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折坂悠太 らいど 2023/小栗康平『眠る男』

《Documenting》20230929

折坂悠太 らいど 2023
於:昭和女子大学 人見記念講堂

 2023年の折坂悠太ツアー最終公演。音楽活動10周年を記念した今回のツアーは、ここ数年取り組んできたバンド編成の「重奏」ではなく、ソロの弾き語りによる「独奏」スタイル。
 人見記念講堂の広いステージの中央に、シェードランプ、椅子、衝立、ローテーブル、そしてアコースティックギターが置かれている。折坂が時折行なうインスタライブのように、彼の部屋から発信しているかのような趣向だ。スリッパを履いて出てきた折坂悠太は、「照明の関係でみなさんの顔が見えない状態で歌っていると、家で歌っているみたい」と言いつつ、一曲ごとに丁寧にチューニングしながらパフォーマンスを行なっていく。
 奏法としてなんというのかわからないが、同じように弾き語りライブを行なっているあいみょんのギターが、拍を力強く・一定のリズムで刻んでいくのに対して、折坂のギターは拍を強調することなく、ときに歌唱に合わせて時間感覚を伸び縮みさせていた。ヴォイスパフォーマンスと言いたくなるような多彩な発声や、ラジオで拾ったノイズをその場でサンプリングする演奏――折坂のライブではおなじみのライブエレクトロニクス的アプローチからは、彼の芸術的野心といったものがうかがえる。演奏と歌唱と身振りが統一されたパフォーマンスは、隙間なく時間と空間を埋め、「重奏」よりむしろ濃密な音響空間を生み出していた。
 折坂が10年前に初めてライブを行ったという三鷹・おんがくのじかんを皮切りに、最後は2000人規模の人見記念講堂を満員にした今回のツアーで、この独奏という形式を選んだのは、原点回帰と10年間の音楽的発展を詳らかにするという意図があったのだろう(古い曲だけではなく、新曲も混じっていた)。終盤のMCで、表現者であることに会場の規模は関係ないとしたうえで、「我々を分けるような税の納め方はやめていただきたい」と表現者の分断をもたらすインボイス制度に異を唱えていたのも、10月からの施行を控えたこのタイミングならではのことであり、大手芸能事務所・アミューズに所属しながら反骨的な雰囲気を失わない折坂らしかった。

《Documenting》20231001
小栗康平『眠る男』(1996)

 小栗康平特集が行われている北千住のシネマブルースタジオにて35mmフィルムで鑑賞。
 小栗の監督4作目にして初のオリジナル脚本作。群馬県が製作した自治体発の映画で、優れた映画プロデューサーに送られる「藤本賞」を当時の群馬県知事が受賞している。
 映画は、群馬県北西部の山を望む小さな町を舞台に、古い町並みと自然、そこで生きる人々を描いていく。スタンダードの画面はときにシンメトリーな構図が採られ、箱庭のような空間を構成している。特徴的なのは、ほとんどのシーンで人物は画面の下半分、高くても上辺1/3より下に配されていることだ。画面の上部には、山や空、家々の屋根、天井が映し出されている。つまり人物というよりは人間の生きる空間が切り取られているのだ。中でも、老人が管理する古い水車小屋や、赤ん坊と女たちが浸かる温泉、「眠る男」拓次の横たわる部屋が、神話的な趣を持って何度も登場する。
 誰よりも山を知りながら山から落ちて不随になった拓次は、映画の冒頭からずっと眠っており、そのまま劇中で死んでしまう。だが、映画の中で拓次の生命は冬枯れの森や木の切り株に重ねられる。森や切り株は眠っているだけで、春になれば、あるいは長い年月を経ればまた新しい芽を出す。拓次の魂も森で眠っているだけで消滅したわけではないというのだ。また、何度か映る山の木々のカットは、一本一本が距離を取りながら直立し、擬人性を与えられている。この映画全体が、木や森、山、水といった存在に霊性を見出すアミニズム的世界観に貫かれている。
 この美しい映像やゆっくりとした時間感覚は、悠久の自然、変わらぬ人々の営みというものを思わせる。しかしよくよく見ると、地方都市に内在するアクチュアルな状況が織り込まれていることがわかる。拓次は若い頃のノートに「変わるものが悲しい」と記していた。そんな彼が前面に立って反対した開発計画は、彼がいなくなったあと、街の姿を変えていくだろう。出稼ぎらしい「南の女の人たち」は、渡り鳥のように街にやってきてまた去っていく。小さな街にも「オモニ」と呼ばれる在日韓国人や知的障害者といったマイノリティがいる。一見して日本的で保守的な地方都市にも、多様性があり変化の波があるのだ。
 小栗のHPの解説によると、本作は自治体が全額出資した当時前例のない取り組みで、その後の自治体映画の嚆矢となったという(「眠る男 | 小栗康平オフィシャルサイト」)。しかしその内容は、美しく素朴な田舎の生活を描くにとどまらず、変わりゆく地方の現実も織り込んだものになっている。「美しい国」とのたまう国粋主義的な感性や、都会からの視線で田舎を外部化し商品にするような代理店的発想では、とても看過できないものだろう。その意味では、今もって成立が難しいチャレンジングな自治体映画と言えそうだ。


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