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自分と向き合っているつもりでも

今、ある心理系の学びのコミュニティーに参加している。
その過程で、自分の今までを振り返る機会がたくさんあり、私のビリーフについて今まで頭に浮かんでいることをノートに書いてみた。

さんざん自分を悩ませていた考えぐせ。
なぜ、その価値観が生まれてしまったのか…
数年前から自分と向き合うことを続けていて、セルフで、またハードなカウンセリングセッションを受けて紐解いてきたこともあり、少しは客観視できているつもりでもあった。

でも。
それを手放せずに、再びメンタル不全に陥りかけたのは?

今朝、目に飛び込んできたnoteの記事。(Kyokoさん、ありがとうございます)

自分の感情が動いた時、身体・心から発せられるメッセージを聴こう、ということは2年くらい前に学んだことがあるものの、まだしっくりきていなかったというのが正直なところだった。”感情を無視しない”ということが、”感情に溺れる”になってしまうことも多かった。
何か苦痛を感じた時、そこからくるメッセージを受けとうとしているとき。
考えぐせを客観的にみつめているとき。それは結局思考のおしゃべりになっていることが多かったのだろうと思う。そして時に質問責めにもなっていたはず。。まったく優しくなかった。

なかなか卒業できず、変われなかった理由はそれかもしれない。

まず、自分に対する思いやり。
それなしでは、他者を思いやろうとしてもどこか偽者じみたものになってしまうような気がする。

そして、今読み始めた本。

第1章から…響いています。

自信とは、自分の感情・感覚を信じられること。
(略)
その感情を労り、大切にすること。あなたがあなたの味方であること。

手塚郁恵・著/自分を信じるレッスン

好きとかやりたい!を感じても、なんとなく半信半疑で、自分からその気持ちを潰してしまうことが多かった。
自分の感覚・五感をもっと使いたい。

自分に対しても。他人に対しても。心から労り、大切にしたことがあったのだろうか?と自問している。
自分を思いやる…セルフ・コンパッション。これだ、と思った。