スクリーンショット_2019-09-22_20

伊藤智彦「HELLO WORLD」

京都に越してきて一年半あまり、カメラを始めて半年あまり、ということで、京都を舞台にした、しかも私たちプログラマにとっては、特別な熟語であるタイトルを帯びた作品ということで、まぁ、観てきたのであった。

結論からいえば、たいへん雑で稚拙な作品であった、というよりほかないだろう。主たる舞台に京都という土地を選択した必然はほぼ皆無と言ってよかったし、HELLO WORLD という語句の解釈はともかく、その表出の実践についてはまったくもって稚拙であったというよりほかない。

たぶん、私には本作に対していくつかの相反する期待があったのである。ひとつは京都という土地に深く結びついた風景描写、心理描写、文化風俗描写であり、もうひとつは、SAO 以後の段階における日本的 SF による超越表現であり、さらにもうひとつは、この明らかに相反するふたつの主題を統合するコンセプトとそれを十全にたどることのできるストーリーテリングである。これらのどれひとつとっても十分な水準に至るのは至難の業であるわけだが、ましてやこれらの高度な総合などというものは、たしかに過度の期待というものであろう。

(おそらく、残念なことには)この「HELLO WORLD」という作品自体には、私のこの期待とほとんど同じ企図が実際にあったのである。そして、それらのすべてが、実際に消化不良であったのだ。

まず、京都という土地の描写についてであるが、私の観にいった京都駅前の AEON には、でかでかとご当地映画という売り口上がつけられているのが、観ているこちらがしょうしょう恥ずかしくなるほどの水準であった、というのはまことに残念である。おそらく監督も脚本も美術も、一度として京都に暮らしたことがないのではないかと思われる。おそらくこの企画自体が成立することになったであろう新海誠作品における土地の選択の繊細さと比べてみれば、そのあたりは一目瞭然であろう。新海誠の作品はいつでも、ごく一部の者たちだけにとって重要な意味を持っていた地点を、その性質を丁寧にすくい上げつつ、精緻な描写によって増幅することで、そこに馴染みのない者たちにとっても特別な場所になるように、ひじょうに入念かつ真剣な検討が為されているわけだが、それに対応するような何かというのは、まったくの絶無であった。おそらく日常生活の場としての京都なるものの描写がただそれだけで価値を持つのだ、なぜならあそこは基本的に観光地だから、というような考えから、あのような地点たちが選択されているわけなのだが、たったそれだけの考えで、土地の多面性、多様性が出るなどというのは安直きわまりない考えである。ましてやここは京都である。すべてのオブジェクトに歴史が貼りついているような場所で、その程度の基準で選択されてしまった場所からは、その場所自体を成立させている奇妙な生い立ちや性質がすべて脱色されてしまい、その結果として残るのは、ただの無色透明な現代の地方都市、あるいは無駄に造形に力の入っている建物たちといった側面だけなのである。

きわめて残念なことに、このような安易な土地の選択が、この作品全体の描写の必然性の可能性を根本的に剥奪してしまっており、この舞台装置の上に構築された世界像すべてが、和風、という以上のコンテクストを帯びることができなくなってしまう。劇中、数回にわたって世界の界面が歪む、または崩壊するという描写がなされるのだが、そこにあるのは、ようするに、その場がまさに現在的な意味でのデジタル以上のなにものでもないというだけの内容をもった記号である。

だが、量子コンピューティングによって無限の記憶容量を得た情報インフラによって再構築された空間に、それも京都なる土地に、それだけの情報しか載っていない、ということがはたしてありうるだろうか。百歩譲って、もしそうなのであれば、なぜあのプロジェクトの実装の土地として、京都が選ばれたのだろうか。

この問いに応えることができていない、というのが、基本的にこの作品のすべてである。そして、悲しむべきことには、この作品のコンセプトそれ自体はとても巨大で、また適切なものでもあったので、この舞台装置の根本部分に対する必然性の不足はあまりにも致命的なのであった。逆にいえば、もしここで、土地と SF 的ビジョンとを丹念に結びつけていたら、あるいはそのふたつを架橋するストーリーテリングもまた違った形になったのかもしれない。

HELLO WORLD の SF 部分の、すくなくとも最初の部分であるコンセプト、あるいはビジョンは適切で、また楽しいものである。すなわち、人間の脳と質的に同等で量的に凌駕する情報を保持することが可能であれば、存在の真正性なる価値は無効化するというものである。つまり、我々はそこが仮想世界であるか否かについて思い悩む必要はないし、むしろそこでは意志の価値なるものが最大化されうるのだ(つまりセカイ系ということだが)、と言いうるのである。そのためにひも理論が提示する多元宇宙のイメージをベースに、その実現形態を直近の情報処理装置のホープである量子コンピューティングに求める、というのは、まずまず理にかなっているといえる。そして、そのような仮装世界だけに生きるものにとって、そこが仮装であるかなどということはまったくどうでもいいことだ、というのも、SAO 以後の世界観としてはまったく適切である。(蛇足だが、これとほぼ同じテーマを新海誠も「君の名は。」「天気の子」と繰り返しとりあげている)

すなわち、感情をともなった意志の発露がタイムパラドックスを生じさせるという問題は古典的だが、ひも理論以後においては、この点がクリティカルだというのはまったく適切でない。なぜなら、根本的に時間というのは多重のものだからだ。単一の事実とその系列だけが世界を構築している、というのは、若きウィトゲンシュタインの蛮勇であったが、そろそろこの価値観それ自体を疑うどころか、棄却すべきタイミングである、というのはまったくもってそのとおりである。私たちは文字どおり、量子的に輻輳化された無限の(つまりアナログな)状態の観測のひとつに過ぎないのである。

HELLO WORLD で提示したのは、ようするにそうしたアイデアであるわけなのだが、この多重化された状態の表現なる、かの「インターステラー」でさえうまくやりおおせたとは言い難い主題のビジュアライズに、とてもではないが、成功したとは言い難い。コンセプトの難解さをストーリーテリングの単純さによって補おうとしたようなのだが、試みはまったくの失敗といってよいだろう。結果として、たんに感情移入のしづらい、きわめてステレオタイプな、内気な青年とツンデレな彼女という構成になっている。彼ら自身のパーソナリティへの描写も、その科学技術へのリテラシーや、文学(というよりは本という媒体)への愛情といった基本的側面においてでさえ不十分である。普通に生きていた、コンピュータではなく、本が好きな若者が、最先端の情報処理プロジェクトの主任技術者になるなどという物語が説得力を持つことはない。あるいはラノベ系の TV クール作品であれば、そのあたりをある程度まとまった分量の日常描写などで補えることがあるかもしれないが、残念なことには、これは 90 分強しかない映画作品であるし、ましてや巨大なコンセプトを取り扱おうとする作品である。そこでのひとつひとつの説得力は極めて重要なわけだが、まったく深みのある解釈は出現しなかったのであった。

かくして、ストーリーテリング自体も失敗する運命にあったというよりほかない。人物と土地にほとんどなんの説得力もなければ、当然のことながら、それらを用いてなされる活劇の描写も説得力を持ちえないのは自明であろう。

ただ、一点だけ、この作品のストーリーには見るべきところがある。そして、それはおそらく意図されていないもの、偶然の産物である。すなわち、これが本質的に犠牲の物語である、という点である。すなわち、実質的主人公は中学生のほうではなく、その十年後の青年のほうだ、ということなのだ。彼を中心に据えることで物語はまったく異なった色彩を帯びることになる。すなわち、劇中では、ほとんどテンプレートとして扱われているこの犠牲の深刻さによって、この「HELLO WORLD」なる作品は結果的に gattaca の系列への参入を果たしているのである。

犠牲とそれによる昇華というのはありふれたテーマだが、それが完全な対を形成することは、ストーリーテリングにおいてさえ、実際には稀である。ひじょうに不完全ではあるが、10年後の主人公のほうを中心に据えることで、犠牲と昇華が釣り合う状態が成立している。それも、彼が実際には劇中では中心として描かれないことによってである。

このことは全体としては偶然の産物ではあるが、ある程度、企図されたものであるのは、ラスト1分の描写でも示されている。それはたぶん、世界の輻輳化を示すどんでん返しという以上の意図はなかったのだが、結果的に、犠牲と昇華の対称系を構成しているのである。gattaca はこれを遺伝子に着目することで作り出した。HELLO WORLD はこれをタイムパラドックスによって作り出している。

全体としてはとくに見るべきところがない作品であるが、もし犠牲と昇華の問題、すなわち gattaca の問題に興味がある方はいちおう観ておくことをお薦めする。ごく小さくではあるが、結晶となったそれを目にすることができる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?