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山菜夜話4 コゴミ

ワラビ・ゼンマイと並ぶ、食用シダ植物第三の刺客。コゴミは、正式にはクサソテツと言って、草姿がソテツの雰囲気に似ているからこの名がついたということになっている。みちのくの北の大地に、ソテツなんぞという南方系の植物樹種は生息してはいないから、ほとんど競合することのない両者ではあるけれども、クサソテツと呼ばれてしまうとソテツとの対比からの二番手の存在という気分がして、コゴミという呼び名こそがふさわしく思える。

コゴミ収穫1

日差しのさほど強くなく、かと言ってまったくの日陰というわけでもなく、適度に木漏れ日が差し込み、人間にとっても居心地のよい空間に、コゴミは群落を営んでいることが多い。沢から立ち上る朝霧・夜露が適度に土壌を潤し、大雨が降ってぬかるむようなときにも土砂崩れを起こすことのない平らかな空間に、彼らコゴミは仲睦まじく広がっている。風が吹き込むと、荒々しい日光を適度にさえぎってくれていた樹々の梢が揺れて、大地に映り込んでいる光のモザイク模様が、コゴミたちの姿をなでるかのように揺れては戻るをくりかえす。同じシダ植物ではありながら、ゼンマイのように暗くじめじめした林床にあってじっと堪え忍ぶわけでもなく、ワラビのように炎天下に叛骨の精神でもって首(こうべ)をもたげるわけでもない。シダ植物としては、珍しく、とてもめぐまれた育ち方をしているように思えてしまう。それだけに、コゴミたちはあたり一面に広く敷きつめられて群落を作るということは少なく、ややせまい範囲の中に押し込められて親類縁者仲睦まじく生息している。

コゴミ2

やわらかい日差しの中に育つコゴミの巻き葉は、幼子の握り込んだ小さな拳のように愛らしい。みちのく風に言えば、あい~、なんぼめんけごど~、である。巻き葉にまとわりついた鱗片は、あたかも産湯のあとの産衣のようでもあり、いくらか生長してこれが巻き葉からほどけ落ちるまでは、今しばらく採集を控えようかなどと少しばかりの配慮をする。そんなコゴミであるからして、コゴミを株からいただくときは、一本ずつ丁寧に間引くようにしたいと思う。まわりからの愛情に包まれて幸せそうな、生まれたての赤子のようなコゴミたちである。カッターなどで根こそぎに一刀両断などという乱暴な採り方は、コゴミに対する愛情を著しく欠いていると言える。来年も再来年も、大地の底から顔を覗かせて欲しいと思う立場の我々としては、コゴミそれぞれが光合成の出来なくなる境遇までも追い詰めてしまうべきではない。せっかく巻き葉のかわいらしいコゴミたちである。一本一本いつくしみをこめて、手折っていこうと自らに言い聞かせる。それでも、そうであったとしても、手折ろうとした指の背側が、その首の座りきっていない中軸に少し強めに当たっただけで、ぽっきりと折れてしまって、ごめんよ、そんなつもりではなかったと後悔の念に駆られることもたびたびなのだ。

コゴミ3

コゴミは天ぷらに揚げて食べるのが、一番好きな食べ方である。アクもエグミもほとんどなく、ほのかな香ばしさとナッツのようなコクが感じられて、いくらでも食べすすめることが出来てしまう。巻き葉の見た目のあでやかさをともに愉しむというのであれば、お浸しにしくはない。こちらは幾分、コゴミの持つ青くささを愉しむ食べ方である。醤油があればそれでよく、胡麻和えなどにして食べるのは、コゴミのせっかくのコクが覆い隠されてしまってもったいないようにも思う。青くささに飽きてきたら、醤油にマヨネーズを溶いていただくくらいが丁度よい。ひととおり山を歩いて、ともにウドなどが収穫できた日などには、ウドに天ぷらの主役の座を奪われるわけではあるが、中盤、ウドのエグミはなかなかの胃の負担となってくるわけで、そんなときにもコゴミはやさしい味覚で箸休めともなってくれる。天ぷらにした山菜を食べ終えるときには、いつも決まってコゴミを最後のひとしなとして、その独特なコクで口中満たして食事を終える。こんな味覚を提供してくれている、山の恵みにただただ感謝である。

コゴミ1

巻き葉が少しずつほぐれて羽片を伸ばし、やがて立派なシダの葉の様相を呈してくると、コゴミの旬も終わりを迎える。土の奥からやっと盛り上がってきたように、丸めた葉を遠慮ぎみに覗かせる姿は、どこか可愛らしささえ感じさせるものの、よく見れば、羽片をぎっしり丸め込んだ若いコゴミの巻き葉の具合は恐竜の背鰭のようにも見えて、シダ植物の偉大なる歴史を考えずにはいられなくなる。ところどころに木漏れ日が差し込むやや涼しげな林床の、生長して豊かに葉を広げたコゴミの群落のただ中に立てば、まるで恐竜跋扈するジュラ紀の世界にでも投げ出されたかのような気分にもなって、うすら寒くも感じられる。木漏れ日が風に揺すられて散り乱された光と影に、頭上に肉食恐竜の影はないかなどと、たわむれに空想しては少しばかりも、ぞっとする。コゴミは一体いつごろからこの世界にあるのだろうか。そう考えては、何億年という時の永さと、一瞬のまたたきに過ぎぬ自らの生との、その対比に、今度は真実の意味でぞっとする。このコゴミの大群落の中、生の短さを彼らに笑われている我が身であろうか。渓(たに)を吹く風を受けて、あたり一面のコゴミの葉が、笑い声さえ発しないまま揺れている。

コゴミ収穫2


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