イルディコー・エニェディ「心と体と」
奇妙なバランスの作品であった。いったいなんの話をしていたのだろう。たぶん、運命とか見えない糸とか、あるいは愛の形の無限のバリエーションへの讃歌とか、そういうことについて何か言っているんだが。
基本的な構造としては、ハネケを筆頭とするオーストリア系の正統派のリアリスティックな絵作りと演出なのだが、そこで語られている内容というのが、あろうことか純粋なファンタジーなのである。そして、なんと驚くべきことには、ほんとうにただそれだけなのである(笑)。本気で拍子抜けする。
不具者というのは、身体的に接近することが様々な障壁によって互いに難しいので、まず心でつながる必要があるわけだが、その経路が「夢で逢えたら」とはこれはまたベタである。そして、夢にそれ以上の意味がどうやら何もないらしい(あるとすれば、鹿はわりと可愛いし、純粋さの表現として適切である、という素朴な事実である)。したり顔でカウンセラーがふたりほど出てくるわけだが、「夢で逢えたら」の神通力の前には、まったくもって無力である。恋は不可能を可能にするのだ。
それでいいのか。まぁ、べつに悪いことなどなにもない。愛を語るのに大掛かりな仕掛けなど必要でない。ただ、はじめから好き合うふたりがいて、なんのかんのと理由をつけて、右往左往しつつ、最終的には結ばれてハッピーエンド。それの何が悪いのか。たとえ、それがアスペルガーの若い美女と左手の動かない初老の管理職との恋であっても。「私はあなたを死ぬほど愛しています」と言えればそれでよいのだし、そこに理由などないのだ。何しろ、はじめからそうなのだから。そこに他者から見た場合の妥当性にまつわる議論などまったく無意味である。
然り。はい、なんの異議もございません。うむ、たいへんモーパッサンっぽい。たしかに我々は救いがたいわけだが、今回は救いがたく幸福なふたりの話だった、というだけのことである。
ちなみに対になるのは、ハネケ「ピアニスト」だろう。こちらでは老いているのは女性のほうであり、若く健康で才気にあふれる若者が相手である。音楽大学というエリートコミュニティの話でもあり、話はほとんど同一の流れをたどるが、結末はバッドエンドである。一緒なのは、血を流すのは女のほうだし、一途なのも女の方だ、という点だ。男はどちらの作品においてもだいたいにおいて間抜けで、きわめて打算的ある。
しかし、女は恋におちるのであり、男は遅れてそれを恋だとみなすのである。
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