舞い上がるコブシの花

 

 コブシの花びらが夢のようにひらりひらりと散っていくころには、暖かく静かな雨が降り始める。別れの季節だ。
 
 
約八年間付き合ってきた友人と別れた。彼の就職が、地元・福岡で決まったのである。
高校二年生のとき、同じクラスになった。そこからよく話すようになり、大学も同じ京都に決まり、いっしょに移り住んだ。そして、これまでずっと週一回は会ってきたのだった。彼の家で鍋をつついたり、ゲームをしたり、どこかへ飲みに行って、とりとめのない話をした。そんな時間を過ごしてきた。
友人は、僕とは正反対の学生生活を送っていたと思う。彼は特別に明るい性格でもないけれど、ニュートラルに、誰とでも仲良くなれた。要領がよく、イベントや展示にも積極的に参加していた。
僕はといえば、ガタイのよさがそのまま階級に直結するような高校が嫌でたまらず、京都に新しい何かを求めてやってきた。しかし、何をしていいかもわからずに、授業に出ている時間以外はずっと図書館にこもって本を読んでいた。
いまではその時間が悪いとは思わない。読むという時間が、いろいろな人への出会いにつながっていったから。でも当時は、活発な友人を横目にこのままでいいのかと、劣等感を抱いたりもした。こんな思いを持つなら、いっそ彼から離れたほうがいいのではないかと。
しかし、そういうときほど、不思議と友人から連絡はきた。ひとりでウジウジしている僕に対する、それは彼の優しさのように思えた。でも、彼は僕に心配の声や下手な説教などかけずに、対等に、いつもどおりに接してくれた。僕にはそれがなによりありがたかった。お前はお前だよ、と言ってくれているようだったから。そんな調子に、付かず離れずで、時は過ぎていった。
卒業後、僕は働き始め、友人は二年間留年することになる。状況は変わっても、やることは同じだった。むしろ、会う頻度は増えていた。いつもどおりいっしょに買い物に行ったり、ゲームをしたり、飲みに行ったりした。
友人は地元で就職が決まり一度帰省したあと、研修のため二週間だけ京都に戻ってきた。その連絡を聞いたとき、僕はいつもどおりに「○日と○日は空いてるから」と送った。そして、直後に気づいた。もう彼は学生ではない。そして、僕のように平日に休みがあるような仕事ではないのである。そんなことも忘れていた僕は、恥じる思いだった。
けれども、返事はいつもどおりに返ってきた。夜空いてるからどっか飲み行くか、と。そう、いつもどおり、いつもどおりに……

「別れ」があるのは幸福なことだと思う。友人と最後に会った夜、僕らはこれといった別れの挨拶を交わさなかった。少なくとも僕は、その必要を感じなかったのである。それは多分、この夜はとりあえずの「別れ」であり、終わりではないと感じたからである。彼がそう思っているかなんてわからない。しかし、この直感は不思議と通じているものである。つまり、いつだってどこだって、離れていても忙しくても、会いにいける、そんな「別れ」なのである。
君はどこにいるのか、僕はどこにいるのか。そんなことは大した問題ではないのである。連絡してもなかなか返ってこないとか、はっきりとした別れもなく別れるとか、それに対する誇大的な不安にまとわりつかれたりするのは、結局のところ、単純に信頼の欠如でしかないのだと思う。
もちろんもう会うことはない人もたくさんいる。物理的に会えない人も、精神的に会えない人も。数知れずしかし限りある出会いの中にひとりでも、どこでも会いにいけるよと思える人がいれば、人生は幸福なのだと思う。仮にその想いが「裏切られた」としても、自分の信頼を貶める必要はないのだ。俺達はきっと会える。根拠はないけれど、いつもどおりのことが、またできる。そう思える関係なら、「別れ」は少しもさびしくは無いのである。

静かな雨が降りやむと、名残の風とともに、本当の春がやってくる。ある人は残り、ある人は去っていく。それは、コブシの花が散るように? いや、やはり「散る」という言い方は適当でないだろう。彼は舞い上がったのだ。たんぽぽの種子のように軽やかに、しかしコブシの花の、白く強い羽根を持った姿で。どこかにあって、どこにでも見つかる居場所へ。



#エッセイ #コブシ #友達 #別れ

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