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エッセイ『丸刈りの愉しみ』

 初めて母以外の女性に髪を触られたのは十七八の時だった。当時よい仲だった人と漫画喫茶のカップル席に座り、ニコニコ動画を見始めた彼女が私の頭にヘッドフォンを付けてくれたのだった。彼女の指が襟足をかすめた時の、あのぞわぞわした高揚は忘れられない。

 私は彼女と共有できる愉しみとして、当時夢中だった映画『食人族』の違法アップロード動画を見せた。文明国の探検隊が密林の原住民を追いかけまわしている隙に、私は彼女の頭にヘッドフォンを付けてあげた。女性の髪のなんと柔いことを知った青春の一場面である。――が、ほとんど同時に、私は取り返しのつかないミスを犯したことに気がついた。画面には、原住民の女性が探検隊にレイプされる場面が映っていた。「ああ……」という彼女の、あの戸惑いと落胆が凝縮された呟きは忘れられない。
 後年、映画『タクシー・ドライバー』の主人公が意中の女性をポルノ映画に誘ってしまう展開に世界一共感した観客は私であるとの自負を抱いた。

 ところで、私は物心ついた頃から長らくマッシュルームカットだった。(漫画『デトロイト・メタル・シティ』の根岸崇一を検索していただけたら幸いである)少し年齢を重ねて、思春期から二十代には、長さを指定するだけの更に特徴のない髪型に始終した。いずれにせよ格安の床屋で事足りるスタイルで、私にとって頭髪とは、くたびれた(偏見である)おっさんに切ってもらうものだった。

 昨年末のことである。私は不意に、ほとんど三十年振りの丸刈りにしようと思い立った。思い立ったが吉日で、私はさしてためらいもなく床屋へ向かった。ただ近所にあるというだけで選んだその店にはやはりおっさんがいて、実におっさんらしい(偏見である)豪快なバリカン捌きでごりごり刈られた。店を出たのは日暮れ時で、冬の風が冷たかった。

 わかってはいたことだが、会社の同僚に突然の変化をいじられた。「かつての松本人志リスペクトですよ」と適当に返しておいたら、間もなく例の件があって余計にいじられるハメになった。
 しかし、めげてはならない。私という人間は、デリヘル嬢を迎える際に部屋をきちんと掃除するような紳士なのである。世間に責められる筋合いもない。だから先日、伸びた髪を改めて刈り直してやろうと、ちょうど開店したばかりの新しい床屋があったので今度はそちらへ行ってみることにした。

 真新しい店内は、海賊船をイメージした大きな宝箱や酒樽のオブジェが並ぶ、ちょっと洒落た内装だった。三人の店員はいずれも若い人である。
 私の担当は、赤い髪色のニ十歳くらいの女性になった。女の人か、初体験だ……そう思うと、丸刈りを注文するのが少々照れくさく感じた。デリヘル嬢にも照れたことなどないというのに。

 そこで私は、思わぬ感動、いや快感を覚えたのである。――女性が操るバリカンの、なんと柔い感触であることか!

 おっさんのそれとは大違いだった。雑に押しつける感じは一切なく、徹底して繊細極まり、私の脳裏にかの青春の一場面を蘇らせた。しかも今度は「襟足をかすめる」どころではない。「脳天を愛撫された」と言っても過言ではないのだ。これは変態的な意味ではなく、決して変態的な意味ではなく、私はいっそ永遠にバリカンで刈られたいと思った。

 今、私は髪の伸びるのが待ち遠しい。真剣に待ち遠しい。まるで恋である。刈られたくて刈られたくて、バリカンのように震える。

 ただ残念なことに、その店は担当を指名できない。私には、運命の赤い髪に期待することしかできないのである。