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2/24 くもをさがす

最近星野源さんから派生して、その周りの方本を少し読むようになった。
若林さん、西加奈子さん、

彼らの書く文章にすごく引き込まれる。

自分を着飾らず。大きく見せることもなく。むしろ、自分の中の弱い、恥ずかしい部分すらもさらけ出しながら、ふつふつとその体の底から浮かび上がってきたような言葉にたくさん出会う。

彼らから出てくる言葉は、今まで周りにいた大人(と思っていた人)に投影していた精神的に安定した、悩みのない大人とは全く違う、

不安定で、

もろくて、

泥臭くて、

痛々しくて、

けれどもその奥底には生きているエネルギーを感じるような、

今の悩みだらけの自分の延長線上にいるようで、すごく引き込まれるのである。

私は、精神的にものすごく安定している方ではない。感情の波があるし、不安な事があると眠れなくなるし、緊張ですぐに胃もお腹もいたくなる。

そんな自分も年を重ねれば、経験と場数を重ねればいつしか不安の全くない落ち着いた大人になれると思っていた。
しかしながら、23年も生きてみると、

どうやらそんな人にはなれなそうだ。」

と薄々気が付いてくる。と、同時に、おそらく私の周りの強く生きている思えていた人にもそれぞれ、強烈な葛藤があるだろうことに気が付く。

では、私が今まで抱いていた一人の人間として成熟する安定した大人という像はどこから出てきたのか。

つい今サウナのテレビで流れていた鬼滅の刃で炭次郎が

「歯を食いしばれ、考えろ。誰一人の命を無駄にするな。今自分にできる最大限のことをやれ、考えろ。逃げるな。」

と言って歯を食いしばり、口から火を噴いていた。

炭次郎すげえなと思った。けれどそこに少し違和感もあった。

これまでも私はフィクションから大きな力をもらってきた。
スラムダンク・風が強く吹いている・ヒロアカ…etc

そこに描かれる登場人物は、強くて逞しくて、青さや挫折はあれどそれを何とか強く乗り越えていく。仲間と共に個性を生かしながら、自分の命を最大限輝かせている。生きることの美しさ、人とつながっていくことの尊さ。
それらが徹底して描かれている。

また、フィクションだけにとどまらない。テレビでは芸能人たちが華々しい世界に生き、同世代は華々しくスポーツで活躍し、さらに下の世代はアイドルがステージで懸命に輝こうとしている。

そういったものは確かに私に、清く正しく美しく生きる希望を与えてくれたし、それらが決して間違っているとは思わない。私だけでなく、誰かにとっての希望だし、私たちの世界を広げる役割を果たしているとも思う。

でも決して、その明るい輝いた部分だけがそのすべてではない。
し、彼らだけが光だという見方、メディア、芸能だけが光であるというような現代の価値観にも僕は少し疑問を抱く。
この部分が見落とされることがあっては、それは息苦しい、つらい世界だと思う。

世界は決して光だけではできていない。

そういった意味で、今この時代を共に生き心躍る音楽、漫才、文学を紡ぐ人々がその裏面に、将来への得体の知れない不安、割り切れない葛藤、ドロドロとした感情、病との闘いを抱えていること。

その苦しい感情に蓋をせず、私たちに共有してくれ、それと共に日々を過ごし創作を続けていることに私はすごく勇気づけられたのである。

自分の輪郭をなぞって昨日との違いを感じ取り、そこに自分の存在を確かめていく。更新され続ける自己とその中で変わらない自分を見出していく作業。

私が素敵だと思う彼らはみな共通してその作業をしている。

本名の一つもわからない、スクリーン上の誰かではなく

同期の中で優秀な彼でもなく、

自分の実績を超えた後輩でもなく

私は私であり、どれだけ他と自分を比較しても自分が確立されていくことはない。

自分の中にある情けなくて、汚くて、弱くて、どこかいとおしくも憎たらしい、そんな自分に向き合い続ける他に前に進む術はない、むしろそれこそが人生の本質なのかもしれない、と気が付かされる。

そういった意味でこの3人のエッセイ
星野さん
「よみがえる変態」
若林さん
「ナナメの夕暮れ」「社会人大学人見知り学部 卒業見込」
「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」
西加奈子さん
「くもをさがす」

は別の話をそれぞれの視点から語っているのだけれど、今の時代だけでなくて、どの時代にもきっと普遍的で共通した

「私とは何なのか」

に向き合いづづけている人たちで、僕はそれに勇気づけられたのである。

「お前がお前やと思うお前が、そのお前だけが、お前やねん。」

西加奈子-くもをさがす