見かけることがある、その頻度が、関東と関西のちょうど中間地点である愛知県より、京都の方がもしかしたら高いかも、という程度だった。もしかしたら、岡山県、山口県など、もっと西の方へ行けば、白いタンポポと黄色のタンポポが半々くらいの場所があるのかもしれない。と、まだしつこく期待を持っている。白いタンポポは、その物珍しさが、なんとも魅力的で、面白いのである。タンポポはおしなべて黄色だと思い込んでいるところに、白いタンポポが咲いているのを見つけると、普段見過ごしてしまう雑草も、にわかに目を引いて、マジマジと花弁の中を覗き込んでしまう。色が違うだけで、中身は変わらないのだが。白い色、真っ白、と思ってよく見てみると、実は薄いクリーム色で、純白の白さではない。ほんのりと黄味がかった、優しい白色である。花弁は外側、真ん中、中央と少しずつ形が違って、その中でも雄しべだろうか、細く、くるんくるんと巻いている繊維状の物が、中央を囲むように生えている。その部分は、やや濃いめの黄色である。同じタンポポでも、色が違うだけで、ずいぶん様子が違って見えるものである。黄色のタンポポと違って、淡い色の中にも変化があり、ある種の見応えがある。摘んでみようか、とも思うが、思いとどまる。増えて欲しいな、と思うので、綿毛になって、飛んで行くことを期待して、そのままそっとして立ち去る。もし折良く、白いタンポポの綿毛に出会えたなら、少し採集して育ててみても面白いかもなぁ、と思ったりする。白いタンポポの綿毛からは、ちゃんと白い花が咲くのだろうか?黄色の花咲いてしまったりすることはないのだろうか。ちゃんと白い花が咲く、というところを、自分の目で確かめてみたいなぁ、と思ったりする。思うだけで、いつも、いずれ忘れてしまうのだけれども…。
 私は白いタンポポの花も好きだが、タンポポの綿毛はもっと好きだ。タンポポに限らず、綿毛は全部好きである。タンポポの綿毛を見つけると、年甲斐もなく、手が伸びてしまう。ぷちりと茎をちぎりとって、フーッと息を吹きかける。綿毛は私の吐息にあおられて、風に乗って飛んでゆく。種を重たげに吊るして、綿毛はゆらゆらとさようならして行ってしまう。風が強く吹けば、私の目線の高さを越え、背の高さを越え、道路を越えて、電線を越えて、目に見えないところまで、あっという間に消えて行く。綿毛の旅立ちは潔い。兄弟同士、いっせいに旅立つと言うのに、誰一人手を取り合うことはなく、めいめいが風に吹かれるまま、振り返ることなく、去って行ってしまう。残された茎には、種たちが収まっていたくぼみが、無数に残っている。薄緑色をした、種のベッドが、空っぽになって残っている。
 歩いていて、歩道の脇に、タンポポの綿毛を見つける。手を出すのがはばかられるような、ちょっと汚いかもしれない、と思うようなところにある時には、私はよく、足で綿毛をキックする。まあるい綿毛の塊を、足で強く蹴ると、その衝撃で綿毛が飛び散るのである。一撃で綿毛が全て飛んで行くと、気持ちが晴れる。乱暴なやり方だが、たくさんの綿毛を見つけた時も、いちいち口で吹くより、ポン、ポン、と足で蹴って行く方が面白い。蹴るたびに、綿毛が爆発したように舞い散る。だが、綿毛が雨に濡れている時は要注意である。雨に濡れた綿毛を蹴ると、綿毛が全部靴にくっつくのだ、べったりと靴に張り付いた綿毛を全部取り除くのは大変だ。雨靴であれば、水をかけて流せば済むけれど、スニーカーでやらかしてしまった時には、悲惨である。手で取ろうとすれば、今度は手に張り付く。ぺったりと濡れそぼった綿毛の毛の始末は、やっかいである。
 四歳と五歳の子供たちを連れて散歩に出かける時は、タンポポの綿毛を見つけると取り合いである。私は二人に先んじて綿毛を見つけ、自分も吹き飛ばして遊びたい気持ちはあるのだが、二人に譲る。譲ると言っても、単に、あそこにタンポポの綿毛があるよ、と言ってしまうと、年上の息子の方が先に走って奪い取ってしまうので、そうならないよう、交互に、娘に教え、息子に教え、と細かな配慮をしながら、ボチボチ、歩いて行く。舗装された道路の隙間に、街路樹の根元に、花壇の隅に、タンポポの綿毛は生えている。子供達は、綿毛を見つけるたびにかけていき、小さな手で大事そうに摘み取り、口を尖らせて、フーッと息を吹きかける。舞い上がる綿毛に歓声をあげ、目を輝かせる。
 たまたま、子供の、年下の娘の方だけと一緒に散歩していた時のことである。摘み取ったタンポポの綿毛を吹かずに手に持って帰ろうとしたことがあった。お家には持って入れないよ、と私が言うと、娘は、これはお兄ちゃんの分、とお土産にして持って帰るつもりでいる。道中見つけたタンポポの綿毛を、二本、三本とまとめて握りしめ、自分で遊ぶ分もそこそこに、娘はトコトコと歩いて行く。そういう時は結局、家に帰り着く前に、自然と綿毛が吹き飛んで、道の途中で丸坊主になってしまうのがお決まりである。そんな訳で、実際に綿毛を家に持ち帰れた試しはないのだけれど、四歳の娘が、綿毛を見つけ、良いものを手に入れた、という気持ちになり、そして、それを兄に持って帰ってあげよう、という気持ちになる、そういう心の動きが、興味深いなぁと思う。幼い子供のこと、抑制が効かずに、ただ欲しい、ちょうだい、もっともっと、となっても良さそうなものなのに、そうはならないのである。思い出してみれば、二歳のころは、そうだったかもしれない。二年前、もう少し娘が幼かったころは、こんな風に、兄のことを気にかけることはしなかったと思う。笑って、泣いて、毎日の繰り返しを淡々と過ごして来たように感じていたが、タンポポの綿毛を通じて、娘が、いつの間にか、体だけでなく、心も、成長していたことを実感する。
 ある時、夫と二人で歩いている時、タンポポの群生地を見つけた。道よりも一段高くなった空き地に、タンポポの綿毛がたくさん生えていた。こんなところに、と思うのと同時に、どうして誰も取らないのだろう、というのも不思議に思った。子供の遊具がある公園の、ちょうど裏手にあって、少し死角になっているからだろうか。今度、子供たちとこの公園に来たら、こちら側にも回って、タンポポの綿毛を、思う存分摘み取らせてあげたい、と思った。私は子供のいない時でも、タンポポの綿毛を目で追っている。あそこにもある、ここにもある、と。それこそ、摘んで持って帰ってあげたいくらいだが、娘と同じく、どれだけ注意深く持ち帰ろうとしても、それは叶わないだろう。タンポポの綿毛の発見は、一期一会の出会いである。自分の足でもって、その場に行かなくてはいけない。タンポポの綿毛を吹き飛ばす。そしてタンポポの綿毛を吹き飛ばした後の、種の収まっていたくぼみを観察してみる。すると、子供が巣立った後の空白が連想される。親と同じ場所に根を下ろすことがあったとしても、決して、このくぼみに種が戻ることはないのである。我が家の子供達はまだまだ、くぼみの中の種である。いつか、巣立つ日が来る日まで、心地よく過ごしてほしいと思う。そして、その日が来た時には、タンポポの綿毛のように潔く、去って行ってほしいと思う。


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