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毛沢東語録

齢を取ってきて、そろそろ「断捨離」で身辺の整理でもしようと思い始め、まず本棚から取り掛かりました。そのとき、片隅から13cmX9cmで厚さ2cmぐらいのかなりずっしり重い小冊子が出てきました。かなり質の悪い紙で430ページあり赤いビニールの表装がされています。1972年発行の日本語版「毛沢東語録」(正式名は、「毛主席語録」)でした。50年ほど前のものですから随分古びていますが、中はまだ鮮明に読めます。内容は、毛沢東主席の著作、講演、重要会議における発言などのさわりを抜粋したアンソロジーで、おそらく人類史上もっとも大量に印刷された本であると云えます。

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はっきり覚えていませんが、1970年代中頃に盛んに「広州交易会」に参加していたときに、友好商社の人から渡されたものだと思います。渡されるときに、

「中国に滞在中は丁寧に扱ってください。」

と念を押されました。だんだん思い出してくると、当時、何万人もの学生がこの本を片手にかざしながら、天安門広場を行進するニュース映画を見た記憶がよみがえります。
そうです、私が「広州交易会」で厳しい価格交渉や公司との宴会に明け暮れしていた1970年代は、中国にとっては権力闘争が激化し何千万人もの人が亡くなったりしていた、所謂「文化大革命」の時期と一致します。1966年から10年間、毛沢東の死去によって収束するまで中国はあらゆる経済的、文化的活動を中止して政治的闘争に没頭していた時期であると言われています。

「 清明節」 1976年4月 

私は、過去日本国政府から発給された20冊以上のパスポートを全て保存しています。今では有効期間10年のパスポートなら80年で8冊と言う勘定になりますが、当時は「1次旅券」と言って出国してから帰国までの1回しか有効でないパスポートや、「数次旅券」と言って複数回出入国できるパスポート、または国交のない北朝鮮に渡航するときにだけ発行される、日本から平壌までの通過国においてだけ有効な「1次旅券」などが在りました。

1976年2月13日付発給の「1次旅券」には日本の出入国記録と中国北京の出入国記録しかありません。中国北京滞在は4月1日から4月8日までの8日間、我々は、紡織品公司との商談で、北京飯店に滞在していました。北京飯店は、天安門広場に徒歩5分と言う正に1等地にある老舗ホテルで、海外のVIPも定宿にしています。

4月4日は、清明節といって日本のお盆のように先祖のお墓掃除をしたり、お墓の前で家族揃って食事を楽しんだりします。公司との商談もお休みです。
朝食がすんだ頃、公司の商談員で一番若い牛熱東さんが、ふらりと現れて、

 「今日は清明節で天安門広場に色々飾りつけが出ているので見に行きましょう。」

と言い生ます。牛さんは日本語をかなりうまく話せます。
我々も暇なのでぞろぞろ後を付いていきます。広場には沢山の石碑やら、記念塔がありましたが、全てに墨痕淋漓と揮毫された聯のようなものや、漢詩らしきものが張り出されています。花輪も沢山飾られています。友好商社の石津氏が読んでくれます。牛さんは口も利かずに熱心に読んでいます。

 「ここにあるのは、いずれも今年の1月8日に逝去された周恩来首相をたたえたり、惜しむ言葉です。」

当時は、文化大革命の失敗がほぼ決定的となりつつあった時期でした。毛沢東の老化で最後は統制が利かなくなり、あらゆるものや制度や体制が壊されて収拾が付かなくなっていました。文革中にもしぶとく生き残った周恩来・鄧小平と江青夫人・4人組との対立も煮え詰まっていました。中国に秩序と日常を取り戻してくれそうな周恩来・鄧小平に対する期待は高まる一方でした。ところがこの年の1月、長らくガンと戦ってきた周恩来が死去して国民は落胆します。我々が見た聯や花輪には周恩来を悼む言葉とともに4人組体制を批判するものが沢山混じっていたのです。

お昼前には、どこから沸いて出たのかと言うほどの人が集まってきました。記念塔に書かれた聯の前で演説する人も現れました。  

急に牛さんが、

 「ホテルに帰りましょう。」  

と言いました。

 「ほんとに帰ったほうがいい。」 

と石津さんも緊張した面持ちで言い出します。

勿論、我々には反対する理由はありません。其の夜、夕食をとりながら、石津さんがぼそりと言いました。

 「もうすぐ、公安や民兵が出て花輪や聯を撤去するらしい。皆さん、ホテルから出ないほうがいいです。」

実際に撤去が始まったのは翌日の夜でしたが、それまでに民衆と公安(警察)が大激論を交わし、小競り合いがあり、何人かの人が死んでいった、所謂「45天安門事件」(第1次天安門事件)が起こっていました。しかしながら、「北京飯店」に立て籠っている我々には、分厚い壁にさえぎられて何も聞こえてきません。ホテル内の日常業務は何事も無いように行われておりレストランは大勢の人で込み合っていました。

今にしてわかる中華人民共和国の底知れぬ深い淵

  1976年4月5日、私達は中国が国運を賭けて闘争していた歴史の舞台から、ほんの200メートルほど離れた場所で、食事をし商談をし自棄酒を飲んだりしていました。
公司の人たちも何事も無かったかのように仕事をしていました。

交易会のときでも、外国人のバイヤーやセールスマンはこのことに無関係な場所に囲い込まれて「文革騒ぎ」に巻き込まれることはありませんでした。

後で聞いた話ですが、宇宙開発のロケット技術や先端的な科学分野では、この「文革騒ぎ」に巻き込まれること無く研究活動は進められていたと言います。

国家のトップが激しく争い、沢山の人が亡くなり、あらゆるものが荒廃していった中で、国家に必要な基礎的な構造はきちんと働いていたのです。

我々外国人から見える光景は、「二千万人の人が犠牲になり、国家は全く機能停止し立ち直るのも難しい」ようにしか見えませんが、共産党員下部組織、約九千万人と、もの言わぬ十数億の中国人は其の間仕事をしていました。(闘争に係わらないように注意深く振舞いながら)

壊滅的な被害者は、毛沢東の権力闘争に利用されて「紅衛兵」になり、後に「下放」されて人生が狂ってしまった何百万人もの青少年と権力の座から引き摺り下ろされて亡くなったり廃人のようになった劉少奇以下の共産党の幹部たちでした。

其の年、9月9日、ついに毛沢東が亡くなりひとつの時代が終わりました。

結局、この権力闘争の中で死んでいった2千万人とも言われる犠牲者は、何だったのでしょうか。

後に、中越戦争で100万人を越える戦死者を出して対ヴェトナム戦から撤退を余儀なくされた鄧小平は、

 「わが国にとって、100万人と言う数はあまり大きな意味は持たない。」

と言い放ちました。

この国は何事も無かったように、日々の営みを回復し成長し始めます。                              

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