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失われた時を求めて。

雨の日ってやつはどうにも気分がノらない。
春の生暖かい空気で満ちた部屋に一日中こもっていると頭が重くなる。無為に時間が過ぎていく。うっかり二度三度の自家発電でオイル切れだ。
ようやく動く気になったらもう夕方の四時で、失われた時を思ったら自己嫌悪のあまりベッドの上で後転した。後転は両足の爪先がみずからの頭の上に来るところで停止するとまれに肛門が開く。1013屁クトパスカルの大気が私の菊門を押し広げるという意味だ。小学生の頃、この神が創りし法則に気づいた私は居間の真ん中でよく大気を取り込んだ。それを見た母はクスクス笑ったものである。ちょっと苦しいのが楽だなんて人間は真に不思議な生き物ですね。人生楽ありゃ苦もあるさ。水戸黄門の放送中に「見て肛門!」というギャグをやって母の爆笑をかっさらったのが懐かしい。あまりに笑ってくれるから、友達のネタを盗作した事実は墓場まで持っていく秘密にします。
肛門括約筋を活躍させられない大人になった私は果たして幸か不幸か真相は穴の中。念のために忠告しておきますがケツの穴に大気を取り込んでも得することはありません。真似してもいいけど得することはありません。欲しがりません勝つまでは。
ベッドの上で後転しても文学的なインスピレーションが得られるわけでなし、外へ出るのがいいだろう。ちょうど雨が途切れて傘の要らない空だった。『失われた時を求めて』散歩に出るのだ。読んだことはないがあれは確かマーマレードだかマドレーヌだかの匂いやら味やらがきっかけになって過去の記憶を鮮明に思い起こすことから物語が始まるとかなんとか。村上春樹のwikiにも「1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが左中間に二塁打を打った瞬間」に小説を書くのを思い立ったなどと無性に鼻につくエピソードが書いてあったから私にもそういう閃きがあっていいはずではないか。
近所の公園に行くと雨にぬかるんだ土に足がめり込んだ。雨上がりの泥土を踏むのは実に幾年ぶりのことだろう。この感覚に集中すれば傑作文学の冒頭が思いつくかもしれないと私は目をつぶった。
想起した記憶は鮮明で、それはうんちを漏らした学校の帰り道だった。より厳密にいうと柔いうんちの放出される感覚が泥を踏む感触に酷似していた。なんのことはない。後転しようと散歩しようと私に思い出せるのはケツの話だけだった。
失われた時など、求めるものではないのである。