結局「生きづらさ」って何?

今日はとある方と2時間近く話した。
その中で、「結局くぼけんがしたいことは何なの」に対する答えがよくわかっていない。
僕は、自分に矢印を向けられたとき、素直に「○○がしたい」と言えない質である。

確かに、鹿児島のリーダーになりたいし、誰かの生きづらさに寄り添い、夢や希望を応援する人にもなりたい。
けれどそれは、人と環境に依存している状態なのだ。

そこに目を向けてしまうからこそ、「○○がしたい」ではないのだ。
「○○しなければいけない」と勝手に決めつけて、自分のしたいことにしているのだ。

でも、「○○しなければいけない」もしたいことなのである。
というか、したいことだらけなのである。

は。矛盾しているじゃん。そして、何言っているかわからない。
そう思っていただいて構いません。

自分で自分がよくわからないのだ。
それが、自分の思う「生きづらさ」なのかもしれない。

会話の機会が終わった後、ひょんなことから過去に書いた文を読み返すことになった。
だいぶ前に、熊代亨さんの『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を読んだ感想をこんな感じでまとめていたのだ。

大学院生になってからだけども、「生きづらさ」の正体について何かと明らかにしてやりたいという欲望がある。自分がいけないのか?世の中がいけないのか?あいつがいけないのか?SNSがいけないのか?大学がいけないのか?常に葛藤している。

この本を少しずつ読んでいき、本日読了した(2023/6/29現在)。著者は、世の中を否定しているのではなく、疑問視している。様々な論点から物事について深く探求し、世の中の不自由さについてどうしたもんかいのーと議論している。結局「生きづらさ」は明らかにできないのだ。

でもこの本を読んで思ったことがある。世の中って『オンラインゲーム』と同じだなと。
オンラインゲームでは、アップデートというものが存在する。運営が多角的にゲーム環境を捉え、バフやナーフで日々調整しているのだ。もちろん、ゲームのプレイヤーに肯定的な人や否定的な人は存在する。好きなキャラがバフされれば嬉しいのと同じく、自身が生きやすい世の中にバフされれば、幸福になれるのである。

昨今は、防衛費や子育て支援、ジェンダーについてなど、世の中においてもめまぐるしくバフとナーフが繰り返されている。本書では、タバコやハラスメントの概念等が大きく取り上げられている。

この世の中のバフやナーフは、皆が思う「正しい世の中」にするためのものである。

で、疑問が生じるのである「正しい世の中」は、「生きやすい世の中」なのかと。

なかでも、本書で取り上げられていた、清潔感が求められる世の中は、常に「清潔でいなければならない」を暗に強要しているのではないか?という論点が印象に残っている。大学に行くにしても、清潔な身なりを整える必要がある。それは、世の中が清潔感を求めているから。現にタバコは校内で吸えないし、自分も汗っかきに悩まされる。なりたい自分や、やりたいことは、これらが優先されなければ実行できないのである。

「生きづらさ」は明らかにできなかったのだけれども、自分がなぜ「生きづらい」のかを理解することには近づけたと思う。根がまじめ(自分はひねくれものだと思っている)だからなのか、世の中の秩序に「前ならえ」し続けているように思えている。人間観察が趣味なのも、自分が「前ならえ」していることが前提ゆえに、「変な人」を見つけるのが何かしらと心を動かすのだろう(優越感というクソさと、嫉妬という羨ましさと)。

この世の中というゲームのバフとナーフに、僕は順応しなければいけない。別にAPEXでいうプレデターや、efootballでいうDivision1を目指す必要はない。(目指したいけど)そのゲームをいかに楽しめるか。いかにして死なずに生き延びるか。そして「生きづらさ」を克服し幸せになれるのかを、僕らは日々追求しなければいけないのではないだろうか?

僕はこれを読み直して、
「あぁ世の中に踊らされているんだな」と感じてしまった。
back numberの『青い春』みたいに。
過去に書いたはずなのに、結局自分は変わっていなかった。

与えられた枠の中でしか僕は生きられていない。
その人や環境といった世の中という水槽の中でしか生きていけていないのだ。
それを世の中に投影し、勝手にそうしなければいけないという使命感に駆られているのだ。

そんなのを取っ払った時。自分がしたいことは何かを振り返る。

村が作りたい。

好きな人たちが集まる村が作りたい。
昔から、高校サッカー部の同期にちらほら言っていたし、やりたいよなって話もしたよな。
自分の好きや得意を表現して、生業にしていく。
僕はそこで、いろんな人たちが笑顔で楽しそうにしているのを死ぬまで見ていたい。
ちっぽけな理想を思い描いている。

どうか少しだけ、自分のわがままを許してください。

本当は就職という枠に埋もれた生き方をするつもりはない。
そもそも、就活に生かされるつもりもない。以前「就活の意味」として、noteに書かせて頂いたこともあるけど、あれは社会で生きていくために必要なことと思っている。社会や世の中を軽視しているつもりもない。

そういう前提で、うまく社会や世の中を使わせていただくのだ。

就活を勝ちに行ってやる。

このままだと世の中のバフとナーフに左右されてしまう自分しか見えない。
周りに左右されない生き方をしてやる。

というか、こういう「生きづらさ」を抱えた人たちを救いもしたい。
ま、「○○しなければいけないと」、「○○したい」は表裏一体なんだよ、きっと。

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