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若手医師が離島で1年を過ごして。島民と育てた対話と表現の場づくりから考える、ケアの文化のデザイン

船の甲板から見た景色は、一生忘れられないものだった。

見送りに駆けつけてくれた式根島の人達は、ざっと見渡して50人以上。
島で1番最近生まれた生後2ヶ月の赤ちゃんから、93歳のおばあちゃんまで。
みんな、1年前に赴任するまで顔も知らなかった。

そんな島の皆さんと、無数の紙テープを通して1人ずつ繋がっている。
笑顔と涙をたたえながら見送ってくれていた。

この1年間、私が式根島に赴任してから、全く想像していなかった活動達が生まれた。
中には、これからも引き継がれていくものもある。
出港前、一緒に活動を始めた1人のおじいさんは、力強く握手をして伝えてくれた。
「先生と一緒に出した芽を、これからも育てていきます」

見ず知らずの島に来た若い医者が、島の人達とケアの文化の芽を生み出すまで。
表現の場づくり「踊り部」と、対話の場づくり「よっちき会議」を中心に。
私が式根島の人達と暮らしを楽しむ中で、島の日常にケアを育んでいった1年間を等身大で書き綴りたい。


夢が叶い、砕けた

私は長年、離島で医師として働くことが夢だった。
その理由は式根島に来る直前のインタビュー記事にまとめて頂いたので、より詳しく知りたい方は記事を読んで頂きたい。

一言でいうと「理不尽と闘う」ことが人生の目標で、
「離島などの僻地で、医療がないという理由で島に住めなくなる理不尽に、医師として挑みたい」と考えていた。
式根島は、そんな私の最初の離島赴任先だった。
人口約470人の島内の医師は私1人だけ。医師4年目のまだ未熟者に診療所長の責任は大きかったが、15歳の震災の瓦礫の中から目指した夢に、12年越しに辿り着いた私は不安以上にやる気に溢れていた。

そんな期待に満ちた赴任直後、前任医師から引き継いだ仕事の1つに「病気のためこれ以上島に暮らせないことを説明する」というものがあった。
あまり詳しくは伝えられないが、その方達は式根島で生まれ育ち長年暮らしていた老夫婦だった。式根島のような小さな離島には、腎機能が悪化したときの透析施設や、認知症が悪化した時に生活を支える訪問看護や介護サービスがほとんど無い。子供や家族が帰島して介護をしなければ、自宅で安心して最期まで暮らすことは難しいのだ。

「そんなはずはない」と自分に言い聞かせて、都内の指導医に連絡したり島中の社会資源を調べ上げた。
しかしどれほど調べても考えても、病気が進行した時に安心して島で暮らせる方法は出てこなかった。
説明の日、言葉を選んで対話を重ねた。その方は最後には「もう、島にいるのは大変なんだな」と俯きがちに状況を噛み締めていた。
これが私の聞きたかった言葉なのか。
医学部に入り10年かかって、「幸せで健康な暮らしは、医者1人では作り出せない」ということを思い知った。

その老夫婦は初夏に式根島を離れ、そして生きて帰ってくることはできなかった。
島を出て半年ほどの間に立て続けに病気が悪化したと聞いた。
ご夫婦が島を離れるまでの時間を一緒に大事にしようと、私も通っていたゲートボール同好会の集合写真は、今も大切にしまってある。

薬よりも大事な「人生最後の仕事」

私が式根島診療所に赴任した頃、全国の病院でコロナ禍の緊張が徐々に溶けつつあった。
私はデザイン思考を学ぶために通っていた通信制社会人大学院の課題の一環で、パーテーションで仕切られていた待合室を、より島民同士のコミュニケーションが生まれる環境にデザインした。

パーテーションを撤去し、会話しやすい椅子の配置に
机の花や本を題材に会話が弾むよう工夫した

待合室のレイアウトを考える中で、話のネタになればと私の蔵書も机の上に忍ばせた。
そんな気軽な試みから、思わぬ出会いが生まれた。

「先生、この本すごいよ」
待合室をデザインして間もなく、私の本の一冊『コミュニティナース』を千松さんが見つけてくれた。

「この本に書いてあること、この島でもできないかな。
よく読みたいし仲間にも教えたいから、この本貸してよ」
彼はその日、私の処方した薬よりも大事そうに本を抱えて帰っていった。

こうして、今年で80歳になる千松さんと私が出会い、「式根島でコミュニティナースの活動を始めよう」という動きが生まれた。

また、同じ頃、私が式根島にいることを知った筑波大学の阪本先生から、地域医療に関心のある学生団体「ちいここ」を紹介してもらった。
ちいここの学生達は、地域医療を学ぶ場として離島医療の現場を探していた。
私と学生達で話し合いを重ね、式根島の地域診断を学生達と行うことにした。
学生だからこその純粋な視点で、統計資料やフィールドワークを通して丁寧に情報収集してくれた。千松さんを始め学校から通行人まで3日間で20人以上の島民にインタビューを重ね、式根島の課題として顔の見知った島民同士で本音で話せる関係が作れないことが分かった。結果として、少ない医療福祉資源を補えるような住民主体の支え合いの文化が作りにくかったのだ。

この過程で私と千松さんは、島内のコミュニティナースに関心のある人達向けにワークショップを重ねていた。そして年末には、学生達との地域診断結果も合わせて、島民同士が自分と誰かの健康を本気で話し合い、おせっかいを持ち寄る「よっちき会議」が誕生した。
「よっちき」とは式根島弁で「おいでよ」という言葉で、誰でも受け入れたいという想いを込めた。

千松さんはコミュニティナースと出会い、島を変えようと奮闘した20-30代の自分を思い出したそうだ。「人生最後の仕事」と宣言しつつも、若い頃の感覚を取り戻した本人が1番いきいきとしている。

好きを分け合う

式根島での生活に慣れていく中で、住民の方にBBQに誘ってもらうなど、楽しむ機会も増えていった。
あるBBQで一緒にいた子どもとは、私が大学生から続けているストリートダンスを教えながら遊んだ。それから数週間経った後、一緒に遊んだ子供が診療所を訪れた。目的は診察ではなくダンス。
「この振りってどう踊るの?」とtiktokの動画を見せてくれた。
「今は仕事中だから、週末に集まって一緒に踊ろうか?」と私は答えた。

こうして、週末に月1−2回、踊りを通した表現の場づくりが始まった。
最初はダンス教室と捉えてた方も多かったが、私はダンス歴は長いものの人に教えられる程の器量はない。指導ではなく、参加する島民の方の感性を引き出し、その人が表現したいことを一緒に表現することを大事にした。

元来、踊りや歌・絵などの表現は人間が持って生まれた欲求の1つだと思う。しかし学校教育や大人の社会では上手い・下手の基準が決められ評価されることがあまりにも多く、小学校を出る頃にはほとんどの子供が表現を嫌いになってしまう。感性を刺激する自然に溢れた島で、自分の感動を素直に表現する環境を作りたいと感じていた。
そんな中で、踊りが好きな島の子が勇気を出して声をかけてくれたお陰で、「表現の可能性を一緒に感じたい」という想いをのせた場づくりを一緒に進めることができた。
全11回開催し、参加者は1歳から60代まで、時には隣の島から参加してくれる人達もいた。

踊る場所は当日にみんなで歩きながら決める
この日は温泉の眼の前まで散歩をしながら、道中で見つけたものを表現した

踊り部には思い思いの過ごし方がある。
鬼ごっこ好きな子が多い日はダンス鬼ごっこという遊びを作り、踊りながら鬼ごっこを楽しむこともあった。
一緒に振りを作ることもあるが、一人で踊りたい人は自由に踊っていても良い。
ある中学生の子は、自閉症を抱えながら学校は不登校気味だったが、踊り部だけは欠かさずに参加していた。1人で1曲も2曲も踊り続ける時間は究極の自己表現だったのだと思う。
お母さんには「楽しくあって、素になれる場所」と伝えていたようで、私の想いを彼女の言葉で表現してくれたのがとても嬉しかった。
どんな表現もみんなで受け止める踊り部の経験や、周囲の働きかけを通して、彼女は1年の終わりには学校に戻ることができた。

何をやるかより、誰とやるか〜well-beingな活動の創り方

よっちき会議も踊り部も、私のやりたいことがそのまま形になったものではない。
そもそも、私が式根島に来た時にやりたい事が明確にあったわけではない。
むしろ、「島に暮らす人達が安心して暮らせる医療を支える」と意気込んで来て、2週間で夢は打ち砕かれた。その結果「健康で幸せな暮らしは医療サービスだけでは支えられない」と思い知り、住民に地域の暮らしや文化について教えてもらおうと積極的に地域に入っていった。そこで本や踊りを通して私自身の興味関心を共有していった結果、島民の方から「一緒にやろう」と声をかけてくれたのだ。

島に住む方達から声をかけてくれて始めた活動だから、最初から島民の仲間がいて、活動も島民目線になる。「あの人がいるなら」と参加のハードルが下がった人もいただろう。(もちろんその逆で、今までの島民同士の関係から来づらさを感じる人もいる)

「何をやるかより、誰とやるか」とは、
千松さんとの出会いのきっかけにもなったコミュニティナースの育成講座で紹介される一節だ。1)
やりたいことを全面に出さず、好きなことをシェアしながら島民の暮らしを知っていったことで「一緒にやりたい」という人と出会うことができた。この出会いの確率は、人口は関係ないと思う。500人もいない式根島でも、密度濃く、本気で地域に関わったことで2人の開拓者と、10人以上の仲間と出会えたのだ。私と式根島の方達で始めた2つの活動のうち、よっちき会議は5名ほどが中心となって引き継ぎ、全国のコミュニティナースとも交流しながら活動を継続している。

健康じゃなきゃ島に住めないよ

地域の方と一緒に活動を始め、育てていくからこそ、本気の対話の中で学ぶことも多かった。
よっちき会議のイベントの1つとして、先述した学生達の地域診断の結果報告会を島民向けに開いた時だった。学生達と島民同士が立場を乗り越えて話し合える場づくりについて打ち合わせを重ねて「島に暮らす人が自分達の健康で幸せな暮らしをいかに自分達で作るか」をいくつかの問いに分けて参加者に答えていってもらった。

1人の参加者から「そもそも健康じゃなきゃ、島に住めないよ」という答えが出てきた。
発言した方は、式根島でも有数の地域づくりの熱意に溢れる働き盛りの方で、よっちき会議は初参加だったが、その言葉を通して私は彼の視点を知ることができた。
住民である彼の目線で考えると、医療福祉専門職は地域に住める人を選んでいると感じられるのだろう。専門職がどんなに住民目線を意識して地域と関わりイベントを開いても、住民を一緒に健康な暮らしを育てる仲間として取り込むにはハードルは高いようだ。

公衆衛生と終末期医療を専門とするバーモント大学臨床教授のアラン・ケレハーは、ケアに専門職が関わる時間は、患者の生活時間全体の5%に過ぎないと述べた。残りの95%は地域や家庭で思い思いの生活を過ごしている2)。地域医療に関わる医療者は5%以上の関わりを地域で持とうとするだけでなく、意思決定においても対等な目線で共に悩む姿勢が求められている。
また、95%の生活時間についても以前は日常の風景だった生老病死が全て病院に収容され、健康と不健康の間で支援を受けながら暮らす人を目撃できず、優しさも想像力も育たなくなった。健康と不健康のグラデーションを認知できる地域を取り戻し、気軽に頼れるような環境づくりも大切だろう。

学生からの純粋な問いかけを受けて
よっちき会議に参加した島の人達の想いに火がついた

場と人を育てる〜創発的コミュニティへ

式根島での多くの経験と気づきを通して、「健康で幸せな暮らしは医療サービスだけでは支えられない」と感じた最初の課題への答えが徐々に揃ってきた。
まずは人。暮らしの様々な場面での出会いを通してお互いの興味関心を交換し、共感し合う部分から活動が生まれていった。実は温泉の景観保全活動など、私主体で始めようとした企画もあるがほとんどが続かなかった。先述した通り、私だけがやりたいのではなく島に住みこれからも島に関わる人達が立ち上げから一緒に関わることで活動への周囲の信頼は大きく上がる。
そして場。興味関心が通じ合う人達が集まっただけでなく、そこでコミュニケーションを繰り返してお互いを更に深く知り合う中で、メンバーだからこその個性が生きる場が育まれていった。

参加者の相互作用によって予期せぬ創造が生み出されるような場は「創発的コミュニティ」と言われる。東京都市大学の坂倉教授によれば、創発的コミュニティは旧来の地縁組織と違い、あらかじめ器が用意されているのではなく、参加者が初期段階からプラットフォームづくりに参加し、そこで出会った他者との相互作用を通じて意識や行動を変えて成長していく3)。つまり場づくりそのものが目標なのではなく、興味関心や好きなことを共感し合う仲間たちが集まり結果的にプラットフォームができていたのだ。

興味関心の同じ仲間として立ち上げ前から出会うことで
創発的コミュニティが形成されていく3)

式根島のよっちき会議や踊り部は、まさに創発的コミュニティの形成過程と一致していた。島民と私がお互いの好きなことを通して出会い、世代や立場を超えて自分の言葉で思いを語り合うことを通して、行政や組織の枠組みに囚われずに新しい変化が生まれ続けるコミュニティとして式根島内外の多くの人を巻き込むことができた。

好きなことをする仲間として出会うこと、自分の言葉で思いを語り合うこと、予想外の変化を受け入れることで、これからの地域を変えていく人や場が沢山生まれていってほしいと思う。

ケアの文化をデザインする〜日本流の社会的処方の形

ここまでの長文をお付き合い頂いた方達の中には、地域社会の中で健康や幸せを育てる活動をしたいと考えている人は多いのではないだろうか。先述した通り、病気や障害を抱えた人も人生の95%の時間は地域社会で過ごし、専門機関で出会う時間は5%だ。限られた時間や資源の専門機関の中だけで幸せな暮らしに向けたケアを提供する難しさは、都市部と離島と両方働いてきた私としては、地域間の差は実はあまり変わらないと感じている。

地域で健康や幸せな暮らしを育てるために近年注目されている概念の1つに、社会的処方がある。社会的処方が最初に生まれたイギリスでは、孤独孤立を抱えた主に高齢者に向けて薬ではなく地域内のコミュニティをリンクワーカーという専門職が処方するという制度で2018年頃から始まった4)。しかしコロナ禍を経て、若者の孤独なども注目され「孤独は誰にでも起こり得る」という考えが広まり、社会的処方先となる場もコミュニティに留まらず、アート、環境問題、文化資産など「その人が自分らしさを見つけられるきっかけ」となる生活上のあらゆる場面に広がった5)。

私はイギリスで社会的処方が制度化された直後の2019年に留学し、その後も現地の方達と情報交換を重ねてきた。
式根島での活動では社会的処方という言葉こそ使わなかったものの根底には意識をしており、よっちき会議は対象者に処方を行う場と運営者も自己実現を通して幸せを高める場、踊り部は処方先として参加者が自分らしい幸せを見つける場という役割を意識してきた。
当初はほとんど計画していなかったので、結果的に役割が生まれたという方が正しい。しかし日本人には古来から誰かの幸せをポジティブに願う「おせっかい」の文化や、生活の不便さを近所付き合いで乗り越えてきた歴史があり、日本独自の文脈を社会的処方という外来語に合わせた結果としてよっちき会議や踊り部の役割が定義できた。

日本独自の社会的処方とは、このような日本各地の文化と歴史を理解しながらその地域が求める「人が繋がる仕掛け」を、内発的動機で行動する住民とともに創発的コミュニティとしてデザインしていく形なのではないだろうか。

関係人口としての挑戦

こうして私は、式根島で様々な出会いと挑戦を島内外の方々と重ねてきた。
その最後の光景が、冒頭で描いた船出の時だった。
1年間、1人の医師として、住民としての自分を織り交ぜながら楽しみきった。

東京の離島派遣医師は1年交代の事が多いが、島の人にとっては暮らしは一生続いていく。
だからこそ、島で活動を始める前から「自分がいなくなった後もどう活動を続けるか」を考えていた。
好きなことをやる仲間として島の方々と出会い活動を始めたことで、島の方々にとっても活動は「自分ごと」になっていった。
だからこそ、「先生と一緒に出した芽を、これからも育てていきます」と千松さん達から聞けた時はとても嬉しかった。

モチベーションは1番大事だが、実際の運営継続にむけての課題はこれからも続いていく。
次の私の挑戦は、遠隔でもできることを探しながら一緒に活動を広げていくことだ。
企画の相談や対外発信、資金など、できることは多いと思う。
ここでもそれぞれの好きを持ち寄り、助け合う力が効果を発揮するだろう。

ただ「その地域が好き」だけではない、出資・発信・労働などの実務を遠隔からできる人達こそ、その地域の維持発展に関わる真の「関係人口」だと思う。

私がこれから式根島の関係人口になれるか、それはまだ分からない新しい段階の挑戦だ。
これからも予測不可能な未来を、式根島に関わる皆さんと楽しんでいきたい。

見送りの言葉は「そいじゃーなー」
式根弁で「またね」

だから、この船出はお別れではなく、新しい挑戦への門出だ。
私は紙テープを握り直し、船から身を乗り出して大きく叫んでいた。

「行ってきます!」


<参考文献>

1)矢田明子著『コミュニティナース』木楽舎、2019年
2)アラン・ケレハー著、竹之内裕文、堀田聰子監訳『コンパッション都市 -公衆衛生と終末期ケアの融合』慶應義塾大学出版会、2022年
3)坂倉杏介「都市型コミュニティとプラットフォームのあり方 ―社会的創発のプラットフォームとしての「おやまちプロジェクト」―」 『都市社会研究 vol.13』せたがや自治政策研究所、2021年
4)西智弘編著『社会的処方』学芸出版社、2021年
5)西智弘編著『みんなの社会的処方』学芸出版社、2024年

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