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「環境は偶然で責任は必然となる時代に私は社会とどう向き合うか」

<責任>の生成-中動態と当事者研究を読んでの感想を綴ります。

【本書の要約】
副題にもある通り本書は國分氏の研究である「中動態」と熊谷氏の研究である「当事者研究」が相互に作用しあいながら多様な議論を生み出していく過程を対話形式で語ったものである。

現在の能動態と受動態にきれいに二分される前、そこには中動態が受動態を内包する形で能動態と対立していた。中動態の定義は自身がその動作の過程の中にあることであり、自分がその過程の場所になっていることを表していた。そこでの中動態は”そこに私がいる”という状態が “I appear” とも “I am shown” ともどちらの意味も持っているということである。この中動態で表すのであれば対立しないこれらの言い回しが、能動態と受動態と対立させることにより行為による意思を問題にするようになった。つまり國分は、中動態の消滅と意志概念の勃興には関連性があるという大胆な仮説から、現在の能動/受動という価値観で責任の所在を追求する考えに疑問を投げかける。

また、國分は行為の源泉としての現代の「意志」というあり方にも疑問を投呈す。我々の精神の中には無からの創造のような何もないところから「意志」が突然現れるのではなく、過去や外界の環境からの刺激の影響を受け続けているものであることから、何ものにも先行されない自由意志は不可能である。にもかかわらず我々は日常的に「意志」という概念を利用する。これを意志信仰であり、「意志」という概念を使うことにより過去や環境との因果関係を恣意的に切断し、「意志」の概念によって行為をある主体に所属させることを目的としている。國分はこうした「意志」の概念によってもたらされる責任を批判し堕落した責任と称す。責任を本来の形で再び救済することを試み、その在り方としてASDや依存症の向かい方の一つとして行われている当事者研究に可能性を見出す。

当事者研究とは熊谷らによって行われてきた、日常生活に苦労を持つ障碍の当事者同士が自分のことを知るために互いに言語化していくものである。これは能動/受動の世界に浸かった当事者たちを中動態的枠組みへ引きこんでいるともいえる。このプロセスの最も注目すべき点は自身の行った行為を環境の一部として捉える態度(外在化)を持つことにより問題と本人が切り離され当事者が免責されることにより、逆に当事者は自分のしたことの責任を引き受けられるようになるという。

この当事者研究は意志を根拠に責任を追及するのではなく、過去に向き合ったり、環境と応答したりする形で初めて人々は責任というものと向き合えるという示唆を与えている。
中動態という一見無責任に聞こえる姿勢は、実は本書のタイトルの<責任>に至るには最も根源的な過程であるのかもしれない。


【感想】
私はかつて障碍者であったといえるかもしれない。外で一向に左目を開こうとしない私に両親が疑問を持ったのは私が3歳のころであったらしい。幸いなことに近所にいた腕の良い医者が重大な疾患を懸念し紹介してくれた大学病院で明らかになったことは、私が先天的な白内障であり左目の視力がほとんどない(0.01を下回る)ということであった。

 なぜこのようなことを告白するのかというと、熊谷が述べる医学モデルをまさに体験したことをこの書籍を読みながらありありと思いだしたからだ。熊谷が体をあざだらけにしながらリハビリを行ったように、私も手術により濁った水晶体を眼内レンズに取り換えた後、網膜神経を刺激し視力を回復するという目標のもと泣きながら毎朝母にハードコンタクトレンズを装着され、家に帰ると見える右目を専用のシールで覆い左目だけで生活するというリハビリを行っていた。そんな努力もむなしく人工レンズで視力が0.01から0.2弱まで上がった以降視力が上がることはなかった。こういった点では私もかつて典型的な医学モデルによって障害と向き合っていた経験があるといえる。

にもかかわらず本書を読むまで、あるいは医学モデルに浸かっていた私だからこそ身体障碍者や知的障碍者が声高に自身ではなく社会が変わることを要求することに違和感を持っていた。恥じねばならないことである。そんな私の思考を鮮やかに180度転換させた鮮やかな1節を本書より引用する。

「アメリカ人と日本人のコミュニケーションがうまくいかないときに、『日本人はコミュニケーション障害』というのは早合点であろう。-中略- つまり、自閉症的傾向を持つ人が定型発達障碍者の言わんとするところを理解できていないのであれば、定型発達者もまた自閉症的傾向を持つ人の言わんとするところを理解できていないということになります。」

この例えは、障害が周囲との環境により顕在化すること。そしてそれらが医学モデルではなく社会モデルによって解かれうるべき課題であるということ端的に表している。


なぜ私が先に「かつて障碍者だった」と過去形で示したかと言えば、まさに私の環境及び周囲の環境が変わることにより私の障害が顕在化しなくなったからだ。年を重ねるごとに視力の悪い人は周囲に五万といるようになり、何より私が片目しか見えなくても立体感のない日常を図式化することによりそれが何不自由ないということに気が付き始めたからである。車の免許ですら片目が見えていれば取れるように周囲の環境が私の障害が顕在化しないように社会の側が変容しているのである。私はかつて自身が障碍者でありながら甘んじて無意識に社会モデルの恩恵を受けていたからこそ、社会モデルを要求する障碍者をいぶかしく思っていたのである。

本書終盤、國分はアベガンの「身体の使用」をプラトンの『アルキビアデス』から鮮やかに読み解く。靴職人と彼が使用する刃物が別ならば靴職人の目や手は別だということになるかという問いかけから、使用を通じて自己が生まれるのであって自己は使用以外の何物でもないということへとつなげていく。そこで私は、私の目ですらも私自身そのものではなく環境の一部だということに気が付く。

そんな中に能動/受動の価値観だけで障害を私の中から発せられるものと捉えられてはたまったものではない。私の目もまた私からすれば外にあるからである。とするならば環境とは言ってしまえば偶然であり私たちが、それを100%選択することは到底かなわない。私は自分の左目を生まれつき選ぶことが出来なかったように、ASDをはじめとした知的障害もまた環境の一部であるといえよう。そんな彼らだけに、責任を必然として一方的に追及する姿勢がいかに横暴で不寛容かに気づく人がこの社会にどれだけいるだろうか。私もまたこの本を読まなければこのことに思い至らぬまま社会へ出ていたかもしれない。講義中に教授が言っていた「変わるべきは社会である」という言葉が今になって突き刺さる。

これ等の思考はは身体・知的障害に限った話ではなくさらなる社会へと拡張されうる。現代の社会は定型発達者によって作り上げられた能動/受動の価値観に染まり切っている。車の暴走事故が起きれば、運転手を徹底的に断罪しその能動性を根拠とする意志を後ろ盾にあらゆる攻撃を許容する社会となってしまったともいえる。銃による黒人の射殺が起こった時に、銃社会ではなく差別社会を糾弾する。私は決してその当事者たちを免責したいわけではないしが、それらの社会は過去や当事者たちを取り巻く環境に大きく依存しているにも関わらず「意志」を後ろ盾にすべてを切断し責任を負わせることに躍起になっているようにも思えてくる。

環境は偶然で責任は必然とされてしまう時代に私は社会とどう向き合っていくのだろうか。

本書を読む中で私がこれまで用いてきた自己責任という言葉が私の中で大きく崩れ去った。私たちを取り巻く環境は不可分である。何か不都合なことが起こった時、そこに意志と責任の概念を用いて特定の個人や物事に転嫁し思考放棄するのではなく、その時私はどのようにその事象に向き合うべきだったのだろうかということを不断に考えていく必要がある。

これはまさに能動/受動的に社会を動かすでも社会に動かされるでもなく、中動態的に社会(環境)の一部になっていると言えよう。本書を通じてそれが将来都市と関わる仕事を目指す私にとっての責任との向き合い方であるように思うとともに、街との向き合い方も大きく変わったように感じる。私が誰かの隣人であるのではない。私が誰かの隣人になるのである。