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においで味わう京都のまちを

毎日聞いているSpotifyで、くるりの岸田さんが
「うちの彼氏は北区の役所務めの20歳(by京都の大学生)」だの
「錆びた線路際 涙枯れた六地蔵(by虹)」だのと言うたびに、京都に行きたい気持ちがじわじわと熟成されていた。
くるりを聴くと、ふわっと京都が香ってくるのだ。

以前はかなりの頻度で京都に足を運んでいたが、引っ越して距離が離れてしまったことや感染症の影響もあり、いつの間にやら京都は、遠くにありて思う土地になっていたのだった。

行きたくてもなかなか行けない、そんな歯痒さはつゆ知らず、岸田さんはずっとイヤホン越しに「今日のデートは左京区 大学近くの喫茶店」などと歌ってくる。

もう我慢ならぬ!と、くるりに突き動かされるまま、今日はとても久しぶりに京都へ行くことにした。

上賀茂神社手づくり市

本日は上賀茂神社の手づくり市の開催日だったのでまずはそちらへ。

京都では様々な場所で定期的に手づくり市やマーケットが開催されている。
手づくりの文化を大切にする土壌の上に成り立つその場に、個性溢れるモノと老若男女さまざまな人々が集まる。

神社の中を流れる小川のほとりで、ブーステントの中で、青空の下で、それぞれが思い思いに過ごしているこの空間が本当に心地よいのだ。
そんな中にいると、多様性って、それはつまり「思い思いに過ごせる」ってことだよなぁなどと、漠然と無責任に思う。

100を越えるブースには、革のミニ財布、米粉パン、カレースパイス、真鍮ピアス、帆布鞄、リネンのお洋服、清水焼の器、すぐきの漬物、木製ブローチ、、目が回りそうなほどたくさんのモノが並ぶ。

私はその間を、あちらへふらり、こちらへふらりと無目的に泳いでいく。

もはやそこに自分の意志は介在せず、「ああ可愛い」「ああうまそう」と、感覚の赴くままにふらふらと彷徨う。

こうやって、意志を手放せるような時間が自分にとっての極上のストレス解消になるのだ。

とは言え、この期に及んでも財布の紐は固いため(そこは強い意志)、自転車の鍵に付ける革のキーホルダーとビスコッティだけを買って大満足した。
(来たなら金落とせやという感じだが、大切に作られたモノだからこそ、衝動で買って消費するのもいやなのだ。)

スッキリと合理的な生活が賞賛される世の中ではあるが、いつもこの場に来ると、モノとの付き合い方を考えさせられる。

私は多くのモノをもつ方ではないが、過去に上賀茂さんで出会った革財布も名刺入れもスープマグもガラスのピアスも、その思い出と共に、しっかりと日常に馴染んでいる。

作り手の顔が見える場所で、大切に作られたモノたちに触れる。それだけで「ていねいなくらし」とは程遠い生活を送る私のQOLも少しだけ上がる気がするのだった。

嗅覚を頼りに歩く京都

そんなふくふくとした気持ちのまま上賀茂さんを後にし、西賀茂にある正伝寺の血天井と庭を見に行ったり、北山を散歩したり、最後は鴨川デルタで黄昏たりと、久しぶりの京都ひとり旅を満喫した。

デヴィッド・ボウイが泣いたという、
比叡山を借景とした正伝寺のお庭。
ちなみにこれを眺めている廊下の天井は、伏見城の戦いで自害した武士たちの血痕が生々しく残る血天井。


数年前に放送された『ちょこっと京都に住んでみた。』というドラマで、近藤正臣さんが「ここでは自分の嗅覚を頼りにするんや」というようなことを言っていたが、本当に、京都は何気なく歩いているだけで不思議と嗅覚が冴え渡る感じがする。

それは、物理的に匂いがするというわけではなく、歩いているだけで「うわ、なんか素敵かも」とビビッとくるカフェやら本屋やら神社やらが目に入り、ふらふらとあちらこちらに惹き込まれて行く。

そして、その「なんか」は結構な確率でビンゴだったりする。
そこで自分の嗅覚ポイントが上がり、俗に言う自己肯定感っぽいものも上がるのだ。
そこにあるものがただただ素敵なだけなのだけども。

観光地としての華々しい京都も良いが、確かに生活の滋味深い香りがする、そんな日常の文化や営みを重ねてゆく京都が私は好きだ。


遠くにありて思い続けた京都は、いつも通りそこにあった。

次の季節が移り変わる時、きっとまた京都に行きたくてうずうずするのだろう。

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