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山菜夜話5 タラノキ

タラノキの新芽がタラノメである。タラの穂のようでもあるからタランボなどと呼んだりもする。タラノキには棘の出方によって呼ばれ方に違いがあって、飛び出す棘も荒々しい威厳ある姿の鬼たらと、棘の少ないしっとりとした幹肌のもちたらとがある。新芽のまわりに棘のないもちたらの方が、折り採りやすそうだから、きっともちたらとの出逢いを求めるだろうと思われるかもしれないが、せっかく山に趣いてタラノキに出逢うのならば、私は断然、鬼たらと出逢いたいと思う。何と言っても迫力が違う。カブトムシやクワガタムシに心躍らせる、少年時代の興奮に似ているだろうか。根元が太く頑丈で、稜線は鋭利な刃物を思わせ、先端は空気を突き刺してひと欠けもしていない、そんな見事な棘をまとっているタラノキに、大型甲虫に惚れ込んでいる子供のように釘づけになる。新芽を折り採る際に失敗すると指にぐさりと来るが、そのくらいはタラノキとはお互いさま。魚ならば、まな板の上で暴れるし、昆虫ならば噛んでくる。タラノキと、命のやりとりをしていると思えば何でもないはずである。

タラノキ1

タラノキの新芽を摘むのは、一番最初の芽のみにして、二番芽・三番芽などの脇芽は残しておくべきであろうと思う。もしもそのまま、タラノキが枯れてしまっては、それから先、その新芽を摘みとること自体が出来なくなってしまうわけだから、先を越された者は自らの欲望を抑えて、そのほかの山の愉しみを味わうべきである。わかりきった決まり事だが、それがなかなかに難しい。山菜採りの趣味性・娯楽性が理解されている土地にあっては、守られているようには思うが、山菜採りが、欲望・収益と不可分となっている土地にあっては、はてさて無法がまかり通る。時季を選んで山入りしたら、ふくらみもまだ小さいうちから折り採られた、貧相なタラノキの列に遭遇することも多くある。それならば我もと、目に入ったふくらみの小さい新芽に手を伸ばしてみるのだが、そんな無法なライバルたちと競って、タラノキの生長のための余力を奪うのは愚かなことだ。タラノキとの付き合いの方をおもんばかって、そっと小さい新芽を残してその場を立ち去る。一番芽が掻き採られたタラノキをみつけたときは、飄々・恬淡としてその場を去る。それが、山菜採りの心意気というものである。

タラノキ二番芽

ときおり、タラノキの枝の先端が、刃物で平らに削ぎ落とされているのを見かけてしまう。タラノキがそれ以上樹高を上に伸ばさぬように、生長点を削ぎ落としている行為であるが、そんな姿を見せられるたびに、それまで高まっていた山菜採りの興も、ざっくりと削ぎ落とされた気分になる。荒れ地における先駆植物であるタラノキは、傷めつければ傷めつけるほど繁栄するという考え方に従って、そんな行為が行われている。ワラビなどは、折れば折るほどにその地下茎の伸び行く範囲が横に広がり、ますますその勢いを増すという説があり、ネマガリタケに至っては、同じ場所で採集される筍はほぼ同じ個体から採れているというほどに、その地下根は見渡す限りの面積をひろがっているのだともいう。タラノキもまた、地下根や切り株からの発芽を繰り返し、たくましく育つのだとの見方をする山菜採りの先達がいる。採集するのに、手の届かないところにまで伸びてしまった枝や幹を、すっぱりと鉈で切り落とし、同じ高さにタラノキを揃えてしまった管理栽培地のようなタラノキ山も存在している。それはそれで、ひとつの考え方ではあろうが、やりすぎは山菜採りの風情を損なう。

タラノキと山

タラノメは、袴から葉のやや伸び出したものを、豚肉と醤油で煮るなどの食べ方をすることもあるが、一番の食べ方はやはり天ぷらである。コクの味わい深さは、山菜のなかでもとびきりであろう。天ぷらの衣のなかに封じ込められた濃厚なコクと香ばしさは、その膨らんだ穂先のボリューム感からくる食味ともあいまって、たまらなく美味しい。春を迎えれば、好んで採集に赴きたくなる山菜のひとつである。とはいえ、タラノキは林道のすぐ脇にもその姿を現すパイオニア植物である。その味覚に取り憑かれ採集に向かうライバルの山菜採りたちもまた多く、人目に触れやすいタラノキはたちまちのうちに折り採られている。人目に触れないタラノキ山をひとつ探り当てれば、ひと春、だいぶ気持ちは楽になるのだが、そんな山でもライバルたちはやってくる。悲しいかな、人懐っこく里近くにまで下りてきてくれる割りには、人間との付き合いに疲弊させられることの多いタラノキである。もうそろそろタラノキたちも、人間との付き合いには疲れただろう、山奥に引きこもってはどうだろうかとねぎらいたいと考えるのだが、人里ちかくにあらわれるその人懐っこさは変わらない。タラノキは、あえて人と関わろうとしているものか、反対に、人を誘い込もうとしているものか。

タラノキ2

タラノキの幹は、薄暗がりで出遭った折りには、遠目からでもはっと思うほどの色白さであり、妖しい光をたたえて、静かにたたずんでいる。高貴で貞淑ではあるものの、どこかに冷たさ・酷薄さを秘めている、小泉八雲の描く雪女のようなイメージでもあり、貴女から鬼女に転ずる鬼無里の紅葉のようなイメージでもある。もちたらの肌と思って手を伸ばせば、気づかぬうちに鬼たらへと転じていたなどと、タラノキの魔性を感じる瞬間である。とはいえ、貪欲なる山菜採りの業として、タラノキの真白い幹が闇に浮かべば、森の奥へ奥へと誘われてゆく。点々と立ち現れるタラノキの白い幹に吸い寄せられるように山を歩けば、そのまま異界の領域へと連れていかれそうな、妖しい気配が漂ってくる。この白く美しいタラノキは、己の姿しか浮かび上がらせぬような深い闇の奥に人を誘い込み、その棘の鋭さでもって私の血をすするであろうか。仄白い肌の女がこちらを手招きするかのように、タラノキの白い幹肌が、遠くの薄暗闇にぼーっと淡く浮き上がって見えている。はやくここまでおいで、急いで来ておくれと、風のそよぎゆくその先へと誘惑している。

タラノキと闇


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