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自宅飲み - 追悼の酒

四十を過ぎたら死を意識し始める。四十未満の年下から四十の心情を尋ねられた時に僕が必ず冗談半分で話すことだけれど、半分は本気だ。人の寿命を八十と仮定した場合、四十になるまでは残された時間はまだ体験したことの無い「未知」の長さであると言える。けれど四十になった途端に「この先自分に残された時間」が「これまで自分が過ごしてきた時間」を下回る。八十で死ぬという仮定に基づく数字上の計算でしかないけれど、これが心情に及ぼす影響は意外と大きいものだ。

そんな風に死を意識し始めてまだ数年、比較的年の近いバイオリニストの友人の訃報が届いた。

友人、と呼べるほどの付き合いはなかったかもしれないけれど、それでも僕が友人と呼んでもきっと彼は当たり前のことように屈託の無い笑顔で受け入れてくれただろう。そんな彼が突然この世を去ってしまった。最後に会ったのはいつだったか思い出せないけれど、酒の席であったことは間違いないだろう。いずれまた、酒を酌み交わす機会が自然に訪れるだろうと思っていたのだけど、その機会を得られぬままに彼はこの世を去ってしまった。病院が大嫌いで、当人が自らの病を知っていたのかどうかは分からないけれど癌があっという間に進行し、病院に搬送されてからわずか半月で息を引き取ってしまったということだ。

彼はよく「お前は本当に腹の底が知れないやつだ」というようなことを口にしていた。実生活の僕の姿と、僕が心の底に隠しているものとの不一致や違和感を感じとっていた。飄々としてマイペースに見える、悪く言えば能天気な彼のイメージからはほど遠い鋭い指摘であった。今、天国から現世を見下ろす彼には、底の浅い僕の腹のうちなど手に取るように分かるのかもしれないね。彼の最期はどのようなものであったかを僕はまだ誰にも聞いていない。僕はそれほど彼のことを深く知っているわけではないけれど、彼は意外とすんなり死を受け入れて、思い残すところなくこの世に別れを告げたのではないか、そんな風に思っている。

今宵、僕はあなたのことだけを思いながら酒を飲もう。あなたはもう僕に話しかけてはくれないけれど、僕はあなたに話していなかったこと、話したかったことを胸の中で一方的に語りかけることができる。きっとそれを話したら、あなたは笑って喜んでくれただろう。だから僕も笑ってあなたを送り出したい。

さようなら。美しき音色と喜びの酒に彩られたあなたとの思い出に乾杯。

2015年9月24日の記録

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