見出し画像

記憶…。

昨日は1時間早や上がりをしてきたのに、帰ってから何をしたのだか、ほとんどまったく記憶が無い。
普段より多く、ビールを2本飲んで、そのまま座椅子で意識を失っていた。( ̄0 ̄;)

何時頃だったろう? 起きて働こうとするも、ちっともやる気が出ず、かろうじてシャワーだけ浴びてベッドに潜り込んだ。それさえも何時頃のことだったか覚えていない。

仕事はあったので、アラームは3時にセットした。
0時半に目が覚めた。
もちろん3時に目が覚め、新聞屋の来る3時半にも起き、それからあとも数十分ごとに目は覚めるのだが、結局ベッドを抜け出したのは普段よりずっと遅い6時ごろだった…。

出勤しないことを考えた。
スマホの電源を切っていれば半日か1日程度の「猶予」はあるだろう。その間に「遺書」というか「今後の処理」について書き残し、「死にに行く」か、取りあえず「消える」かしようと思った。

身支度を調えたあと、しばらく、ベッドに座ってぼんやりとしてしまった。こんなことも去年の春以来初めてのことだ。

でも、「死ぬ」勇気も「消える」勇気も無く、通常通りに出社。職場に着くと、まだ駐車場にはほとんどクルマは駐まってなくて、結局、何と勤労意欲のある私なんだろう…?(苦笑) それもまた悲しくなる。

 *****

「妻」に、「あなたの言うことは何も信じられない」と言われるのは至極もっともかと思うのだが、私、今日もまたずっと、「帰りには死のう!」と思って一日を過ごしていた。
正直に言えば、怖かった。目に入る風景がすべてこれが最後なんだと思うと、つらくて、悲しくて、泣きたくなった。「時間」についてもそうだった。明日のこの時間はもう来ないのだって、そう思いながら今日一日を過ごしていた。つらかった。

だけど、また、結局死ぬこともできないままに帰宅してしまった。これって「死ぬ死ぬ詐欺」…?(苦笑)

 *****

死ねなかったのは、ひとつは前と一緒。「疲れた」から。退社時にはすでに死ぬ元気すら無かった…。

もう一つは、久しぶりに「ギザ十」に出会ったからではないかと思う。

画像1

コンビニもスーパーもオートメーションのレジになり、「これで『ギザ十』は淘汰されてしまうのでは無かろうか…?」と思っていたのだが、いつ、どこで私の小銭入れに混ざり込んだのか、今日の昼、職場の食堂で代金を「ちょうど」払おうとすると、いやいや、待て待て…! 「ちょうど」あることを一旦見せておきながら、慌てて、
「スミマセン。千円からお願いします」(^▽^;)

すでにちょっと薄くなった、昭和33年の「ギザ十」だった。どこかのオートレジスターで、ちゃんと「10円玉」として認識され、私の手元にやって来たのだろうか? 嬉しいことである。

 *****

一方で思ったのは、(これは三途の川を渡るための六文銭ではないのか?)ということ。今確認すると、部屋に2枚、職場の机には4枚の「ギザ十」がある(他に20枚ほど、包んで置いてある。)。

 *****

タイトルに書いた「記憶」ってのは、この話とはまだ違う。別の話。
でも、もうこれ以上書く元気は無いや。

270日ほど連続投稿しているらしいが、実は今日はそれも止めようと思っていた。でも、また書いちゃった。

「記憶」の話は、また。覚えていたら。余裕があれば。
でも、無理かなぁ…。書きたいんだけれどなぁ。

 *****

ちょっと不安定な私ですが、それでもかろうじて「いまを生き」ています。今は、生きています。