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優しいままで

 今月の初め、久しぶりに姉と母親に会った。会った、といってもその時間は3時間にも満たないごくわずかなものだった。コロナウイルスの影響であまり長く滞在しているのも、ということも理由の一つではあったが、それを差し置いても済ませなければいけない用があって、2人は僕のいる京都に、実家の福岡からはるばるやって来たのだった。

 それは猫だった。実家の庭に迷い込んできた小さな猫。僕の実家では猫を5匹飼っているが、これ以上は飼えないという判断を前からしていたので、庭にとどまる猫の貰い手を探していたところに、僕の連れ合いの実家で受け入れてもらえることになった。そしてその猫を連れてくるために、姉と母親は来てくれたというわけである。
 布製のケースに入れられた猫は茶と白の模様で、目が大きくまんまるだった。そして小さかった。庭にやって来たときはもっと小さかったという。
 連れ合いの実家で飼うことに決まる以前に出ていた譲渡会などでは外に出ることを不安がり激しく鳴いていたという。そのため今回の移動ならびに新しい家ということで僕らも心配していたが、不思議に行きの新幹線の車内でも大人しかったらしく、僕らと対面したときも柔らかい表情でこちらを見ていたので安心した。

 僕の実家にはよく猫が迷い込んでくる。地元を離れて暮らしている僕が知っているだけでも今回の猫含めて4匹。
 なぜそんなに来るのかというと、それは数年前に庭に増設したサンルームのせいだと思われる。雨の日の物干しに役立つ全面ガラス張りのサンルーム。すでに家で飼われていた3匹の猫たちは大層そこを気に入って、出来て間もない頃からよくくつろいでいた。
 このサンルームが庭に出っ張るように建っていて、敷地の外からよく見える。猫たちが中で休んだり餌を食べている姿を見て、みんな庭に入ってきたのだと思う。実際庭に来た4匹のうち3匹はサンルームが出来てから迷い込んできた。そしてガラスの向こうの飼い猫たちをじっと見ていた。
 迷い込んだ猫4匹のうち2匹は現在実家で飼っている。これですでにいた猫と合わせて5匹。もう1匹は前述の通り連れ合いの実家へ。
そしてあとの1匹は、サンルームが出来る数年前に入ってきた。家族も猫たちもそういうことは初めてだったので、みんな珍しがった。母親はマロロンなんて名前までつけていた。でも、そのときはそのまま飼うなんて選択肢はなかった。そしてマロロンはいつの間にか来なくなってしまった。
 家族は、特に母親はそのことに後悔があったのかもしれない。後で母親はマロロンのことをとても残念がっていたから。だから、あくまで憶測の域を出ないが、それ以降やって来た猫たちを家の中に受け入れ始めたのだと思う。

 元々飼っていた3匹の猫たちも、ダンボールに押し込められて捨てられていたり、田んぼでうずくまっていた子たちだ。程度の差はあれ、皆同じような境遇だ。
 そして、みんながみんなそういった猫たちに優しいわけではない。サンルームが出来てから初めて庭にやって来た真っ白なシロは優しい性格で、後から迷い込んできた子の世話を積極的にするような猫だ。
 でも、シロを飼うことになって、予防接種などを兼ねた検査のため連れていった動物病院の医者はシロが野良だったと聞くと、一切触りもせずぞんざいに白血病とだけ告げた(それは後に別の病院で誤診とわかった)。飼い始めて最初の頃は外に遊びに行かせていたのだが、間もなく役所の人間が近所から苦情が入ったと家までやってきた。
 僕が言いたいのは、だからといってそういった人たちを非難したいというわけではないということだ。無論、患者に触りもしないで誤診した馬鹿医者は職務怠慢なので別だが、放し飼いにして他人の敷地で糞でもすればそれは飼い主に責任があるし、単純に猫が嫌いな人だっている。
 むしろ、半端に情を持ってしまえば、人にとっても猫にとっても良い結果になるとはいえない。いわゆる地域猫でもない、飼えない猫に餌付けしてしまえば普段食べていたものを食べられなくなったりするし、ゴミを漁ってしまうことだってある。トルコのイスタンブールのように、都市ぐるみで猫を保護している所もあるが、少なくとも日本の大部分はそうではない。それは「かわいそうだから」という理由で安易に施しをしてしまう側にも原因はある。
 また、飼えたとしても適切な処置をしなければ猫というのは次々と子を増やしていく。今年7月にも、札幌で200匹以上の猫とそれに相応する数の白骨が見つかる「多頭飼育崩壊」が発覚した。
 猫を保護しようとすればそこには責任が生じるし、だから仮に街で"かわいそうな"猫を見て、振り向かずに歩き去ったとしてもーー良心の有無に関わらずーー責任を持てないのなら、それはひとつの正しさではある。

 連れ合いの実家に到着し猫をケースから放すと、見知らぬ場所にやや不安そうに鳴きながらも、そこら中をヨチヨチ探索し始めた。しばらくすると旅の疲れもあったのだろう、静かな2階に上がりベッドの下で穏やかに眠っていた。
 この家のリビングには、ハスキー犬の写真が飾られている。それは連れ合いの家族が10年ほど前に飼っていた子だ。女の子で名前はウインク。優しく穏やかな顔をしていた。
猫が2階に落ち着いた後、連れ合いのお母さんが、ウインクが亡くなったときの話をしてくれた。15年近く生き衰弱し、もうまもなくと獣医から説明を受け、家族はその日はもう夜遅くもあったので明日入院しているウインクを引き取り家で最期を迎えるつもりだった。そして、翌日病院に向かう途中で彼女は力尽きた。家族は大いに悲しみ、連れ合いは滂沱たる涙を流した。横浜で勤めていた彼女のお兄さんはそれを聞き、すぐに帰省してきたという。
 猫を飼う話が決まったとき、連れ合いはお母さんに「きっとウインクが連れてきてくれたんだと思う」と何度も言っていた。彼女は実家を訪ねるたびに、ウインクの写真に手を合わせている。猫がやってきた日、僕はそれを初めて見た。

 僕は、もし連れ合いの実家で飼えなかった場合、姉には前述した譲渡会で引き続き引き取り手を探してもらうつもりだった。でも、連れ合いは実家で飼えないならそのときは自分たちで飼おうと言った。
 今僕たちが住んでいるマンションは動物を飼うことができない。猫を引き取るなら、それが可能な場所に引っ越す必要がある。そうなると郊外のほうへ移るか、でないと街中ではかなり家賃の高いところしかない。
 つまり僕は自分たちで飼うことには尻込みし、どっちつかずな返答をしたのである。連れ合いはそういった曖昧さを許さない人だ。数回説得されることで僕はようやくそれに頷いたのである。 
 優しさと責任。ひとつ思い出したことがある。中学校に入りたての頃、学校が終わり暮れかけた道を歩いていると、川の土手に猫がうずくまっていた。最初は寝ているのかと思ったけれど、どうも様子がおかしいので近づいてみると、カラスか人間かそれとも同族に襲われたのかわからないが、背中の毛が無残に毟り取られていて、瀕死の状態だった。
 僕はどうしていいかわからず、その小さな猫を両手でそっと持ち上げて、学校へと引き返した。
 暗くなった学校の校舎脇では、美術教師が掃除か何かしていた。そして猫を見せると、僕から受け取ってただ一言、職員室で手を洗ってこいと言った。僕は言われた通り職員室の水道で手を洗った。話を聞いた英語の女教師は僕に「優しいね」と言った。その後、猫がどうなったのか、僕は聞くことはなかった。

 連れ合いは優しい人だ。その優しさには意志があり、責任がある。だからこそ僕は「ウインクが連れてきてくれた」という言葉を子どもじみた夢想などとは決して思わないし、それどころか今も胸を熱くしている。
 あの日、何も知らないガキだった僕はただ「優しかっ」た。どうしようもできなかった。でも、あれから10年以上経って、僕は大人になった。大人は、助けるべき者があれば、それを見逃さなかったのなら、責任を負っていかなければならない。僕はあの日の僕に、叱責されるのではないか? お前大人だろ、もっとちゃんとやれよ、と。
 あの日の僕には「優しさ」だけがあった。だとするなら、あの日と同じように優しいままで、その気持ちを忘れないで、どんな結果が待っていようと、責任持ってやっていこうじゃないかと、自らを鼓舞していくしかないじゃないか。僕はそういう思いを、あの日の思い出とともに書き留めておきたい。
 

 福岡から京都まで、長い長い道程を経てやってきた猫は、健康に今日も静かな家で暮らしている。名前は「まりん」になった。なった、というより来たときからその名前だった。僕の父親が既に命名していたのだ。
 父親はいつもそうだ。1匹目を飼うときから最初は反対しながら、結局は自分が一番かわいがっている。連れ合いのお父さんだって反対していたけれど、今では農家の仕事を以前より早く切り上げて毎日まりんをかわいがっているという。猫たちは、いつも僕らに優しさを与えてくれる。
 

#エッセイ #猫

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