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「やっぱり秒速が好きだ」と言える幸せ【すずめの戸締まり】

『秒速5センチメートル』を初めて見た時の感動を、私は忘れない。

あの日、貴樹は「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのかわかった気がした」と言った。彼が人生史上最高の幸せを感じたあの日から徐々に闇に落ちていく様は、表現しがたいほどの哀愁と虚無を感じさせ、私の心にぽっかりと穴が開いた。こんなにも感情を突き動かされるこの映画を、私は好きにならざるを得なかった。

『君の名は。』以降の新海作品では、大衆受け・国民的映画監督を意図的に引き受けた新海監督の覚悟を感じることはできるものの、秒速5センチメートルを観たときのような突き動かされる感情の変化は起こらなかった。『すずめの戸締まり』もきっと同じだろうと思い、特段の期待は持っていなかった。唯一観にいく意味があるとすれば、観ることで「やっぱり秒速が好きだ」と思い返せることだけだと思っていた。

そんな半端な思いですずめの戸締まりを観にいった私だが、観ればそれなりに感じることがある。なぜ秒速5センチメートルが大好きなのか、それに対してすずめの戸締まりはどのような作品だったのかを紐解くことで、すずめの戸締まりを通して新海監督がくれたメッセージを受け取ることができる。

まずはこの二作品を振り返ることから始めたい。

秒速5センチメートルは、あの日起きた奇跡的な一日を、いつまでもいつまでも胸に抱き、その過去を引きずって日常を生き続ける物語だ。明里が引っ越してから何度も手紙をやり取りし、高校生になってからは携帯電話だって持っていた。それでも貴樹は、臆病だったからなのか、恥ずかしかったからなのか、明里に思いを伝えることはせず、彼女に対する理想だけが胸の中で募り続け、たった一日の非日常が日常を完全に侵食してしまった。

あの日以降、どこかで一度でも目の前の恥ずかしさや見栄や恐怖に打ち勝って、未来の二人の姿を想像することができていたら、その後の彼の物語は全く違ったものになっただろう。しかし彼はそう思い至ることができず、目の前の感情を優先しその後の未来を棒に振ってしまった。

一方、すずめの戸締まりにおける鈴芽は、貴樹とは対照的な存在だ。3.11に起きた悲惨な出来事は彼女のメンタルを到底想像しえないような苦しい状態に変化させただろう。それにも関わらず鈴芽は草太を救うために常世に向かい、思い出したくない過去と向き合うことや、死すらも厭わなかった。「私は草太さんがいない世界が怖いです」というセリフが示すように、目の前の恐怖よりも草太との未来を優先し、未来の幸せを自らの手で掴み取った。

辛い過去を乗り越えるためには、その過去よりもずっと大切な未来が訪れると思える期待感が必要だ。「こんな過去があった”から”」ではなく、「こんな未来の”ために”」と思うことが必要だ。そう思うことで、過去を引きずるのではなく、過去の戸を締めて未来に向かって突き進むことができる。すずめの戸締まりを観て真っ先に、これこそがこの映画における新海監督のメッセージだと感じた。

ネガティブな非日常を乗り越えるために未来に向かって歩み始めた鈴芽に対し、貴樹はポジティブな非日常に浸って引きずり続けていた。つまり貴樹は、過去をちゃんと”締める”ことができなかったのだ。

とはいえ貴樹は決して何もしていなかったわけではない。秒速のキャッチコピーが「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」だった通り、特に社会人になって以降の彼は、仕事に没頭し、無我夢中で日々を過ごした。

ただそれは、彼が再び明里と出会うための努力としては方向性がずれている。彼がとるべき行動は、明里にコンタクトを取ってもう一度会うことだったはずだ。そして結果がどうなったとしても、そこで彼女に対する思いを伝えることだったはずだ。

その直線経路をあえて使わずに別のことに没頭するというのは、もはや彼女を忘れるための努力をしているようにすら見える。何かを忘れようとして忘れることは難しい。「戸締まり」というのは、何かから目を背けて心の隅に押しやることではなく、そこにきちんと向き合ってケジメを付けることだ。

こうして両者を比較すると、明らかに鈴芽は正しくて、貴樹は間違っている。しかし、だからこそ、私はそんな間違った行動しかとれない貴樹に共感し、『秒速5センチメートル』をいつまでも愛し続けているのだ。

一方で鈴芽に対して抱く感情は、共感ではなく感心だ。鈴芽は過去の新海作品のどんなキャラクターよりも素晴らしい。それは徹底的に、自らの手で自らを救うからだ。

『君の名は。』や『天気の子』は、ヒロインが主人公に救われる物語だった。君の名はでは瀧くんが三葉に代わって町民避難を力尽くで成し遂げ、天気の子では帆高くんが東京の災害と彼女を天秤にかけて彼女を選びとった。

しかし鈴芽は違う。それを最も象徴していたのが、冒頭と結末で幼少期の鈴芽に現在の鈴芽が語り掛けるシーンだ。幼少期の鈴芽を救うのは、他の誰でもなく未来の自分自身だ。本作は草太が椅子に変えられたことでほとんどヒーローとしての役割を全うできないことからも、彼女が自らの手で自身を救う物語を意図的に作っていると伺える。

もちろんそこから得られる教訓は多い。結局自分自身を救えるのは自分だけだ。鈴芽は全国横断の途中でたくさんの人々に協力してもらっていた。しかしそれは鈴芽自身の行動に呼応しただけであり、何も行動しない人間に誰かが優しい手を差し伸べてくれたわけではない。あくまでも自らが動き出して、その思いに乗ってくれただけだ。それは私たちにも当てはまる部分があるだろう。待っていても救われない。自らの未来を変えられるのは、自らの行動あってこそなのだ。

ただ、それは理屈としてはわかっていても、やはり「鈴芽はすごいな」「自分とは違うな」と、それを自分事として明日からの自分の行動に落とし込むのは難しい。そして同時に、「やっぱり貴樹には共感できる」と改めて感じ、貴樹のようにいつまでも過去の幸せに浸り続け、「あの頃はよかったのに」と今と未来を否定し続ける方が楽だと思ってしまう。

これは単に嗜好の違いの問題なのだろうか?いや、違う。ここにもう一つ、新海監督がこの作品を通して伝えたかったことが隠れている。そのメッセージを紐解く鍵は、「鈴芽は自ら選択してあの行動力を発揮しているわけではない」という補助線によって導かれる。

鈴芽はあの悲惨な出来事によって多くのものを失い、それ以降の生活は劇的に変化した。しかしそれでも鈴芽は一日一日を歩み続けなければならない。辛いから、苦しいからといってもしも立ち止まってしまったら、今日を生きることさえできない。だから彼女には後ろを振り返る暇などなかった。過去に浸って今日という日に立ち止まるか、今を全力で歩み続けるか、未来を思って新たな行動を起こすか。その選択肢などなく、ただひたすらに今を全力で歩み続けることしかできなかった。

過去に浸って立ち止まるか、未来を思って行動するか。それを選べること自体が幸せなことだ。変わるか変わらないかを選択できることは幸せだ。それは貴樹にも言えるし、その貴樹に共感し、それに浸っている私にも言える。

昨日と同じ安定した今日があり、また同じ明日が訪れるという確信があるからこそ、人は立ち止まって過去に浸ることができる。「やっぱり秒速が好きだ」と言えるのは、その人にとって今が安定していると思えるからだ。

しかし、安定した日常は本来いつ崩れるかわからない。私を含めた多くの人が、それを肌で実感できていない。作中で最もそれを象徴していたのが、教室内で鈴芽にだけミミズが見えていたシーンだ。

鈴芽にとって地震は、大災害の予兆である。だからその予兆であるミミズが見える。一方で彼女のクラスメイトは「また揺れたな~」「アラートが毎回過剰なんだよな~」と地震を軽く捉えてしまう。だから鈴芽以外の生徒にはミミズが見えない。ミミズは災害に対する危機感の有無も表していたのだと思う。

新海監督のこのメッセージに気がついた私は、安定した日常の陰に潜むミミズの存在を少しでも意識したいと思った。安定した日常を過信せず、一日一日を大切に過ごしたいと思った。

もしかしたら、これからの私の行動はすぐには変わらないかもしれない。しかし、「一日一日を大切に過ごしたい」と強く思えたこと、その心の変化こそが最も重要なことなのだ。

それは本作を通して鈴芽が成し遂げたことと似ている。というより、鈴芽は実のところほとんど何も成し遂げてなどいない。鈴芽は間違って後ろ戸を開けてしまい、起きそうになった災いを自らの手で防ぎ、再び後ろ戸を閉じた。君の名はや天気の子が世界を劇的に変化させたのとは異なり、物語の最初と最後で世界は何も変わっていないのだ。変わったのは鈴芽の心、ただそれだけだ。

ただその心の変化こそが、この物語で最も重要なことだ。その心の変化は、ゆっくりと、しかし確実にこれからの行動を変えていくだろう。その変化のスピードはもしかしたら、秒速5センチメートルくらいかもしれない。

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