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公開シンポジウム「ロヒンギャ難民をめぐる公共圏 - ビルマ、マレーシア、インドネシア、パキスタンにおける排除と包摂」

昨日は上智大学で勉強。公開シンポジウム、「ロヒンギャ難民をめぐる公共圏 - ビルマ、マレーシア、インドネシア、パキスタンにおける排除と包摂」へ。会場には在日ロヒンギャのゾーミントゥさんやアウンティンさんも駆けつけていた。

去年8月末からのミャンマー軍による大弾圧から隣国バングラデシュへ逃れた72万人のロヒンギャの人々。両国の同意で彼らの帰還事業が急に動き出し、昨日11月15日から2260人のロヒンギャ難民がミャンマーのラカイン州に設置されたトランジットキャンプへ送還される予定だったが、安全面の懸念からかバングラ側が土壇場で中止した。当のロヒンギャや彼らを支援する人たちは胸を撫で下ろしたが、依然予断を許さない状況だ。

ロヒンギャ問題に限らずビルマ研究の権威である根本敬先生(上智大学総合グローバル学部教授)は、かつて民主化を目指して軍事政権と闘い日本へ逃れた在日ミャンマー人の信頼も熱い。根本先生のお話しでは、多くのロヒンギャが求めているのは独立国家ではなく、自分たちの民族名称を認めてもらった上で、ミャンマー国籍を得て平和な生活がしたいということ。しかしミャンマー政府や軍、国民の多くは彼らを「民族」と認めず「バングラデシュからの不法移民」とみなしている現状がある。

「4つの層から成るロヒンギャ」として、15世紀から18世紀まで現在のラカイン州ミャウー(私の心の故郷!)を王都として繁栄を極めたアラカン王国で仏教徒と平和的に共存していたムスリム住民、19世紀から20世紀前半の英領時代に定住したベンガル人、太平洋戦争時に日本軍がラカイン仏教徒を武装化させ、英軍はベンガルに避難したムスリムを武装化させ戦わせたことで多くのムスリムが流入し宗教戦争が残った。そしてその後1971年に起きた第3次印パ戦争(バングラデシュ独立戦争)時に国境も曖昧だった状況で流入した難民のイメージが現在のミャンマー国民の記憶に強く残っており、彼らを「不法移民集団」と捉える主な理由という見解だった。

1948年のビルマ独立後、当時の政権下ではロヒンギャの議員が複数存在していた事実や1950年代後半から60年代初頭まではロヒンギャ語の国営ラジオ放送が公認されていた時期もあった。しかし1962年の軍事クーデター以降彼らは度々深刻な迫害の対象となり、1978年と1991-92年には20万~25万人規模の難民流出が発生。1982年には「国籍法」が施行され、ロヒンギャは合法的に民族ごと無国籍にされてしまった(審査対象からも外されていた)。

さらに問題を難しくしている原因として「ロヒンギャ」の名称について、ミャンマー政府や国民は彼ら自身の望む「ロヒンギャ」の呼称すら認めず、彼らを頑なに「ベンガリ(ベンガル人)」と呼び、彼ら自身にも強制している現状であり、「民族の名乗りを認めないのは人権侵害である」と厳しく指摘された。

そして今回のシンポジウムは敢えて既に多くのメディアで扱われているバングラデシュではなく、かねてから多くのロヒンギャ難民を受け入れているマレーシア、インドネシア、パキスタンの専門家の方々がそれぞれの国での彼らの暮らしぶりや置かれている状況について大変興味深い話を聞くことができた。

マレーシア国際イスラーム大学助教授、塩崎悠輝先生によるお話では、マレーシアでは約15万〜20万人のロヒンギャ難民がおり、2012年以降増加している。マレーシア政府は彼らに国籍や難民としての法的地位は与えていないが、もともと外国人労働者が多い国であり、比較的定住や就労がし易い状況にあるとのこと。イスラム系NGOがロヒンギャ難民向けの教育施設を開設したり、ロヒンギャ自身が開設したマドラサも在る。マレー人という民族が実質的に様々なムスリム移民の集合体であることもロヒンギャに対し比較的寛大な要因だそう。しかし人身売買のブローカーの存在や彼らに絡んだ組織的殺人や入管当局や警察による虐待、公立学校に行けず児童労働が問題になっている現状を知った。

インドネシアのお話をしてくださった名古屋学院大学准教授、佐伯奈津子先生。インドネシアではスマトラ島北部アチェ州に漂流したロヒンギャを乗せたボートを地元の漁師たちが積極的に救出し、彼らを手厚く保護し支援する様子が紹介された。

アチェ人は世界で最もロヒンギャを歓迎する人たちなのだそう。それは彼らもインドネシア政府に30年間も厳しい弾圧を受けてきた歴史や、2004年には深刻な地震、津波被害を受けて多くの困難と向き合い、震災をきっかけに政府との和平協定が実現した。そしてロヒンギャのような困難を抱える民族を救いたい純粋な気持ちや、人権侵害を調査するノウハウ、「紛争ロス」のような感情がアチェの人々にはあると聞き、とても興味深かった。しかしインドネシア国内にはFPIと云う原理主義派によるロヒンギャ問題を「利用」した暴力的なデモも発生しているそうだ。ミャンマー国内ではこうした過激的な部分だけをニュースで切り取り、ロヒンギャやイスラム教徒の危険性を強調するような報道も多い。

そして私も全く知らなかったパキスタン最大都市のカラチにおけるロヒンギャの状況について。小野道子先生(日本学術振興会特別研究員)によると、市の推定人口2000万人のうち35万人程度のロヒンギャが生活していると言われ、彼らは1960年代から2000年代に移住した者を中心に移民2世や3世が増えている。平均寿命も短いためロヒンギャとしてのアイデンティティが徐々に薄れてきている。彼らも無国籍であり、仕事や教育、医療へのアクセスがなく、ゴミも収拾されない低所得者居住区に住み、非公式市場や路上での物売り、物乞いで暮らす人が多いという。200万人以上のバングラデシュ出身者と混在し、自らも「ベンガリ」と名乗るロヒンギャが多いそうで、その方がパキスタン国籍が貰える可能性があるという特別な事情があるのだそう。詳しく話を聞くと「実はバルミー(ビルマ人)なんだ」と打ち明けてくれる人も居るそうだ。

母国ミャンマーを追い出され、世界中のどこへ行っても自分の居場所がないロヒンギャの置かれた現状。トルコやシリア、イラク等、複数国にまたがりそれぞれの国籍や身分証を持つクルド人とは違い、生まれながらに「無国籍」にされ、ミャンマー国内で教育を受ける機会を与えられず、文字も持たず読み書きも苦手な彼らが外国で働くことは容易ではない。身分証もなければ車の免許も取れない。

ミャンマー国内にはロヒンギャはもう100万人も居ないと言われている。去年バングラデシュに逃れた72万の人たちは、世界的な注目を浴び、インタビューを受けたりNGOと接したり、次々と「新しい経験」をしている。良い面や悪い面で外から様々な情報が入り、「ロヒンギャとして、自分たちで何とかしなきゃいけない」という意識を持つ人もこれから増えていくのかもしれない。

最後に私の隣の席で色々と補足して教えてくれてたゾーミントゥさんが壇上に呼ばれ(「新畑さん!私の話す写真撮ってネ!」とお茶目に耳打ちされた)、日本にも群馬県館林市を中心に約230人のロヒンギャが暮らしているという現状、世界で困窮しているロヒンギャ民族を助けて欲しいという想いを語った。彼は1998年来日。2002年にロヒンギャとして日本で初めて難民認定された人物だ。

この悲劇的な状況の中で、宗教や民族の枠を越えた、彼らを助けたい「個人」の存在が彼らにとっての唯一の希望なのだと思う。まずは身近なところから彼らの存在について興味を持って欲しい。私も勉強中の身ではあるけれど、知ってることでよければ、聞いてもらえたらシェアいたしますので。

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