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その氷が溶けない限り。~前編

人の発達支援に関わって15年以上、人材系領域に関わってであれば25年になりますが、つくづく思うのは、「『発達支援の一環』という役割で、セラピーが根付いてほしい」ということです。

セラピー(therapy)とはもともと、「治癒・治療」という意味で、それを専門に扱う人をセラピストと呼びます。認知度が高いのはアロマセラピーやフットセラピーなど主に「身体の癒し」かと思われます。ほか、「心理(サイコ)セラピスト」という職種名があるように、「心理面の癒し」分野もあります。「その領域の知恵や技術を使って人に癒しをもたらす」という考えにのっとって、「ハーブセラピスト」「サウンドセラピスト」「フードセラピスト」などなど、多様なジャンルがあったりします。

さて。
人の発達・成長支援の領域にずっといて、多くの方々のケースを観させていただくとともに、もちろん自分自身の人生を実験台にいろいろなことに取り組んできた私は、冒頭の繰り返しになりますが、「セラピーは発達に欠かせない」と強く思うのです。今日はそんなお話をしたいと思います。
(長いから2つにわけました)

1.「弱さ」は悪なのか?

社会的に一定の成功をおさめた、いわゆる優秀層・エリート層と呼ばれるようなビジネスパーソンの支援に関わらせていただくと、多くの方が

「ずっと、突っ走ってきた」
「ずっと、勝ってきた」
「ずっと、努力をしてきた」
「ずっと、上を目指してきた」

とおっしゃいます。そしてその姿勢こそが、今のその方々をつくってくれたのです。

けれども私と対面するということは、今のご自分に違和感がある、ということ。違う言葉でいうならば、「もうこれ以上、このままの自分では前に進めない」「この自分を延々と続けていくのは、もう無理なのではないか」という感覚がある方が少なくありません。同時に、「だからといって、はて、どうしたものか?」という壁にぶちあたっています。違和感があったとしても、その足を止めるわけにもいかないのです。まるで、ネズミが走って滑車を回し続けるように。

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そういう方々には共通点があって、多くの方が

「止まってはいけない」
「成長し続けるのが善である」
「スピードが大事だ」
「強くなければならない(私は強い)」
「脳がちぎれるまで考え抜けばきっと抜けられる」

と思っていらっしゃいます。
でもですね、脳がちぎれたら死にますよ(笑)。

ま、それはたとえ話&冗談だとしても……

これらのことはすべて、生き物としての原理、そして発達・成長の原理から離れた考え方なのです。ですが私たちは、そもそも生き物の原理や発達・成長の原理などを教えてもらう経験がありませんでしたし、これまでの学校教育やビジネスの中で「成長し続けること」「スピード」「走り続けること」が「善」だと鍛え抜かれてきたので、至極当然ともいえます。
(繰り返しますが、そもそもそれによって今のご自分があるし、ある意味それがご自分を助けてくれた面もある。すべてが悪と否定するわけではありません)

ただ、今。
その「良かれと思ってやってきた方法」では、もう立ち行かないのだとすると。それはある意味、次のステージに行くタイミングにあると言っていい。

ならば、それまでの方法を使っていては、もう、進めないはずなのです。
だって、それは、過去の方法だから。
たとえば、こんなアイデアを採用したら、何が起こりそうでしょうか?

「止まってはいけない」→「いったん立ち止まってみるといい」
「成長し続けるのが善である」→「成長し続ける、は幻想である」
「スピードが大事だ」→「ゆっくりすることが必要だ」
「強くなければならない(私は強い)」→「弱くていい(私は弱い)」
「脳がちぎれるまで考え抜けばきっと抜けられる」→「頭を使わない方が抜けられる」

それまでこだわっていた考え方を離れ、軸足を移してみる。ある意味それが、次のステージへの突破口になるのです。

2.発達とは「自我の縮小過程」である

ところで、「発達・成長」と大きくくくっていますが、その中身は、2つに分かれます(という考え方を私は採用して仕事しています)。それは、

●器
●能力

の2つです。それぞれは、たとえるなら

●器=PCのOS。being(在り方)が表れる。意識。自我
●能力=PCでいうならアプリケーション。doingはこちら

そのうち、今回フォーカスしたいのは、「器(自我)」の方です。器と能力の成長は、ともに影響し合いながら進むのですが、とくに私のよく観るケースで、冒頭の「セラピーが必要だ」という考えに関わるのは、「器」の方だからです。(とはいえ、能力も無関係ではありませんが、今回は分かりやすくするためにも「器」にフォーカスを置きます)

見出しの「発達とは自我の縮小過程である」というのは、スザンヌ・クック=グロイダーというスイスの研究者の表現です。
発達・成長すればするほど、自我へのとらわれが減り、外の世界を認識する能力が高まっていく。自己中心性が減り、自分と他者、そして世界への理解(認識力)が高まっていく、というのです。

次のステージへ発達・成長する際は、自分がこれまで認識していた「自分(のものの見方)」が壊れる、もしくはそこへの執着(握りしめる力)が緩んでいく、ということが起こります。
それは「スッキリする」感覚もあるでしょうが、「痛み」「悲しさ」などの苦痛を伴うこともあるはずです。なにせ、世界が変わってしまうのですから。価値観が壊れる、価値観がアップデートされる体験、とも言えるのですから。

その節目にこそ、セラピーが必要だと思うのです。
痛みを癒してから進まないと、いつまでもその傷は残ったまま。古傷として、何かの拍子に痛み始めます。しかも、無自覚に。

**************

私の体験をお話します。
以前にも書きましたが、私は今の結婚が3回目で、パートナーシップのプロセスではいろいろな学びがありました。
2回目の離婚の後が一番辛くて、その時に、私の内側の大改革が起こりました。その、初期段階の話です。

まだ、それまでの自分の姿を客観視(専門用語では「客体化」といいます)できていなかった頃。つまり、自分の課題(と痛み)に気づいていなかった時です。

2回目の離婚後、私は自分を癒すために、海外一人旅をはじめ、いろいろなところへ出かけました。行ってみたかったところへ行き、一人で気ままに過ごして、思い切り自分を甘やかしました。
そんな旅のひとつ。人生初めて、出雲大社に出かけた時のことです。
さすがに「縁結び」という気持ちにはなれず、何が目的だったかと言えば、「神迎神事」です。日本中がいわゆる「神無月」になる中、全国から神様が集まり「神在月」となる出雲の海辺で、神様をお迎えする儀式です。
それはそれは素晴らしいもので(今回は割愛)、嬉しい気持ちでホテルに戻り、母親に電話をかけました。この楽しかった気持ちを聞いてほしくて。

電話をし、「今どこにいると思う?出雲だよ!神迎神事というのを見てね、素晴らしかったよ」なんてウキウキ話す私に、母は「良かったねえ」と返事をしつつ、こう言いました。

「きよちゃんさ、もっと、お母さんたちを頼ってくれたらいいのに……」

二度目の離婚で傷つき、一人で旅に出ている私を思う、親の言葉でした。
楽しそうに報告しているけれど、決して、100%元気なわけではない、ということを察したのでしょう。

その言葉を聞いた私は……………

なんと。

思い切り、ブチ切れてしまったのです。
しかも、瞬間的に。

「は?何言ってんの?お母さんは、子どもの頃からずっと、『自分でやりなさい』と言ってきたじゃない!!」

我が家は放任・自由主義で、子どもの頃からずっとずっと、私が「やりたい」と言ったことに反対されたことは一度もありません。「勉強しなさい」も、一度も言われたことがありません。自分で決めたことを自分のやりたいようにやらせてもらいました。自由にさせてもらって、私の意志を尊重してもらった、と思っています。

「『自分で責任とれることは何をやってもかまわない』と言われ続けてきて、今更そんなこと言われたって困る!!」

先ほどまでと打って変わり、突然激高した私に、母はかなり戸惑っていましたが、ふっと空気が変わり、こう言いました。

「いいよ、言いたいことがあるなら、言いたいだけ言いな」

よおし、言ったね。
とばかりに、私はそこからまた、ものすごい勢いで、支離滅裂に、子どもの頃の不満(だったと思う)をぶちまけました。そして、「今更、何言ってるの??」となじりました。
母は、ずっと黙って聞いていました。5分くらい経ったでしょうか。

「あのね、黙って聞いてりゃ……!」

母の反撃。
イメージは、ダラリと下げていた両腕を、ファイティングポーズに変えたボクサー。
ゴングは鳴った。(笑)

で、その後の展開は覚えていませんが、おそらく私が一方的に電話を切って、その後2-3ヵ月音信不通になったような……結局、私が謝って戻ったんじゃなかったかな。

いやあ、もう何年も前の、恥ずかしい話です。
が、本当にあの体験は気づきが深くて。
なぜなら、あの時のブチ切れは、「顕在意識ではまったく理解不能」だったからです。
重要な点は、顕在意識、つまり自分で認知していた世界では

●私は子どもの頃からとても良い育て方をしてもらってきた。私を尊重し、自由に、好きなようにやらせてもらってきた。そして、その道のりを気に入っていた
●母との関係は、ずっと良かった。普通の反抗期程度で、とても仲の良い母娘。女性としても、母を尊敬していたし、好きだった
●直前まで旅行の楽しい気分で、親への不満など一ミリも感じていなかった
●母は、優しい言葉をかけてくれた。何か嫌味を言われたり、責められたわけではない
●私は自分の決断で、今の状態になっている。それは受け入れている、と思っていた


ということです。なんら、激高する理由がなかったのです。
自覚できる範囲では。そしてそもそも、電話を切った後、「今の、なんだったんだろう……??」と、私自身が、まったく理解できない状態にあったのです。

母が私を思いやる一言を引き金に、認知が介在するすき間もなく、秒以下の勢いで沸点に達してしまった、その根底には………
深い深い悲しみと痛みがカチカチに凍り付いたまま、長い月日、静かに息をひそめていたのでした。そのことに気づいた体験だったのです。なお、母とのことは単なるキッカケに過ぎず。
その後、その痛みと悲しみを癒すため、氷を溶かし、絡まりをほどく、あらゆるワークに取り組むことになるのです。

**************

癒されなければ、次にいけません。
その、凍り付いた心が溶けない限り、次のステージに行くことはできないのです。ちなみに上記のプロセスを経て私が体験したのは、凍り付きを溶かした先にある、豊かな世界でした。それは、その前の自分には予想もつかない、想像することのできない世界でした。

発達領域の言葉に、「エゴ(自我)の背中を見送る」という表現があって、私はそれが、大好きです。
エゴは、悪いものではありません。それまでの私を守ってきてくれた、そしていろいろな成果をあげるために活躍してくれた、大切な相棒です。
「見送る」行為は、その相手が大切だったり、好きな人だったりの時にしませんか?(去っていくのを、わざわざ時間をかけて見続けるのですから)
「エゴを捨てる」とか、「エゴを無くす」じゃないんです。「エゴの背中を見送る」なのです。

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もうひとつ、発達領域にある表現で、

「発達とは、包み込むことだ」

というのがあります。過去の自分を無くすのではなく、包み込みながら、大きく拡張していく、という考え方です。

エゴがゼロになることは、おそらく、よっぽど、無いでしょう。
(「自我の縮小過程」という表現にもあるように)
だから、「エゴを無くす」「排除する」という考え方では、うまくいきません。

エゴを小さくしていく。そのためには、癒しが欠かせないと思うのです。

後編へ続く)

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